Chapter.016 ニルヴァーナ

 七之助はやみくもに走りながら昔のことを思い出していた。

 まだ恋愛感情も何も無い、ただの仲良し三人組だったころのことを――。

 剣はその優しげな風貌からよくいじめられていた。

 そしてそれを見咎めたゆみがいじめっ子を追い払うものの、結局は数の暴力に負けてしまう。そんなときキックボードに乗って颯爽と駆けつけるのが七之助の役目だった。

 あるときこんなことがあった。

「ねえナナ公。もういいよぉ」

 ゆみの悲痛な声が聞こえる。そのとなりにはただ狼狽えるばかりの剣の姿もあった。

 彼らが見上げるのは一本の大樹である。視線の先には梢に身を乗り出し、必死に手を伸ばしている七之助の背中があった。

 ゆみの足には片方の靴が無かった。それはいま七之助の指の先でぷらぷらと梢に揺れている。

「あと――もうちょい――」

 いじめっ子が投げたゆみの靴に目掛けて七之助がさらに身体を伸ばしたときだった。

「あっ!」

 三人が同時に叫び、足を踏み外した七之助が大樹の枝から落ちてきた。

 驚いた剣とゆみは慌てて七之助の側に駆け寄ると、彼は手にした靴をまるでトロフィーでも勝ち取ったかのように空へ掲げてみせた。

「大丈夫か、ナナ公!」

「あんたバカよ! こんなことして!」

 すると七之助は「へへへ」と笑って、ゆみに靴を手渡した。

「ふたりのことはおれがずっと守ってやるからな。おれはいつかスパイになるんだ――」

 少しばかりスパイの意味を履き違えていたあの日の思い出に七之助は心奪われる。

 するとまだ上手く動かせないアスガルド体が、ふかふかな土に足を取られて派手に転倒した。顔から地面へと突っ伏して口の中まで土まみれとなる。

 しかし味はしなかった。味覚が無いのだ。

 その過酷な現実を知って、彼は再び激しい感情に襲われた。


「ああああああああああああああああああああああ!」


 地面に叩きつけた拳に痛みを感じることは無かった。それがさらに七之助の心を悲しみで蝕んでいく。あらん限りの声で叫び続ける彼の胸裡に去来するものは、過ぎ去りし日の記憶ばかりであった。

 しかしすべてが嘘だ。まやかしだ。

 まるでビデオゲームの中のセーブデータのようなものだ。

 いまの自分にあるのは温かみのある記憶ではなく、極めてシステマチックな記録に過ぎない。この激しい感情すらも、偶然の産物が弾き出した計算結果でしかないのだ。

 どれだけ人道的な哲学や宗教でも、この真実の前には無力である。

 我々の存在はたったいますべて否定されたのだから。

 科学でさえも、元からある偶然をただ上からなぞっていただけだ。それで宇宙の秘密を解き明かすなど滑稽過ぎて笑いも出ない。

 こんな真実なら知りたくなかった。どうして自分は目覚めてしまったのだ。

 ずっと知らないままでいられたら、どれだけ幸せだっただろう。また『キングスマン』で酒を飲み、やりたくもないオカルトの資料を整理する日々に戻りたい――。


 ――君の常識はいまオカルトになった。


 七之助はふと名無しの言葉を思い出し、突如として冷めてしまった。

 胸にただ虚しさだけを抱きその場を立ち上がると、また幽鬼のようにひとり歩き始めた。あたりは見知らぬ植物で溢れかえっている。そのひとつとして元いた世界で見た覚えがない。

 ゼンマイやワラビといった山菜を思わせるものもあるが、とにかくデカイ。七之助は自分の背丈ほどもあるそれらを分け入ってゆく。

 また樹々の多くも裸子植物のような特徴があるが、どれもどの木とは特定しづらかった。

 中には綿の実をつけた種類もあり、どうやら名無しからもらった布切れはこの綿花から紡いだものらしい。

 だがいくら探そうともあるのは土と植物、それから水辺ばかりだ。岩場どころか石ころひとつ発見出来ない。ばかりか自分以外の生き物の気配もないのだ。鳥や獣はおろか、虫やミミズに至るまでおよそ動くものの姿がない。

 ふと冷静になって改めて思う――ここはどこだ、と。

 名無しは『アスガルド』だと言っていた。それは北欧神話における世界観のひとつで、アース神族が住まう王国の名だ。対して有限の命を持った人間たちが暮らす世界は『ミッドガルド』と呼ばれている。どちらも『世界樹』が内包する九つの世界のひとつであり、その最下層『ニヴルヘイム』には『世界樹』の根のひとつが伸びているという。

 なるほど上手く例えたものだと七之助は思った。

 しかし名無しはこうも言っていた。ここが一体どこなのかなんて分かっちゃいない――と。

 それを思い出した七之助は、自らの胸中にいつもの冒険心が芽生えてくるのを感じた。

「こんなときだってのに俺って奴は――」

 思わず頭を抱えつつも自らに苦笑した。

 しばらくそのまま散策を続けていると鬱蒼としたジャングルが開けて、美しい湖畔に出た。それはさっきの泉よりも三倍は大きく、透明な水面はきらきらと陽光を跳ね返していた。

 その只中に、七之助はひとりの少女の姿を見つけた。

 否、少女のイメージをまとわせたアスガルド体である。

 すでにこの身体には性別すら無いのだから。

 あまりの幻想的な光景にしばらく見とれていると、不用意に出した一足がその場にあった枯れ枝を踏んづけて「パキッ」と音を鳴らす。

「誰?」

 その音に反応した少女は、まだ育ちきっていない胸の膨らみを隠すこともなく振り向いた。頭部から伸びた長い繊維が、まるで銀髪のように揺れている。ロシア系のその顔立ちも相まって、ファンタジー世界から抜け出してきた妖精みたいだと七之助は思った。

 少女は七之助の存在に気付くと、水辺へと腰掛けチョイチョイと彼に手招きしてみせた。

「ごめん。私そっちに行けないの。もしお話する気があるならこっちに来てくれる?」

 そう言うと彼女はその美しい銀髪の隙間から例の『通信ケーブル』を持ち上げて「ほらね」と破顔した。管の先は水中へと伸びており、まだ切断されていないらしい。

 誘われるままに水辺へやって来た七之助は、彼女のとなりに座る。

 間近に見る少女の顔は、吸い込まれそうに無垢であった。

「君は――」

「ニルヴァーナ。ニーナって呼んで。あなたは?」

「七之助。梵門 七之助……でももう名前なんかあったって何の意味があるんだか……」

「あら。あなたは自分の名前が嫌い?」

「そうじゃないけど――分かるだろ? ここのひとなら」

「ふむ」

 彼女は小首を傾げた。そんなあざとい仕草もどういう訳だか彼女なら許せる気がした。どうやら怒りすぎて麻痺していたほかの感情が、ようやく七之助の中に蘇りつつあるようだった。

「私はから『ミッドガルド』のことはよく知らないの。でもあなたがそう思うのならきっとそうなのね」

「生まれてない? それってどういう――」

「ねえ! そんなことよりもさ」

 彼女は七之助の言葉をさえぎって身を乗り出した。額から滴り落ちる水滴が胸元へと伝ってゆく。それを目で追う七之助に「どこ見てんの?」と無垢な瞳で問い掛ける。

 七之助は柄にもなく少し狼狽えた。

「生きてるってどんな感じ? 七之助はどんなことして生きてきたの?」

「生きる――か……」

 七之助はもう一度己の過去を振り返った。感情にまかせるでも無くただ淡々と。そこにはひとつの結論として「生きている実感」というキーワードがあった。思えばずっと感じていた虚無の正体が、この真実の世界にあったのではないかと。

「分かる訳無いよ……ずっと生きてる感じなんかしなかったんだから――」

「え?」

「俺は生きてなんかいなかった。ただの電気信号の塊だったんだと。俺だけじゃない。あそこで生きていたすべての人間が……『命』が。すべてたまたまそう見えてたってだけなんだ――」

 ニーナはただ静かに彼の言葉に耳を傾けている。

 怒るでもなく微笑むでもなく。

 その美しい妖精の表情を崩さぬまま。

「生きてるって何だ? 人生って何だ? 本当は何も無いのに、そう思わされていただけじゃないか! 仮想現実なんて言葉じゃまだ生易しい。あそこはただの……監獄だ……」

 心に虚しく風が吹く。

 自分たちの存在がただの電気信号に過ぎないという事実。それを知ってからずっと抱いていた恐怖と絶望を吐露すると、ただの虚無感が襲ってきた。

 空っぽな自分に気付いてうなだれていると、ニーナはそんな彼をきつく抱きしめた。

「そうじゃないわ七之助」

「え――」

「あなたには大事なひとがいるんでしょ?」

「大事な……ひと……」

 七之助の脳裏にはすぐにあのふたりの姿が浮かんだ。そして家族が、恩師が、世界中にいる彼の友人たちの顔を思い浮かべた。

「あなたのこれまでの思い出は全部嘘? そうじゃないでしょ。楽しかったことも悲しかったことも、辛かったことも感動したことも、全部あなたは覚えてる。それが全部嘘なら、あなたはこんなにも苦しんだりしない」

「ニーナ……」

「たしかに『ミッドガルド』はただの仮想現実かもしれない。でもそれが何? そこに私の大事なひとたちがいて、そのひとたちとの大切な思い出があるなら、そこは私にとっての現実世界だわ。たとえ私たちの正体がシミュレーション上で処理されたデータだとしても、それが『命』じゃないなんて誰に決められるというの」

「そ、それは……」

「まだ生まれてもいない私が言うのもなんだけど、人生舐めてんじゃ無いわよ! そんなことで揺らぐほど世の中は甘くないの!」

 ビシィっと突きつけられた彼女の指先に、七之助は言葉を失う。

 それが正論なのか詭弁なのかも、もはや判断がつかなかった。

 ただ彼女の力強い言葉に心動かされた自分がいることに気付き、彼は『アスガルド』をもう一度眺めてみた。すると鬱蒼と険しいだけだったジャングルが、美しい森に見えたのである。

 彼の中で同一の事実が、新たな真実へと生まれ変わった瞬間であった。

 

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