第一章 ワンス・アポン・ア・タイム

Chapter.001 イースターエッグ

[ 1 ] ワンス・アポン・ア・タイム


 ここにとある雑居ビルの一室がある。

 開け放たれたドアの上には『資料室』と書かれたプレートがぶら下がっていた。

 思いの外狭く、使い勝手も悪い。ただでさえ手狭な八坪の床スペースは、その半分を分厚いファイルが並んだシステムラックに占領されていた。

 さながらファイルの森である。

 その壁際に申し訳程度に置かれた作業机があった。

「うぬぅ……」

 うずたかく積まれた資料の合間を縫うようにして突っ伏している男がひとり。

 天井付近にある換気ダクトにも負けない低いうめき声を響かせて、清潔に刈り込まれた黒髪を引っ掻き回していた。

 彼が読んでいるのは幽霊、宇宙人、UFO、陰謀論など数多あるオカルトの類に関する事件の詳細記事である。とは言ってもいずれもスポーツ新聞の色物欄やネットの掲示板を賑わす程度の内容に留まるのではあるが。

 彼が所属するのは国際的な諜報機関のひとつ『WTO』の日本支局である。

 本来であれば国家の命運や人類の存亡を掛けた重大な任務を背負い、日夜目に見えぬ敵との壮絶な戦いに身を投じているだった。

 しかし『WTO』日本支局に配属されてからというもの、来る日も来る日も、ソースの出処も怪しいようなうろんな記事の内容を精査し、追加調査の必要性などを検討していた。

 それをもう、かれこれ半年は続けていた。

 否が応でもオカルトの知識は増えてくるというもの。

 信じる信じないは別として、世の中にはこんなくだらないことに喜ぶ輩もいると知った。

 その内、彼は――キレた。

「やってられっかぁ! うらああああ!」

 むんずと掴んだ分厚いファイルのひとつをシステムラックの森へと投げ飛ばした。

 溜まったストレスを吐き出すようにしてしばし咆哮すると、彼はホコリまみれの床へとその広い背中から倒れ込む。

 視界に映るのは切れ掛かった蛍光灯の瞬く、すすけた天井のみである。

 汗を吸い込んだワイシャツが首元に張り付いて気持ちが悪い。

 春先もとうに過ぎたというのに、やけに床が冷たく感じたのは単純に気温だけの問題ではないようであった――。


 この男、梵門 七之助ぼんど しちのすけはつい半年前まで地元にある中小企業に勤務し、オフィス用品の飛び込み営業を担当していた。

 小さい頃の夢はスーパーヒーロー、アクションスター、そしてスパイ。

 身悶えするほどに興奮する映画の世界に憧れていた。

 躍動する主人公たちに一喜一憂し、己の進む道はこれしか無いと小学生を前に決めていた。

 いつかなれると――信じていた。

 世界に違和感を覚えたのはいつだろう。それが「生きている実感」が無いなんて言葉だと知ったのは思春期を迎えたばかりの頃だ。彼は刺激を求めて色んなことに手を染めてゆく。それこそ犯罪以外は何でもやった。

 合気道を始めとする数種の格闘技。実銃によるスポーツシューティング。

 上はスカイダイビングから、下はスキューバダイビングまで。およそその高低差の間にある危険と思われることはすべて経験済みだ。親は経済面を理由に、彼の子供らしく無い趣味を止めさせようと何度も試みたが、その度に彼の並々ならぬ才能に惚れ込んだ人物たちから援助金が送られてきたのである。

 勉強は苦手だったが語学力だけは優秀だった。

 将来のためだと親にせがまれ、あまり乗り気でなかったが英検二級を取得する。

 七之助には見えていた。

 世界の表舞台で自分が活躍している光景が。

 大空を屋根に、大地をすみかとして巨悪と戦う未来の姿が。

 まさに順風満帆、意気揚々。

 地球は自分のために回っているとさえ思い込んだ時期もある。

 だが――ある日大学の成績表が教えてくれた。

 そんなものにはなれないと。

 すべての気持ちに整理をつけて地元の商事会社に勤めること二年。親は安心してくれたが自分の中にポッカリと開いた大きな穴を塞ぐことが出来ないでいた。

 ちょうどそんなときだ。

 仕事も忙しくなっておいそれと海外旅行など出来なくなっていた彼は、コンビニなどで旅行雑誌を立ち読みするのをもっぱらの趣味にしていた。

 ページをめくり胸躍らせる。

 モルディブの青い海とピレネーの山岳地帯に目を奪われていた。しばらく雑誌を読みふけっていると、ふと欄外に奇妙な広告記事を見つけた。


 あなたもスパイになりませんか?


 広告はこう続けていた。

 エージェント若干名募集。世界平和のため共に戦っていただける人材を求めています。調査・分析・追跡などに関するとても簡単なお仕事です。要普免。英検・戦闘経験などの有無を考慮して優遇させていただきます。年齢四十歳頃まで。まずはお電話を。『WTO』日本支局・人事部担当――。

「な……」

 二の句が継げないとはこのことだ。

 しばし硬直していた七之助だったが、そのときばかりは慌てて雑誌をレジへと持っていった。普段は立ち読みで済ませてしまうため、たびたびバックヤードで七之助をくさしていた店員さんもこれにはびっくりである。

 極度の興奮状態からか、しかし雑誌だけではちょっと申し訳ないという気持ちが先走り無意識に掴んだ商品もレジへと並べたのだが、コールスロー、洗濯バサミ、紙コップと見事な具合に支離滅裂だ。

 お釣りをもらうことすらもどかしく、震える手で小銭を受け取ると彼はすぐに店を出た。

 急ぎアパートへと帰宅したが、それでも心ここにあらずであった。

 玄関を上がりしなに出しっぱなしにしてある掃除機に脚をぶつけてもんどりを打つと、手近にあった部屋干しの洗濯物を掴んで派手に転ぶ。

 その拍子に昨日、床飲みしたまま放置してある缶ビールが倒れてまだ買ったばかりである据え置き型ゲームハードに襲いかかった。慌てて何とかしようとしたが、側にあったテーブルの角に肘をぶつけて数分間悶絶するなど。

 この間わずかに数十秒である。

 極めつけは薄い壁を一枚隔てた隣人が、怒気を孕んで壁を強打してくるのだから世の無情を感じずにはいられない。床に倒れ込んだ情けない己の姿を鏡で見るにつけ、神は死んだなどとひとり寂しく世界を呪うのだった。

 まあ平均的な二十五歳の独身男の日常なんて大体こんなものである。

 いくつもの切なさを噛み締めながら、七之助はそれでもあの旅行雑誌の求人広告から目が離せないでいた。ぶちまけたレジ袋からのぞく薄っぺらな一ページに過ぎないそれを。

 彼はさっきから胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。

 ひょっとしてこれは転機なのではないか。

 世界に神様が存在するとして、自分を見捨てなかったという証拠なのでは――と。

 幼い頃から夢見てきた世界へと繋がる圧倒的なチャンス。この機会を逃したらもうあとは無いとすら感じていた。震えない訳がない。

 しかしただただ怪しい。ここまで来て人生を棒に振る訳にもいかない。

 慎重にならざるを得なかった。

 七之助がスマホで調べたところによると『WTO』なる組織はその正式名称をワールド・トレース・オーガニゼーション(世界追跡機構)といい、全世界に支局を持つ調査機関であるらしかった。とある財団が運営しており、調査対象は国家から民間に至るまで多岐にわたる。調査・分析・追跡と細かな仕事内容と従事する部署やスタッフの説明がなされる中でも、とりわけ七之助の顔を紅潮させた文字があった。『諜報部』である。

 七之助は己の体温が上昇していくのを自覚した。

 かつてイギリスの諜報機関であるMI6が、新聞にて求人広告を掲載したことはまだ記憶に新しい。そのときは七之助も「いざ」と思ったが、折しも親戚の口利きでいまの会社への内定が出たばかりであった。さすがに両親には止められ、趣味を同じくする幼なじみの友人にも夜通し説教を食らったものである。

 青天のへきれき。

 あのとき固く閉ざされた夢への扉が、いま大口を開けて待っている。ともすれば見逃してしまいそうな小さな小さなドア。まるでイースターのお祝いの朝に、子供たちが見つけてくれるのを待っている卵のように。

 七之助はアパートに帰ってからかれこれ二時間はフローリングの床に突っ伏したままだった。着替えもせずシャワーにも入らず、ただずっと求人広告を見つめている。

 ふとスマホで時刻を確認すると、待ち受け画面には二十二時と表示されていた。


 まずはお電話を――。


 再び雑誌に視線を戻すと求人広告には、電話による受付時間が記載されていないことに気づいてしまった。社会人としての葛藤と「いや、スパイなんて訳分からんもの募集しているところだったらワンチャンあるんじゃね?」という期待感が激しくせめぎ合う。


 まずはお電話を――。


 その言葉を何度も胸の奥で反芻すると、まるで催眠術にでも掛かった気分になった。

 七之助はやおらスマホに手を伸ばし、求人広告に記載された電話番号を入力した。

 呼び出しが掛かる。ほんの数秒だと言うのに永遠にも感じた。

 しばらくコールが続いたのち、スマホの向こう側で誰かが電話に出た。

「あの――面接……お願いします」

 それから約一週間後に採用が決まる。

 ウソのようなホントの話。

 梵門 七之助は脱サラを決意し、『WTO』日本支局のエージェントになったのだ。

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