Chapter.002 ナナと名無し

 あれから半年が過ぎた。

 諸々の残務整理と引き継ぎを終えて七之助は『WTO』日本支局へとやって来た。それはまるで期待に胸を膨らませた新卒の学生たちのように。

 彼のイメージではこうだった。

 世界を股にかけて陰謀のある所にカスタムカーで颯爽と登場し、命懸けで人類の平和を守ったあと、摩天楼を見下ろしながら絶世の美女とイチャつく。

 脳内トレーニングは少年時代からこなしている。すでに準備は出来ていた。あとは自動消滅式の指令書を待つばかりである。だが――。

「何やってんだ……俺は……」

 ひんやりとした床にあの日上昇した体温を根こそぎ奪われてゆくような感覚だ。

 見上げた天井はあまりにも低い。七之助の志は、はるか一万メートルの上空にあるというのにである。しかし現在の彼に見えるものは星でも太陽でも月でもなく、取り替え間近となり両端がやや黒ずみ始めた安い蛍光灯だけであった。

 もはや暴れる元気も無くただ不貞腐れていると、天井と七之助の間を割ってひょこんと小さな顔が現れる。

「あらあら。お昼寝ですか?」

 OL風のユニフォームの上に薄手のカーディガンという出で立ちで資料室へとやって来たのは、七之助の同僚である崇道すどう 雨衣ういであった。湯呑みを載せたお盆を手にして、何やら面白いものでも見るかのように七之助の顔を覗き込んでいる。

「大きな声が聞こえたと思って来てみれば、これはまた」

 ひとで言ったら死屍累々。

 システムラックからこぼれ落ちたファイルが床に散乱としている。雨衣は大きく肩をすくめて半ば呆れた表情を浮かべた。

「地震でもあったみたいですね」

「超局地的な直下型の奴がね」

 雨衣の嫌味をさらりと受け流した七之助は、寝たままの姿勢で身体を捻り始めると「ちょっとヨガでも始めようと思いまして」と軽口を叩いた。

「もう冗談ばっかり。お茶淹れて来てあげたから起きなさい」

「や、出来ればもうちょっとだけ」

「何で?」

「眺めがさいこ、フガッ!」

「踏みますよ?」

「踏んでから言うの止めましょうよ……」

 結局七之助は意地でも起き上がることをしなかった。

 雨衣は湯呑みを机の上に置くと部屋の主の代わりに椅子へと腰をおろす。一瞬、脚を組もうとしたが床に寝転んでいる変態約一名の視線に気づいてやめた。

 手にしたお盆でスカートのすそをガードしたときの、七之助のがっかりとした表情ときたら。

 雨衣は『WTO』日本支局に勤務する二十七歳の女性である。

 もともと幼い顔立ちに加え、肌が弱いという理由であまり化粧っ気がない。栗色の髪をうしろで一本に結わえて左の肩口から前に垂らしており、手持ち無沙汰なときなどよく指に巻き付けて遊んでいる。

 大きなセルフレームの眼鏡と薄いファンデーションから透けたそばかす。

 どうみても二十歳そこそこの印象しか持たなかった七之助は、まさか彼女が自分より年上だとは思わなかった。

 雨衣は七之助の同僚――といっても実は『WTO』日本支局には七之助を含めても職員が三人しかいない。採用後にその事実を知ったとき、あらためて「大丈夫かここ」と思ったものである。

 しかし残りのひとりというのが――。

「で。今日はまた何を悶絶していたの?」

「悶絶ってあーた」

「先週はたしかエアコンが効かないって暴れてたでしょ。先々週は新しいシステムラック組み立てながらなんかブチブチ言ってたし。その前は領収書の精算忘れてて私にごねてたでしょ? それから~」

「分かった分かった。ごめんなさい。もうしません」

「よし」

 指折り数えながらも次第に迫力を増していく雨衣の表情を目の当たりにして、さすがの七之助もこれには観念するしかなかった。

「まあ文句って訳じゃないけどさ……」

 七之助はまだ寝たままである。

 一度目をつむり、視界から天井を消した。

 その様子を見て雨衣は「また始まったかな?」と思っていた。

「俺はね。小さい頃から007とかミッションインポッシブルに憧れてきた訳ですよ」

「うんうん」

「それはもう毎日これでもかといわんばかりに映画を見続け、いつか俺もこうなってやるぞと心に誓って少年時代を過ごした訳ですよ。沈黙シリーズを観ては合気道をはじめ、リベリオンを観ては海外まで拳銃を撃ちに行き」

「いつも、ここまではただのミーハーなのよね」

「東にいい断崖絶壁があると聞けばクライミングを挑み、西に人喰いザメが出たと聞けば退治しに行く。世界に困ったひとあらば、走って駆けつける訳じゃないすか」

「それフロリダの話よね。日本人がニュースになったの覚えてる」

「しかし! 人生はそんなに甘くなかった……所詮スパイや諜報のプロなんてのは映画の中だけの話――そう自分に言い聞かせて全部諦めたつもりだった。でも……」

 グッと天井に突き上げた拳を見つめて七之助はもう一度「でも」と言った。

「俺はここに来たんだ――」

「夢。叶ったね」

 慈愛に溢れた雨衣の言葉に思わず七之助は涙しそうになった。しかしここで騙されてはいけない。彼が本当に言いたいのは、そんなことではなく。

「だから! 何でこんなとこまで来て資料整理なんかやってるの俺! 採用されて半年も経ってんのに明けても暮れても資料資料資料資料! 何だよエリザベス女王が宇宙人だったとか、なんとかメイソンが世界を牛耳ってるとかよ! 知るか! 俺に銃を持たせろ。コードネーム付きの任務をやらせろよ!」

「あ~あ。結局こうなるのね――」

 雨衣はおもむろに眼鏡を外すと、目頭をきつく押さえた。

 まるで駄々っ子のように床でジタバタする七之助であったが、もちろん半分は冗談である。自分をねぎらってくれた雨衣へのちょっとしたサービスだ。

 だがもう半分は紛れもない本音である。無論、それを分からない雨衣ではない。

 呆れたふりをしつつも冷めた湯呑みに目をやって「仕方がない。淹れ直してやりますか」と立ち上がろうとしたときである。

「あれぇ? ボンドちゃん現場希望だったの?」

 不意に調子のいい軽口が飛んできた。

 慌ててドアのほうを見ようとすると、七之助の視界には綺麗な五本の指先を持った手のひらが差し伸べられていた。

「目覚めよ。汝、立ち上がる勇気はあるか」

「きょ、局長!」

 思わず立ち上がった七之助は、声の本人を認識するといそいそと居住まいを正した。全身から嫌な汗が噴き出している。

 そこに立っていたのはひとりの長駆の男性。七之助も178センチと低い方ではないが、彼は頭もうひとつ分は高かった。

 真っ白なスーツで身を固め、肩口から細いマフラーを垂らしている。透けるようなブロンドの髪にはスーツと同色のボルサリーノをかぶっており、つばからのぞく涼しげな目元はやや垂れ気味ではあるものの、その碧眼で見つめられると七之助すらも一瞬、彼が男性であることを忘れてしまうくらい妖艶だった。

 それが局長と呼ばれた男――自らを“名無しの権兵衛”と名乗る人物である。

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