Chapter.008 ジェームズ商会のボンドⅡ

「いいね。実にいい」

 プリントアウトされた指令書を前にして七之助はしごくご満悦だった。

 一方、ひと仕事終えた雨衣はコンビニのシュークリームをお茶請けにコーヒーをすすっている。七之助が興奮している分、シーソーの原理で彼女のテンションは低い。

「ダメだからね」

「なにが?」

「だって――やるつもりでしょ」

「やらいでか! こういうのを待ってたんだよ俺は!」

「ダメだよ。局長に相談もせずに勝手に引き受けたりしたら。ホウレンソウは社会人の基本でしょ。大体、七之助クン、まだスパイでもなんでもないじゃない」

「報告? 連絡? 相談だぁ? 違うね。男には決断だけあればいいんだ。ケツオンリーなのだよ雨衣ちゃん!」

「男……けつ、おんりー……」

「そう。それにアレだよ。たかだか盗聴器仕掛けに行くだけの簡単なお仕事だよ。わざわざ出張中の局長呼び戻すほどでもないと思うなー。飛行機代だって馬鹿になんないし」

「飛行機代か……そうねぇ。燃料代の高騰でまたぞろサーチャージ上がってるし、マイルはいまいち貯まらないし」

「だろ? やるしかないって雨衣ちゃん」

 結局なし崩し的に本部からの依頼を受けることになった『WTO』日本支局は、局長であるエージェント“名無しの権兵衛”抜きに行動を開始した。

 まずは本件のターゲットであるロックカンパニー株式会社について。

 同封されていた別途資料によると、主に東南アジアで活躍する貿易会社とある。代表取締役の岩田 幸雄は、現地では絶大なる影響力を持っているらしい。

「主力の輸入商材はフルーツ、酒、電子部品。マレーシアの富裕層向けに国産自動車の輸出なんかも手がけてますね」

「地域の経済を一手に回してるって感じだな。そりゃ影響力も強かろう」

「というよりもブラックマーケットの出先企業として有名みたい。表向きの商売よりもっと手広くやってるの。関税を迂回した嗜好品とか、ドラッグとか」

「――人間とか」

 七之助の言葉に、雨衣の表情が固まった。

「ま、またまたぁ。七之助クン変な映画観すぎぃ」

「世の中ロクでもない人間で回ってるよ実際。もう嫌んなるくらいにね」

「七之助クン?」

「どっかで止めてやらにゃ。力ずくでも何でも」

 七之助の脳裏にはダガーの笑顔が浮かんでいた。そこに投影されるのは、かつて世界中を旅したときに出会った少年少女たちの怯えた姿だった。その日食べる金もなく、親はアルコールに蝕まれて。

 引くことも前に出ることも許されないのが彼らの人生である。やりきれなかった。彼らに何もしてやれなかったことがではない、自分のほうが裕福だからと彼らに何かを施してやろうと思った心の浅ましさがである。

 彼らと自分との間にどんな差があるというのだろう。

 取り除かねばならない障壁は個人にあるのではない。世界にあるのだ。

 その壁がなくならない限り、根本的な解決にはならない。

「雨衣ちゃん。この会社の社員データとか手に入らないかな。できれば個人の営業成績とかも分かるやつ」

「ウーン。そういうのは部外秘だから独立したセキュリティのついたサーバーに入ってると思うけど。……見たい?」

「よろしく」

「しょ、しょうがないなぁ」

 口ではそういっているものの、はたから見ても結構ノリノリなのは明らかだった。

 彼女は席を立つとおもむろに、オフィスの隅っこにある三連モニターの設置された作業机へと向かった。

 七之助が不思議そうにあとを追うと、雨衣は再び猛烈な勢いでキーボードを打鍵しているところだった。しかも今度はモニターの数が三倍である。

「雨衣ちゃん。さっきのパソコンじゃダメなの?」

「ちょっとマシンパワーが足りないからね。目標へのアクセス速度は速ければ速いほどいいし。こっちのスペックなら問題ないわ。なんたって私が一から組んだんですから」

「組んだってなにを?」

「だからパソコンを」

「どこに?」

「――ここに」

 そういって雨衣は三連モニターの置かれた作業机の横にある、大きな金属製の箱を指差した。すると七之助は驚いたような顔をして、その温かい金属を撫でたのである。

「冷蔵庫だとばかり……」

「ばか」

 雨衣は三度ハイスピードタイピングを開始する。

 待つこと十分、三枚のモニターにはそれぞれロックカンパニーの全社員を顔写真入りで掲載した内部機密書類が映し出された。

 社長の岩田をはじめとする幹部はもちろんのこと、末端の事務職員に至るまで総勢約四百名の人事資料である。

 それを眺めながら七之助は何やら思案げであった。

「違うな……次のページ出して」

「誰を探しているの?」

「中間管理職。比較的温厚で臆病なヤツ。窓際だが出世を諦めきれずに周りの評価を気にするタイプ。それに内弁慶だとやりやすいな」

「な、なにするつもりなの?」

「営業をかける!」

「営業?」

「アポが取れるまでシラミ潰しって手もあるんだが、あんまりがっつくとすぐ社内報が出回るからなぁ」

「七之助クン。ちょっと作戦教えてくれる? 分かんないとサポートできない」

「でも雨衣ちゃん局長に黙ってやるの反対なんでしょ?」

「いまさら何言ってんの。とっくに腹くくったわよ」

「さっすが。それでこそ大和撫子」

 ここ半年で雨衣の性格は大分掴んできた。七之助は内心ほくそ笑む。

 彼女は規則に厳しい。だが無機質な正義感を振りかざす人間ではない。むしろ不器用な相手に優しいタイプだ。半面、怒らせると手がつけられない。

 おだてに弱くて家庭的。そのうえ面倒見もいいときているのだから、これは完全なるヒモ男製造機だ、なんてことは口が裂けても言えない。

「作戦というか何というか、正面から行く。わざわざリスク背負って忍び込まなくても向こうが招き入れてくれるのが一番手っ取り早い」

「おおー」

「まずは押しに弱そうなヤツに営業を掛けて、上手くいけばアポを取る。社屋に入ってしまえばこっちのもんさ」

「もしアポが取れなかったら?」

「そこで雨衣ちゃんに頼みがあるんだけど――」

 七之助は雨衣に耳打ちした。

 たったふたりしかいない広いオフィスでこの行為に何の意味があるかは不明だが、とにかくいまはそういうことがしたかったとしか言いようがない。

 七之助はここ数年来なくしていた「生きている実感」を取り戻している。

「うん。できるよ」

「よし。プランは決まった。あとはミッションだ」

「それからさっきの人選なんだけど。このひとはどう?」

 雨衣が選んだのは中央モニターの隅っこに映っていた禿頭の小男だ。写真からでも分かる卑屈な表情と、実年齢よりも老けた見た目。

「総務課の係長か――いいでしょう」

「じゃあ決まりだね」

「ミッションスタートだ」

 七之助は雨衣が用意したスマホを受け取り、おもむろにネクタイを緩めた。

 二度三度喉の調子を見るため咳払いをすると、電話をかけ始める。

 ――おはようございます。ロックカンパニー株式会社でございます。

 ツーコールのあと受付嬢の爽やかな声色がスマホから聞こえたのと同時に、七之助は表情を変貌させた。いつもの精悍な顔立ちから――おちゃらけた愛想のいい営業マンのそれに。

「おはようございます。わたくしジェームズ商会の梵門ともうします。お忙しいなか失礼かとは存じますが、総務課の大森係長にお取り次ぎ願いたいのですが――」

 独特な抑揚をつけて一気に巻くしたてる、やけに軽妙な言葉遣い。梵門 七之助の精神は半年前のリーマン時代に戻っていた。

 それを目の当たりした雨衣は両手でお腹を押さえている。

 声がもれないように、ただ笑いをこらえるので精一杯だった。

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