第三章 ユグドラシル

Chapter.014 胡蝶の夢

[ 3 ] ユグドラシル


 またあの夢を見ている。

 はっきりとした輪郭を持たない緑色の世界だ。まるでモザイクアートにでも塗り込められたかのように、ついに自分との境界も無くなってしまったようだ。きっとこれが死というものなのだろうと――彼はそう感じていた。

 ひとは死の間際に走馬灯を見るというが、随分あっさりと死んでしまった自分にはそういった気の利いたサービスは無いらしいとひとり憤慨していたところだ。


 ――私、タマキンと付き合うことにしたらから。


 おいおいおい。よりによってあの頃の記憶は無いだろう、と。

 死人も飛び起きんばかりだったが、身体は一向に動いてくれない。視界は相変わらず緑色に覆われ、その中をゆらゆらと何かが蠢いていた。

 走馬灯は彼の意思とは無関係に、容赦無く過ぎ去りし日々の思い出を辿った。


 ――あんたは目を離すとすぐどこかへ行ってしまうから。私は側に居てくれるひとがいい。


 同時にふたりの親友を失った気分だった。

 例えようのない悲しみの果てに、彼は空っぽになった自分という器を満たすため己を鍛え上げることにのめり込んでいく。危険に身を投じている間は「生きている実感」があった。何かに集中している間は無心でいられた。

 だがそれも大学四年の冬までだった。


 ――赤ちゃん……出来たみたい。ケンちゃんの。


 そうはにかむ彼女の笑顔に、すべてがどうでも良くなった。世界中で祝福してきた誰かの誕生が、これほど苦しいと感じたのは初めてだった。

 それも自らの分身とも思える大切なふたりの幸せなのに。

 ずっと許せないでいた。

 心の底から「おめでとう」と言ってあげられなかったあの日の自分が。

 スパイも人生も、もうどうでもいいと――彼は地元の中小企業へと就職した。一度起こしたやんちゃの虫も、それほど本気ではなかったのだ。

 でも生まれてきた子供は可愛かった。それは目に入れても痛くないほどに。

 だからそろそろ自分を許してやってもいいと、そう思えた矢先だったのに――。


 走馬灯が終わりを告げて、彼は己に死期が迫っているのを知った。

 さっきまで感じていた灼熱のような痛みが消えてしまったからである。その代わりに鉛のように重かった身体がいまでは翼が生えたかの如くだ。

 どこまでも飛んでいける――そう思った。

 あのおぼろげに見える緑色の向こう側には、一体何が待っているというのだろう。

 このまま消えゆく意識にそっと身を委ねてしまえばきっと行ける。

 そう確信して考えるのをやめた。

 さよなら――。

 誰に言うでもなく、そう口にしたときだった。


『    』


 どこからともなく声が聞こえた。

 いつも聞こえるあの声だ。

 夢の中で目覚める直前に聞こえるあの異国の言葉である。


 ――もうダメだよ。撃たれたもん。


 さすがにこれは夢では無い。それは自分が一番よく知っている。「生きている実感」のしないあのクソったれな世界のきわに立っているのだ。最後の最後までリアルじゃない。こんな声が聞こえるなんて。


『              』


 言葉が変わった。彼はそれを感じると、いつの間にかおぼろげだった緑色の視野が徐々に輪郭を成していくのに気付いた。

 手だ――。

 ほっそりとした五本の指を持つ大きな手のひらが目の前にある。

 身体に浮力を感じた彼は、その手を掴もうと必至に己の手を伸ばした。


「目覚めよ。汝、立ち上がる勇気はあるか」


 七之助はその言葉に導かれるまま目を見開いた。

 まず目に飛び込んできたのは、天を埋め尽くすかのようにそびえ立つ巨大な一本の大樹だ。

 幹の太さは惑星を思わせ、枝葉は無限の宇宙へと伸びてゆく。

 かつて経験したことが無い巨大さに七之助のスケール感は崩壊していった。

「な――なんだあれは……」

 まるでおとぎ話の世界のようだ。あんなものが現実に存在する訳が無い。それこそここ半年間、嫌というほど調べさせられたオカルトの領域である。

 しかもあれは北欧神話に出てくるような、名前をたしか何と言ったか――。

「あれが『世界樹』以外の何に見えるっていうんだい、君は?」

 七之助が言葉を失っていると、突如としてその言葉は投げ掛けられた。

 まさに至近距離だ。耳のすぐ側から聞こえてきた。ギョッとしてそちらを振り向くと、そこには未知の生物が微笑んでいた。

 頭部と思しき部位があり四肢がある。おおむね人類と言って差し支えない容貌をしているが、明らかに異なる点がひとつだけ存在した。肌の色とその質感だ。

 うっすらと浮かび上がる淡い緑色とプラスティックのような滑らかさ。

 見ようによっては宇宙人と言って差し支えないだろう。

 そんな奴が自分に微笑み掛けているのだ。いくら傍若無人な彼とて恐ろしくない訳が無い。

「うわっ――うわあああっ!」

 まだ自由の利かない身体で彼は必至に後退った。そのとき自分が小さな泉のようなところに浸かっていたことを知った。そして右手を眼前の宇宙人モドキにしっかりと掴まれていることに気が付いた。まったく感覚が無かった。水に浸かっていたことも手を掴まれていたことも。

 それは気が動転していたからというだけでは説明がつかなかった。

 淡緑色の手はいくら暴れても振りほどけない。ばかりか七之助は、闇の中から新手の影がうごめいているの見つけてしまったのだ。それは巨体を揺らし泉へと入ってきた。辛うじて五体を有しているが明らかに人間ではない。肌はひび割れた樹皮のように分厚く、手足は丸太のようである。鈍重な動きではあるものの確実に近づいて来た。

 ――もうダメだ。

 七之助が諦め掛けたそのときだった。

「落ち着きたまえよボンドちゃん。彼女は味方だ」

「ボンド……ちゃん……?」

 かたわらに居た宇宙人モドキの言葉に七之助は愕然とする。なぜなら彼をそう呼ぶ人間はこの世にただひとりしか存在しないのだから。

「き、局長?」

 はっきりとした西洋風の顔立ちに優しげでタレ目がちな瞳。彼が言うように少し落ち着けば気付くことは山ほどある。

 彼が『世界樹』と呼んだ巨木がはるか遠くにあること。

 自分の浸かっている泉がアマゾンをもしのぐ高度を持った密林の只中にあること。

 そして何より自分自身の身体もまた淡緑色に覆われた人外のそれになっていること。

 それから――。

「おはようボンドちゃん。やっと来たね。こっち側へ」

「こっち側?」

 名無しによく似た宇宙人モドキは「そう」と一度短く肯定すると、こう続けた。


 ようこそへ――と。

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