第二章 エスピオナージ

Chapter.007 ジェームズ商会のボンドⅠ

[ 2 ] エスピオナージ 


 ゆらゆらと揺れる陽炎のように。

 あるいは水底から見上げた月のように。

 ひとつして確かな輪郭を持たないそれは、幼少の頃よりずっと七之助の脳裏にあった。

 濃淡様々な緑色を背景に、ぼやけた視界にはなにか巨大なものがそびえ立っている。

 塔? 山?

 いつも答えは出なかった。

 それが夢だと自覚するのは決まって目覚める直前のこと。

 見知らぬ言葉で問いかけられる『   』と――。

 消えかける意識のなかで、なにかがうごめいた。

 七之助はそれを必至で掴もうとするが、どうしても身体が動かない。

 そうやって目が覚める。

 その夢を見た朝は決まってひどい倦怠感に襲われるのだ。特に昨日はしたたか『キングスマン』で飲んでいる。ゴロツキどもを懲らしめた高揚感に、ついつい羽目をはずしすぎた。我ながら無様である。それさえなければあのナタリー・ポートマン似の女性とも――。

「マチルダ!」

 レオンのときに演じていた彼女の役名を口走りながら、七之助は飛び起きた。

 夢の世界から帰還した彼がまず目にしたものは、明らかに自分の部屋とは異なるパステルカラーの壁紙である。

 次に太ももあたりにおよそ十キロの温かい重みを感じると、まるで紅葉のように小さな手のひらが起き抜けで呆けていた七之助の頬をビンタしたのだ。

「まんま、まんまぁ!」

「ダガー?」

 七之助の膝のうえで上機嫌になっていたのは玉木 蛇我亜。剣とゆみの間に生まれた一歳四ヶ月になる長男である。ぷっくりとしたほっぺと大きな瞳は母譲りだが、気の毒なことに父親から天パーの遺伝子を受け継いでいた。

「ダガーちゅわ~ん。おいたんのこと起こちにきてくれたのぉ。えらいでちゅねぇ」

「なーな。なーな」

 ダガーが七之助の顔をペチペチと叩いている。パパママより先に「なな」を覚えさせた七之助にとって、ダガーは文字通り目に入れても痛くない。

「ん。分かった分かった。起きる起きる――」

 そういうと七之助はダガーを抱っこして布団から立ち上がった。

 どうやら全く記憶にないが『キングスマン』で潰れたあとタマキンが家に泊めてくれたらしい。いまさら遠慮する仲でもないので特に迷惑を掛けたとも思わないのだが、小さな子どものいる家に酔っ払いが我が物顔でいるのも教育上良くないなとは反省している。

 しばらくボケっとしていると、寝間着姿で歯磨きしながらゆみが部屋へとやってきた。

「あらおはよう。ダガーのおむつ大丈夫?」

「――まだ大丈夫。タマキンは?」

「ランチ営業の仕込み。ていうかあんたこそ大丈夫? スパイって始業時間あんの?」

「は? いま何時?」

「九時」

「だーもう起こせよー! 完全に遅刻じゃーん!」

「わたしゃおまえの母親か」

 七之助はダガーをその母親へと返し、取るものも取りあえず玉木宅を出た。

 幸い偶然にもタマキンの家から『WTO』日本支局の間借りする雑居ビルは、電車で二駅ほどの距離にあった。もっといえば『キングスマン』とは目と鼻の先である。大急ぎで行けば三十分と掛からないだろう。

 だからといってすでに確定している遅刻が免除されるわけではないのだが。

「す、すみません。寝過ごしました……」

 もはや七之助の専用個室と化している資料室ではあるが、まずはそのお隣にあるオフィスへと顔を出さねばならない。広さで言えば資料室の五倍はあろうか。いま七之助が、出勤早々に頭を下げている場所こそ『WTO』日本支局の事務所である。

 敷き詰められたフロアカーペットのうえにはスチール製のデスクが十台。閑散としている中にも、雨衣が育てている観葉植物や花が職場に色を添えている。

 また部屋の片隅にはオフィスに似つかわしくない冷蔵庫や謎の電子機械があるが、出退勤の記録くらいしか用事のない七之助にはどうでもいいことだった。

「すみませんでは済みません。ウチは外資系ですけどフレックスじゃないんですから、もっと緊張感を持ってください。大体なんですか、お酒の臭いまでさせて。どうせスパイなんてワケわかんないことやってる所だからって甘く見てるでしょ」

「や、決してそんなことは……」

「はいかいいえで答えなさい」

「……はい」

「よろしい。では仕事に戻りなさい」

 雨衣は時間にとても厳しい。かつて名無しが、新しく『WTO』入りした七之助の歓迎会に遅れてきたときなどは、その間中ずっと正座させられていたほどである。

 雨衣を怒らせてはいけない――この組織に入ってまず七之助が覚えたことだ。

 さて仕事に戻れと言われたものの、七之助のやることといったら山のようなオカルトの資料を分類別に仕分けして精査。実証可能かつ世界平和に役立ちそうな情報を選別して本部に再調査を要請する。この繰り返しだ。

 それでも形だけとはいえ広いオフィスに専用のデスクをひとつあてがってもらっているのだから、まずは朝イチのメールチェックでもしなければなるまい。

 七之助はサラリーマン時代からこのメールチェックというのが嫌いだ。まず面倒。そして電話でいいだろうということまで書面にして送れと言ってくる。かと思えば重要な案件に限って、必着時間を間違えて送ってくるのだ。

 この問題に関して七之助は過去の定例会議においていくつか改善案を提出した。

 彼の意見はLINE世代を中心に爆発的な支持を得たが、この手の紋切り型のシステムをありがたがる管理職たちの猛反発を受け却下された。

 悪いのはツールではない。使いこなせていない人間のほうである。

 などとリーマン時代の苦い思い出と共にパソコンを起動すると、確認するのを億劫がって溜まってしまった三日分のメールがずらりと並んでいた。

 そのほとんどは再調査要請に対する本部からの回答である。やれ再調査を実行するには動機が足りないとか、やれ予算が足りないとか、スタッフが足りないとか。だったら俺に行かせろよと文句のひとつも言いたくなる。

 机に顎を乗せながら、うんざりする数のメールを消去する。しかしその中に一通だけ、見慣れない件名のメールがあった。

「ん? なんだこれ」

 クリックするとパスワード入力の画面が表示された。

「雨衣ちゃ……崇道さん」

「なぁに?」

 どうやら怒りはもう収まっているらしい。

 だがいまはそんなことを気にしているひまはなく。

「なんだろう……これ」

 すると雨衣は「なによもう」と悪態をつきながら七之助のデスクへとやってきた。そしてパソコンの画面をみるやいなや「あー」と感情のこもっていない返事をした。

「これはエージェントへの任務要請です」

「任務要請?」

「そう。読んで字のごとく本部からお仕事の依頼です。いつもなら局長宛に届くんですけどね。どうしちゃったんだろ。送信ミス?」

「そんなことはどうでもいいよ。開けようよ」

「え? ダメだよそんなの。局長、出張でいないもん」

「急ぎの案件かもしれないじゃん! 開けようってば!」

「でもー」

「デモもプレゼンテーションもねえ! いつ開けんの! いまでしょ!」

「わーん。ちょっと古い~。でもちょっとだけ面白かったから特別に開けてあげる」

「よっしゃ!」

 雨衣は七之助のデスクに腰掛けると、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。

 次々と現れては消えてゆくウィンドウのスピードに、七之助の目は正直ついていけなかった。

「いまなにやってんの、これ」

「クラッキング」

「はぁ?」

「七之助クン、局長宛の本部のパスワード知らないでしょ?」

「うん」

「私も知らない。だからプロトコルくんに聞いてます――っと」

 彼女がパソコンをいじり始めてからおよそ三分。パスワードの入力フォームに十桁のアスタリスクが並んだ。閲覧可能となったメールには「Good Morning John Doe」のメッセージと共に、『WTO』日本支局への指令書が添付されていた。

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