(9)
足音もなく部屋に入ってきた人影に、しかし寝台の上の少女はすっと瞼を開けた。
食事と薬を運んできた男は、そっと枕元の小机にお盆を置くと、冷めた目を向けてくる少女に声をかける。
「巫女、お加減はいかがですか?」
「……サイハ、か……大事無い」
短い答えが返ってくる。エストより戻って三日、少女はようやく床から起き上がれるようになっていた。無理もない。あの体で、あんな遠くまで足を運んだのだから。
あの日。巫女が自らの目で件の神官を見てみたいと言い募った時には、勿論サイハは反対した。しかし巫女が珍しくも、どうしても、と意志を曲げなかったので、渋々配下の者を数名引き連れてエストまで出向いた。
見慣れない人間がぞろぞろいては怪しまれる。そう言って、巫女は一人で祭へと出かけていった。村には決して入るなと厳命されたサイハ達だったが、夜になっても戻らない巫女に居ても立ってもいられず、入り口まで迎えに行ってれば、なんとあのユークの神官に連れられていたのだ。その驚きと言ったら、言葉では表せないほどだった。
何とか言い繕って少女を引き取り村を後にしたが、普段は滅多に部屋からも出ないこの巫女が、昼日中から慣れない土地で過ごしていたのだ、疲れない訳がない。
急ぎ帰って、すぐに寝台に運んだが、一時は高熱が続き意識が混濁するど危険な状態だった。
しかし何とか持ち直し、ようやく普通に食事が取れるまでに回復したのは昨日のことだ。
「祭は、いかがでした」
思いついてそう尋ねてみる。少女はしばし黙って、食事に向かっていた。
「……悪くはなかった」
思いがけず返ってきた言葉に、サイハはそうですか、と相槌を打つ。
「……では、あのラウルとかいう神官はいかがでしたか?」
しばし沈黙が走る。
「……食えない、相手じゃ……お前が言うほどのことは、ある」
そうとだけ答えて、少女は再び口を閉ざす。 食事を半分ほどでやめ、薬を飲んで、少女は再び寝台に横になった。まだ完全には調子を取り戻していない。いや、もうこの体は、思うように動くことはないのだ。しかしまた、決して死することもない。 不完全な体で生きる苦しみ。それは、まさに永遠の責め苦。
「……しばし休む。卵の奪還と儀式の手筈はそなたに任せる」
「はっ……。畏まりました」
皿をまとめ、盆を手に取る。ふと寝台に目をやると、少女はすでに静かな寝息をたてていた。しかしその顔には苦しさが滲み、時折小さな咳が少女の体を揺らす。
(巫女……あなたはなぜ、わざわざ……)
この地に潜む『影の神殿』、その要である闇の巫女。月明かりのように儚い少女は、しかし六十年もの長き年月を、影に身を潜めて生きてきた。その姿は全く衰えを見せず、一旦は壊滅に追い込まれた『影の神殿』をまとめ、ここまで導いてきたのである。
彼女の過去を、そして名を知るものはいない。誰よりも長く、そう、二百年の長きに渡ってこの地の闇に潜んできた少女。その瞳に宿る深い憎しみと悲しみを、推し量ることすら彼には出来ない。
それでも。
彼らの目指す未来。そこに至る術を知るのは、そしてそれを行使することが可能なのは、彼女だけ。
だからこそ、彼らは巫女と共に未来を目指す。彼女を信じ、そして未来を信じて――。
全てを無に帰した後の、未来を――。
サイハが部屋を出て行こうとしたその時、急に少女の様子が変わった。
「巫女!」
激しく咳き込み、胸を押さえて喘ぐ少女に、サイハは手にしていた盆を取り落としたことにも気づかず、寝台に駆け寄る。 水差しが割れて、中の水が床に広がる。それはまるで、血のようにどす黒く、床に染み込んでいった。
「巫女!」
「……く……この…………」
苦痛に顔を歪める巫女に、サイハは何も出来ない自分を悔やんだ。そう、いかに薬を用いようとも、いかなる術を行使しようとも、不自然な生を享受する肉体を癒すことは出来ない。せいぜいが苦痛をしばし静める程度にしかならない。
いや、一つだけ彼女を癒す方法はある。あるには、あるのだ。
「巫女、あれを……行いましょう」
サイハの言葉に、巫女は顔を上げた。ようやく苦しみが治まったのか、息を整えて彼の顔を見る。
「今、目立った動きをするのは……危険ではないか」
「巫女のお体には代えられません。私にお任せを……」
真摯な瞳に、巫女はしばし考えた末に、頷いてみせた。
「お前がそういうのなら……そうしよう」
そして。
数日後の夜。一つの村が消えた。
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