Chapter.015 水槽の中の脳

 死んだはずだった。

 自分はあのロックカンパニーの社長室で藤 峰子の手により三発の凶弾に倒れたのだ。激しい痛みと息苦しさを覚えている。間違いなく死んだのだ。

 そこから目覚めたのだからやはりここは死後の世界なのか。しかしこの名無しによく似ている宇宙人モドキは言った。ようこそ現実世界へ――と。

 七之助の胸裡にあふれかえる疑問符の数々は、どれひとつとっても彼に有効な答えを導き出してはくれない。しばらく絶句していると例の宇宙人モドキは優しく語り掛けてきた。

「まずは水辺に座りたまえよ。いつまでも水に浸かってたんじゃふやけてしまう」

 そう促されるままに七之助は立ち上がったが、脚に力が入らない。結局、宇宙人モドキに脇を抱えられるようにして泉を抜け出した。気が付けばいつの間にか緑の巨人も水辺に座って腕組みをしていた。物言わず静かにこちらを窺っているようだ。

 あらためて見る宇宙人モドキの身体は巨大だった。名無しもかなりの長躯だったが、その比ではない。顔こそ人間そっくりではあるが、それ以外はやはり別物のようだ。緑の巨人に関してはもはやRPGに出てくるモンスターのようにしか思えない。

「本当に……局長なんですか……」

 ようやく絞り出した言葉がそれだった。数々の疑問の中でも手っ取り早く答えが出そうだったからである。まずはこの世界と対峙するための取っ掛かりが欲しかった。

 すると彼は無言で首肯し、どこからか取り出した小さな布きれを七之助に手渡してきた。身体を拭け、ということらしいがこれではどうにも小さ過ぎる。

「大事に使ってくれよ。ここじゃそんな小さな布を一枚織るにも一苦労なんだ」

「ここ……そうだ……ここはどこなんですか!」

 七之助は名無しに掴み掛からんばかりである。

「まあまあボンドちゃん。気持ちは分かるが諸々と後回しだ。まずは禊を済まさないと」

「みそぎ……?」

 そう言うと名無しは七之助の後頭部をまさぐり始めた。するとそこから伸びている管状の何かを手繰り寄せる。管は泉の中へと引き込まれており、名無しが手繰り寄せるとズルズルと水中から伸びてきた。

「な、なんすかこれ! こんなん頭に繋がってんすか、いま!」

「まあ通信ケーブルとでも思ってくれたまえよ。これを引っこ抜かないといつまでも君の死体があっちに表示されたままになるからね」

「死体が――表示? 引っこ抜く?」

「よし出来た」

 名無しは七之助から伸びている管状のものを、彼の膝を当たりの長さで切断した。ちょうど節くれだった部分があり、そこを引っ張ると容易く管は分断されたのだ。

「痛くは無かったろ? この身体には痛覚が無いんだ」

 そう言うと名無しは引っこ抜いた管状のものを泉の中へと投げ入れた。七之助はさっきまで自分とひとつだったものが水中へと没していくのを眺め、不思議な気持ちになっていた。思いの外落ち着いている自分に気付き、ゆっくりと名無しを仰ぎ見る。

「局長――俺は一体どうなったんですか? ここは……どこなんですか……」

 七之助があらためて尋ねると名無しは彼のとなりへと座り、はるか遠くにそびえ立つ山のような巨大樹を指差して「見たまえ」と言った。

「『世界樹』だ。あれの正体が一体何であるかにせよ、我々はそう呼ぶ以外の知恵を持たない。だからここを便宜上『アスガルド』と呼んでいる」

「べ、便宜上?」

「そうだ。ここが一体どこなのか。あれが一体何なのかなんて分かってやしないんだ」

「じゃあ現実世界がどうのってのは――」

 名無しは一度言葉を切ると泉の周りに植わっている手近な樹木にそっと触れた。まるで樹木と会話をしているかのように、垂れ気味の瞳を閉じる。

「『木』は不思議な生き物だ。我々の元いた世界でも大気を生み、水を循環させ、炭素を貯蔵しているとされている。ことにその根っこはあまりの複雑さからある種のカーボンファイバーネットワークを形成し、膨大な情報のやり取りをしていると言われている」

「局長?」

「ましてやあの『世界樹』だ。その根にどれほどの情報を蓄えているかなど計り知れない」

 視線の先には常識をはるかに超越した巨大樹が屹立している。その根っこともなれば確かに大陸ひとつを飲み込むくらいの広大さを有していると言われても不思議ではなかった。

「情報と言ってもただの信号さ。意図してプログラミングでもしない限り、通常そこに『何か』など発生しないものだよ。でもね。悠久とも思える膨大な時間を掛けあらゆる奇跡的な条件が重なり『それ』は起きた――」

「局長……すみません、さっきから何を言ってるのかさっぱりで」

「じゃあ少しオカルトの話をしようかボンドちゃん」

「オカルトの?」

「そうだ。君がこの半年間で培ってきたオカルト知識の中で、我々の生きている世界がじつは巨大なコンピュータ上に作られた仮想現実だった――なんて話を覚えていないかい?」

「シミュレーション……仮説……」

 それは古くからある思考実験のひとつである。

 かつてアメリカの哲学者ヒラリー・パトナムは「人間の脳を身体から取り出し神経細胞をコンピュータへと繋ぎ、電気刺激による操作を行えばそこに意識が生じ、現実となんら変わることがない仮想現実が生み出されるのではないか」と考えた。

 いわゆる「水槽の中の脳」という話である。

 コンピュータによる情報処理の発展が目覚ましい昨今においても、この思考実験は多くの科学者や哲学者を魅了してやまない。ましてや現実と見紛うばかりのVR技術の進化により、この説の現実味は日増しに加速していっている。過日、某金融機関のシンクタンクが「我々は五十%の確率で仮想現実の中に生きている」という驚くべき研究結果を発表したことは記憶に新しい。

 しかし多くの創作物においてこの説は、我々の世界が仮想現実だとして「その外側」に支配的立場の何者かを設定し、彼らが組み立てた「プログラム」の中で生活をしていることになっており、仮想現実を生きる我々にはそれを知覚することが出来ないとされている。

 ならばここはどうか――。

 いま七之助の目に見えるものは『世界樹』と密林。そして泉に土だ。これだけのジャングルだというのにほかに動物はおろか岩石すら見当たらない。

 およそ文明の息吹を感じないこの世界において、果たして仮想現実など可能なのか。

 七之助は与えられた情報の中で、必死に答えを見つけようと足掻いていた。

「根だよボンドちゃん。『世界樹』の根だ。そこに我々の元いた世界はある」

「『世界樹』の根……」

「それを我々は北欧神話になぞらえて『ニヴルヘイム』と呼んでいる。まさに惑星規模にまで広がった根のネットワークの中に、様々な条件が奇跡的に重なって偶然生まれた仮想現実世界、それが我々が元いた世界『ミッドガルド』だよ」

「な――」

「信じられない気持ちは分かる。だけど前に言ったよね。オカルトは嘘っぱちなんかじゃない。ただ時代に合わなくなっただけだと。たったいま君の中の常識が、すべてオカルトになった。これが真実の世界なんだよ、ボンドちゃん」

 このときの七之助を未来の彼が見たらどんな顔をするだろう。笑うだろうか、怒るだろうか、悲しむだろうか。あらゆる感情がないまぜとなって浮かんでは消えてゆく。受け入れられるキャパシティはすでに限界を超えていた。

 これが現実?

 じゃあいままでの人生は一体何だったのか――。

 スパイ映画に憧れた少年時代や訓練に明け暮れた日々は?

 世界中を旅してまわり、ひとの優しさと強さに触れた幸せな思い出は?

 親を泣かせてしまい、死ぬほど反省したあの気持ちは?

 そして――。

 失恋に胸焦がした束の間の青春時代は――。

 すべてが嘘か。幻か。

 たかが電気信号の瞬きのひとつに過ぎなかったのか。

 オンとオフとの狭間に生じた情報処理の結果でしか無かったか――。

 あまりにも虚しい。あまりにも身も蓋もない現実。

 だったら俺たちは何故生きているのか。

 そんな詮無いことに思いを巡らし七之助は、自分が泣きたくとも泣けない身体になってしまったことを知った。

「この……身体は……」

「アスガルド体と呼んでいる。この身体は『ニヴルヘイム』から分離した『世界樹』の根だ。偶然にも『個人』を処理するネットワークのすべてが集中して人体を模した端末となったようだ」

 名無しは自らの頭部を指差してそう言った。

「さっきの禊で君は完全に『ニヴルヘイム』から独立した。これで命ある限り『アスガルド』で自由に動くことが出来るようになった」

「……それでも……ただの信号なんだろ」

「ボンドちゃん?」

「さっきから聞いてりゃ偶然、偶然ってよ。何なんだよ一体……俺は……俺は……」

 七之助は走り出した。

 名無しの制止も振り切ってただ気持ちの高ぶりに背中を押されるままに。

 身体はまだ自由に動かない。脚はもつれ前につんのめる。何度も何度も土に突っ伏し、それでも立ち上がって駆けていった。

 どこを目指しているかなど分からない。どこまで走れば気が晴れるのかも分からない。

 ただただ走らねばこの感情を鎮めることなど出来そうになかった。

 爆発しそうな心を解放すれば、また人間に戻れるのではないかと思ったのだ――。

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