1-5 愛と苦悩

『兄ちゃん……にいちゃあぁん!!』


 悲鳴のような弟の声が聞こえた。


『ジーニック……!! ジーニック……!!』


 ああ、幼い頃。

 あの時の思い出だ、と、ケイエスは心の中で察知した。

 今となっては、はっきりした原因など思い返せない子供の喧嘩。

 だが、決して他愛もなかった訳ではない。

 いい加減体は大人に近づき、しかし、頭は子供のままの厄介な年ごろの悪童に多数囲まれたのだ。

 押し倒され、殴られ、蹴られた。

 まずいことにはその頃にはすでに体の大きかった自分だけでなく、まだ幼く、元々体が小さい末弟のジーニックまで巻き込まれたのだ。


 ――助けねば。


 掴みかかり、押さえつけてくる無数の手を振り払い、ケイエスは痛みと恐怖に泣き叫んでいるジーニックの元に走った。

 しかし、どうした訳か、空気が半固形状にでもなったかのように、遅々として体が前に進まない。


 兄ちゃん、兄ちゃんと悲痛に泣き叫ぶ、幼いジーニックの声だけが耳にこだまして……


 はっと、ケイエスは目覚めた。


 一瞬、ここがどこだか分からなくなる。


 ゆっくりと、記憶を辿る。

 ああ、そうだ。

 マルリミヤーナさんの実家、アル・サイエルダリーム家の別荘だ。

 カーテンのわずかな隙間からは朝日。

 客室のベッド、その豪華な天蓋の紋様が、妙に滲んで見える。


 ケイエスは、自分が眠りながら泣いていたことに気付いた。



 ◇ ◆ ◇


「ね、いいところでしょう?」


 マルリミヤーナが、そっと手を取ってきた。

 まだ朝が早い湖の上には、うっすら霧が漂っている。

 水晶のように水の澄んだ、そこそこ大きな湖の上に漕ぎ出している小舟は、さながら夜空に浮かぶ三日月の形だ。

 漕ぎ出している、と言っても、誰か漕ぎ手が存在する訳ではない。

 メイダル特産の、魔導具の一種である小舟は、誰も漕ぎ手がいないまま、操り手の意思に反応して湖の上を進む。

 仕組みとしては、巫女姫レルシェントの所有している飛空船と同じだが、無論ケイエスにその知識はなかった。


「ああ……いいところですね。気分が落ち着きますよ、マルリミヤーナさん」


 小舟の上で、マルリミヤーナにぴったり寄り添うようにしながら、ケイエスは呟く。


 このアル・サイエルダリーム家の別荘のある島は、砂漠がちなメイダルの他の島々と違って、全島が豊かな水と緑に覆われていた。

 島全体に湖が点在し、その間に森や丘陵が広がっている。

 それらを分割したそれなりの広さのエリアを、メイダルの富裕層が中心となって、別荘地として買い取っているのだ。

 アル・サイエルダリーム家の所有するこのエリアは、それなりの大きさの湖と、深い森に囲まれたちょっとした城のような建物が入っている。

 その個人所有の人気のない湖に、いるのは小舟の上のケイエスとマルリミヤーナだけだ。


「……ケイエス。もう、他人行儀はやめにしましょう? 分かっているでしょう? わたくし、あなたが思っているような清らかな女でもないの」


 マルリミヤーナが、ちょん、とケイエスの唇をつついた。

 するりと体を擦り付け、ケイエスの大きな手を取って、自分の豊かな胸に押し付ける。


「マルリミヤーナって、呼んで。できれば、愛称のマールって」


「……マール」


 首をひねるようにして、マルリミヤーナはケイエスの唇に自分の唇を押し付けた。

 ケイエスは、胸の奥を焦がす痛みも一瞬忘れた。

 自分の浅ましい体の反応を心のどこかで嘲りながら、それでも彼はマルリミヤーナの唇を貪った。


「ねえ、大好きよ。ケイエス」


 その言葉が合図だったかのように、ケイエスはマルリミヤーナを押し倒した。



 小舟の揺れが、収まった。


 ケイエスは、マルリミヤーナと折り重なったまま、息を整えていた。


「ケイエス……? 前から訊きたかったの。何があったの? 何が、あなたを苦しめているの?」


 重なった裸の背中に手を回し、優しくさすりながら、マルリミヤーナは問いかけた。


「あなたの気配は泣いている……特に、今朝からそうだわ。何を、思い悩んでいるの? 話して欲しいわ、何か力になれるかも知れない」


 こういう仲になったのに、何も話してもらえないなんて。

 悲しいわ。


 マルリミヤーナが耳元に囁きかける。


「……マール。おれは、本当はあんたにこんなことをしていいような男じゃない」


 虹色のつややかな髪に歪んだ顔をうずめるようにして、ケイエスは呻いた。


「俺は、罪人だ。酷い罪人なんだ」


「罪人? 何をしたっていうの?」


 あなたは酷いことをするようには見えないのに、とマルリミヤーナに囁かれて、ケイエスは低い声で笑った。


「……国の刑法に触れるような『罪』じゃないんだ。これを罪にするなら、国そのものだって罪ってことになっちまうから、国は認める訳にはいかないだろう。……だが、これは、神々に咎められる類の『罪』なんだ」


「……どういうことなの?」


「……弟を、裏切った。血を分けた、実の弟を」


 血塊を吐き出すような思いで、ケイエスはその言葉を、愛しいひとの耳元の落とした。


「……裏切った? どちらを? ディルアドさんを? それとも」


「……ジーニックだ。ルゼロスで大成功したあいつを。あいつがまだ仲間と冒険している頃に、あいつを陥れて危ない目に遭わせた。殺されていてもおかしくないような目に」


「……ケイエス? 落ち着いて、ちゃんと話して?」


 背中を優しい手がゆっくりさする。

 それにあやされるように、ケイエスは言葉を選んだ。


「あいつは、ルゼロスの、当時王子様だった、今のオディラギアス王と冒険していた。『全知の石板』だったか、そんなものを探していたらしいが、俺も国の情報局も、そんなことは分からなかった。だが、情報局は、オディラギアス王子の情報を欲しがっていた」


「……情報局……」


「前の情報局長官の、ミーカルってやつの甘言に、俺は乗ったんだ。ジーニックを排除しちまえば、マイラー商会の家督は完全に俺のもの、揺るぎはしないって。貴族でもあるまいに家督もないが、でも俺は当時、頭がおかしかった」


「情報局の人は、ジーニックさんをどうなさったの?」


「……貴重な情報を握っている、隣国と通じた危険人物として捕まえた。こんな理由で捕まれば、あのキツいミーカルに殺されかねなかったっていうのに、俺はそのまま弟を情報局に売った……」


 ちゃんとはした金の礼金ももらったぜ。

 驚くだろ、あんたとこんなことをした男は、こういう男だ。


 予想された戦慄の気配はなかった。

 だが、とろかすような憐みの気配が、ケイエスを押し包む。

 背中に、首筋に、愛撫の感触を感じる。


「ケイエス、よく聞いて」


 わずかに口調を変えて、マルリミヤーナは呼びかけた。


「……そのまま、あなたが故国にいるのは危険かも知れない。あなたは、前の情報局長官の不始末の、生きている証拠ということになるわ。国の中枢の方々が個人的にはあなたに同情していたとしても、国の方針とぶつかるなら、恐らくあなたは排除される」


 聞いて、よく聞いてケイエス、と、マルリミヤーナは早口で訴えた。


「……私のところに来て。私の夫になってちょうだい。そして、この国で、アル・サイエルダリーム家の一員として暮らして」


 はっと、ケイエスは身を震わせた。

 思わず身を起こし、まじまじとマルリミヤーナを覗き込む。

 朝の光に、白い肌が眩しかった。


「あなたがこの国の国民として暮らすなら、ニレッティアの人は手を出せないでしょう。こう言っては故国の方に申し訳ないけど、国力の差から考えても、彼らが政治的な危険を冒してまで、あなたを追撃するとは思えないわ」


 これは。

 今、自分には救いの手と愛の手が差し伸べられたのか。

 あまりに都合の良いように思える申し出に、ケイエス言葉も出なかった。


「なるべく早く、子供も作りましょう。そうすれば、ますますあなたのこの国での地位は安泰になり、あなたの故国の人は手出しをしづらくなる」


 何よりも、と、マルリミヤーナは更に続けた。


「……体の安全だけでは駄目。あなたは、魂も救われなければならない。こんなにも、苦しんでいるのだから。……大神殿に……大司祭様に、会いに行きましょう」


 ケイエスは小さく息をこぼしながら、じっとマルリミヤーナを見詰めていた。

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