Chapter.005 キングスマン

 とりあえず生という注文方法は、ビールに失礼だという意見がある。

 が、七之助にとってはそんなこと知ったこっちゃなかった。

 うまいもんはどう頼もうがうまいのである。

「んぐ……んぐ……かぁ~! うまい! おいタマキン、おかわり!」

 キンキンに冷えた中ジョッキで生ビールを胃の腑へと流し込んだ七之助は、テカテカとした顔をほころばせてカウンターへと追加を頼んだ。

「あいよ」

 返事をしたのはカウンター越しにシェイカーを振る、ひとりの青年である。

 優しげな細面の顔にゆるいパーマがよく似合っていた。

 彼の名は玉木 剣たまき つるぎという。

 昼には洋食を出し、そして夜には洋風居酒屋になるこの店『キングスマン』のオーナー兼マスターである。彼には大きく分けて三つの呼び名があった。店のお客さんを含めて比較的最近知り合ったものにはマスターと、高校時代の喧嘩仲間からは狂剣きょうけんと、そして幼なじみたちには名字をもじってタマキンと呼ばれている。所詮小学生のネーミングセンスなどこんなものだ。

 しかし彼をそう呼ぶものはこの世に三人といない。ひとりはいまカウンターで二杯目の中ジョッキをうまそうにあおっている。そしていまひとりは彼の嫁・ゆみだ。

 三人は地元の幼なじみである。

 剣とゆみは中学の頃から正式に付き合いはじめた。その頃の七之助といえば年に数回、単身渡米し実銃競技へ参加するための訓練を開始していた。年齢制限があったので、それまでトレーニングに明け暮れる。

 剣は高校時代にバイクにハマり、好まずとも悪い輩によく絡まれた。しかし小学生の頃から、合気道を嗜んでいる七之助と互角に渡り合っていた彼にとって、敵はほぼ皆無だった。

 一方アリゾナの大地で密猟者と戦っていた七之助は、高校の出席日数が足りないと日本に呼び戻されていた。進路はどうするのかと聞かれ、とりあえず一芸で入学できる大学に進学すると言い残し再びアメリカへ旅立っていった。つぎに帰ってきたときは、初参加のスポーツシューティングの大会で優勝を飾っての凱旋だった。

 大学時代。剣は中退し、いつか自分の店を持つことを夢見てバーで働きはじめる。ゆみはその頃、剣の子供を身ごもっていた。在学中に結婚し、ゆみは無事に大学を卒業。そしてその半年後、めでたく出産したのである。

 七之助にとってこの頃が一番憂鬱だったかもしれない。

 そもそも一芸で入った大学であったため、成績はあまりよろしくなかった。それに加えて就活よりも海外での活動を優先していたために、卒業間近になっても就職先が決まらなかったのだ。

 よく軍隊に入ればいいのにと言われたことがある。しかし七之助は戦争がしたくて己を磨いてきた訳じゃないと突っぱねた。

 ならば警察はと聞かれれば、自分の憧れている世界であるスパイとは真逆の存在であると否定した。

 では語学力を活かして海外に移住すればと教師は言った。だがあまりに密猟者を懲らしめ過ぎて、すでに彼らのブラックリストに載っているので海外で暮らすのは危険だった。

 無論、スパイのなり方など当時は知らない。

 八方塞がりの彼に手を差し伸べたのは、遠縁のおじが取締役を勤める地元の中小企業だった。無敵のスーパーマンの素養を持った男が、そのすべてを封印しサラリーマンとしての一歩を踏み出した瞬間である。

 ちょうど同じ頃、剣は地元を出てついに自分の店を持った。それほど大きくはないが、自分の好きなアメコミやアクション映画のポスターを店内に飾り、同じ趣味を持ったお客さんたちと語り合える夢のような場所だ。店名を考えたとき、当時封切られていた最高にクールな映画のタイトルにちなみ『キングスマン』とした。

 そして三人はまたこの街で出会い、変わらない友情をさかなに晩酌をする毎日である。

「まさかおまえが本当にスパイになるとはね」

 七之助は頼んでもいないのに出てくるカツオのカルパッチョに舌鼓を打っていた。

 すると隣にトレイを抱えたショートカットの女性が座り込む。

「あら。私はいつかなると思ってたけどな。ナナ公はスパイに」

 彼女がゆみである。「ナナ公」とは彼らだけが呼ぶ七之助の愛称だ。

「たとえどんな手段を使っても、やりたいことはやる男だもんね」

「まあな。でも流石に就職決まってんのにイギリス行くとか聞いた日には説教してやったけどな。お袋さん泣いて電話してきたんだぞ、あんとき」

「それを言うなよ~」

 七之助はカウンターへと突っ伏した。

 屈託のない笑顔を見せたゆみが、彼の肩へとしなだれ掛かる。亭主を前にして人妻の体温に浴するというのは幼なじみの特権ではないかと七之助は思った。

「で。いま何やってんの? 『WTO』とか言ったっけ。スパイって何してんの?」

「いまコレ調べてる」

 七之助は例のファイルを持ち出していた。ヴォイニッチ手稿のページを開きカウンターに置くと、幼なじみ夫婦はそろって頭を垂れた。

「なにこの気持ち悪いの……」

 ゆみが明らかに引いている。

「ブイマックス車高調とかいったっけか?」

「ヴォイニッチ手稿だろ。ヤマハ関係ねえよ」

「なんでおまえが知ってんだよぉ」

 若干ろれつの回らなくなってきた七之助が憤慨すると、剣は呆れた様子で答えた。

「クトゥルフ神話に出てくんだよ。ネクロノミコンの写本とかいって。まえにラヴ・クラフトの小説貸してやったろうが」

「ナナ公さんたら読まずに食べた」

「食べんじゃねえよ。返せよ」

「あ、ごめん。お客さんだ。いらっしゃませー」

 ふたりのくだらないやり取りを遮るようにして、ゆみが新規来店客を出迎えに行った。

 七之助が自動で出てくる三杯目の生ビールの泡をすすっていると、ファイルを眺めていた剣が眉根を寄せてふとこうもらした。

「なんかアレだな。あらためて見るとおまえが前に言ってた夢の話思い出すな」

 ガバッと身体を起こした七之助が、潰れかけていた目玉を大きく見開く。

 ファイルを剣の手から奪い返し、もう一度穴が空くほど凝視した。

「やっぱりそうだよなぁ! さすがタマキン、心の友よ!」

「ジャイアンかよ」

 などとふたりが盛り上がっていると、店内はにわかに険悪なムードへと包まれていくところだった。

「ちょっと! やめてください!」

 ゆみの声だ。

 彼女の金切り声につられてそちらを見ると、いかにもといった風貌のゴロツキ二人組が店の出入り口を塞ぐようにして立っていた。

 ひとりは両手をポケットに突っ込んだまますごい形相で店内に睨みを利かせており、もう一方はゆみの腕を掴んで放さない。

 事態を理解した客たちの動きが止まる。その表情からは一様に笑みが消えていた。

「おう! 威勢のいい姉ちゃんだな! 飲んでってやるから酌でもしろって言っただけだろうが。それともなにか? この店は見た目で客を判断すんのか?」

 ゆみを掴んでいる男がへらへらと笑っている。

 今度は両手ポケットのほうが一歩前に出張ってくると、

「大体誰の許可貰ってここで商売しとんねん! ぶち壊したるぞコラァ!」

 案内待ち用の椅子を蹴飛ばして、この勢いである。

 カウンターの内側から殺気がもれているのを感じて七之助が振り向くと、そこにはただでさえ細い目を眇めて舌打ちをしている幼なじみがいた。

 ゆらりと彼の影が動く。

 それを見た七之助は、店内がゴロツキどもの血で染まる光景を想像して肝を冷やした。まさに剣がカウンターを出ようとしたとき、七之助は彼を片手で制した。

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