17話 月の臘極やんやの幕上げ

 男は女のうなじに額を押し当て、息を殺して泣いている。街灯の色が差し込む薄ぼんやりと霞んだ空気の中で、男の目に映るのは己の目の前にそびえ立って浮かび上がる女の白い肌。女のその振り返らない背中は、彼女が彼に永劫心を閉ざしたままでいることを明示しているように思われた。男は自分に目の前の女を抱きしめるだけの器がないことをよく知っていたので、不意をついて自己満足のまま彼女に「無償の愛」を押し付けることなどしまいと思っていた。


 女は男の押し消えぬすすり泣きを心底鬱陶しいと思っていた。彼女は右手の指の隙間で煙を上げながら燃え尽きていく煙草の火の色を見下ろしながら、事が終わってもこうして自分の背中にへばりついたままの男の肌のざらつきが、容易に言い得ぬほど己に嫌悪感を催させるのを覚えていた。自分の本当の痛みなど分かりもしないお節介焼きで恩着せがましいだけのこの男が、彼女以上に彼女の痛みを肥大化して好き好み浸り嗜んでいることが、彼女にはどうにも耐えられないのだった。


 二人は常からそうだった。男は独りよがりで押し付けがましく、女は意地っ張りで人嫌い。ふたりの心情はいつも厳然として歪な土台の上にあった。それは、ちょっとやそっとでは覆りようのないものだった。

 それでも男は震える指先でとうとう女の背中に触れ、涙に濡れた唇でその肌に、口付けた。


***


 ここから先の進行を彼らに譲る前に、僕から少しご案内を差し上げよう。まあ、僕のことをそう面倒臭がらないでくださいよ。僕の話を聞かないと、多分ですけど、少々困ることになりますよ。


 では、了承をいただいたことにして、まずはお話の舞台について説明しよう。前話までに彼やら彼女やらが恋や愛やの与太話に明け暮れていた間も、我らが掃き溜めは蠢き続けていた。少女が赤子を産み落とし、降った雨が止み、五十余の晩が過ぎ、あなたが彼らとともに走り抜けたあのいくつかの夜は、もうふた月と幾らも前のこと。季節は憂える秋を連れ去って、掃き溜めは今、師走の凍える空気に張り詰めている。


 もしかして、僕があなたへの説明をはしょっているとお思いだろうか。けれど、何も起こらなかった時間についてまで語っていたら、どうなります? そう、このふた月と少しばかりの間、掃き溜めでは大したことは何一つ起こらなかった。いつも通りに二度のとりものが行われ、相も変わらず淀んだ日常が繰り返し、あなたに伝えるべき死などもありません。ただし、少々の変化はあるんだな。ふた月もあったんだから。


 あなたの愛しいおてんば娘は、きっとあなたが思っていた以上に世渡り上手で、利益関係を新たに幾つも結んだばかりか、働き口まで見つけたようだ。そして、きっとあなたの良き友人である無鉄砲な彼のほうはといえば、人間関係は二進も三進もいっていないようだが、まあ、これはあなたにとってはわかりやすいから良いね。まあ、こんなところだ。


 それと、あなたはきっと察しの良いひとだろうから曖昧にするのはやめておくけれど──そう、これからきっと何かが起こるはずだと、僕は予感しているんだ。勘が外れた時には謝るさ。でもまあ、僕のことをそろそろ信用してほしいですね。僕はあなたのことを友人のひとりに数えようと思っているんだから。

 じゃあ、退屈な前置きはこれまでだ! 話が次の話を連れて来るままに。それじゃ、幸運を!


***


 からから、からからと鳴るのは、俺の足と、数十歩先を走る娘の足が瓦屋根を叩く音だ。そう、俺は今、月光にさらされて黒く煌めく瓦の平原で、もっぱら「暇つぶし」の真っ最中ってわけだ。──と、娘の灰色の髪が揺らいで目の前から消えた。あんちくしょう、下に降りやがったな。面白いことしやがって。続いて俺も次に俺の足元に口を開けた真っ黒な路地に飛び込み──と思ったところで、俺はびりりとした空気の震えを受け取り、振り向きざま瞬時に刃を振り向けた。俺の手の中に握り込まれた刀の肢から伸びた、刃先が捉える、たしかな、肉の感触。


「っ……」


 男が口から漏らす硬い音が俺の鼓膜を微かに揺らす。肉を切り開いた刃先が振り抜かれてぷつりと空間に投げ出されるのを覚えながら、俺は路地裏に降り立ち、刃先に赤色が滲んでいるのを認める。すぐさま頭を上げた俺は、今しがた俺が飛び降りて来た屋根の軒下に、鈍い灰の髪をした男がぶら下がっているのを認めた。片腕で身体を支えながら、俺に腱を切られたもう片方の腕からは血がしたたっている。最初からここで俺の不意を突くつもりだったらしい。垂れ下がったほうの拳には拳鍔がはまっているが、もうその腕自体が使い物にならないだろう。


「おい、降りてこいよ」

 と、声をかける俺に、吉見は

「お断り」

 と言ってにっと口元を歪めて笑った。


 俺は耳を澄まし、夜の沈んだ空気の向こうに妹の気配を探すが、もうだいぶ遠くに逃げちまったらしい。毎度のことだが、いつもあいつにはうまく逃げられる。いや、違うな。


 そのとき吉見の眉が思わずと言った様子で上がり、奴の指がすべってぐらりと揺らぎ、体は不恰好なまま路地裏に落下した。俺はいつも通りのくだらない三文芝居に自然と顔が歪み、口の奥から嫌な鉄の味が滲んで来るような感覚に、舌打ちする。


 こいつは、俺に目をつけられてこの「暇つぶし」に付き合わされるとき、いつもなんとかして妹のほうを俺から「逃がす」のだ。俺が妹のほうに触れられないように、必ず逃す。なんとしてでも、盾になる。おかげで、俺の刀の刃先が妹に届いたことは一度もない。俺は、腕を抑えてじっと俺を「待っている」奴の方に、敢えて足を引きずるようにしてじりじりと、たっぷりと間を持って近づいて行った。


「いい兄貴だなぁ」

「なんの話だか、さっぱりわかんねえよ」


 そのおどけた言葉には不釣り合いにぎらぎらとした目で俺を睨みつける吉見を鼻でひとつ笑ってから、俺は刀を握り直す。吉見の目線が月光を反射する刃の煌めきを本能的に追うのを確かめ、俺の口元は勝手にほころんだ。この「暇つぶし」が何度目だろうが、奴は自分に刀が向けられるときには、やはり一度はその目に恐怖を滲ませる。それがほんの一瞬なのは、こいつにも「男の意地」みたいなものがあるからなんだろうな。だが、そのたった一瞬が、俺にとってはこの上ない快感をもたらすわけだ。俺はきっと、そのたった一瞬のために生きている。それまでずっと胸の中に垂れ込めていた息苦しさが晴れ、毒液が渦巻いていた脳がまともな呼吸をし出す。足りなくて、足りなくて、胸をかきむしりたくなるようなあの欠乏の感覚を、血の匂いと悲鳴だけが埋めてくれる。そのためなら、俺はなんだってやる。


「屋根の下で俺を本気で殺そうとしたのは、まあ、いつもよりは面白かったぜ。首がついたらまた遊ぼうな」

 俺は刀を振り上げる。心地よい血の滾りが脳へと駆け上がる。解放の兆し。そして俺は、この無益な「暇つぶし」が早く終わることを願ってぐっと目をつむる吉見の首を、はねた。


***


「なんでお前がここにいるんだ」


 起き抜けで目つきの悪い目をますます細めた市井は、寝癖のついた頭を不恰好にぼりぼり掻きながら私のことを見ている。不潔だ。それに、私がここに遊びにくるのなんて最近じゃ珍しくもないのに、飽きもせずにいちいちこんなこと言って来るんだもの。嫌になっちゃう。


 卵焼きを綺麗にひっくり返すみなみちゃんの横で、私は当たり前だけどつっけんどんに返事をする。


「私は『みなみちゃんの部屋』に遊びにきたの。それなのに『あんたに』許可を取らないといけないの? あんたってここの部屋の王様なわけ? あんたが作った法律があるの? あんたが私を牢屋に放り込めるって決まって──」

「ええい、もうどうでもいいから黙れ! お前の声、きんきん響いて頭が割れそうだ! くそ、余計なおしゃべりばっかり覚えやがって……」

「おしゃべりが得意な方がいいのよ? 特に接客業じゃ、ね」


 ふふんと鼻を鳴らす私に、市井はますます目を細める。そのまま目が顔の中に消えちゃいそうだ。市井は口をぐいんとひん曲げると、はあ、とため息をついて、ごはんの用意がされたちゃぶ台におとなしく座った。それから、おい、と私に声をかける。


「ふたり分しかないぞ」

 ちゃぶ台の上に並んでいるのは、確かに市井が言った通りふたり分の食事の用意だった。市井の頭の中では、市井と、みなみちゃんと、それから私の三人がちゃんと数えられているみたいだった。案外律儀だ。いや、そういうひとみたいなんだけどさ。

「私もう食べちゃったんだ。これからすぐ茜ちゃんのとこでバイトだから!」

「茜……『ちゃん』ん?」


 忌々しそうにその名前を繰り返す市井のことを無視して、私はみなみちゃんに手を振って玄関に向かった。みなみちゃんは、玄関に向かった私に気づき、はっとしてからわたわたと手を振り返す。ふわっと困ったような笑顔付き。ああ、この子が市井じゃなくて私の妹だったらいいのにな、ほんと。私は慌ただしくハイヒールをつっかけて、ぺらっとした金属のドアを思いっきり開けた。


「じゃ!」


***


 華屋に吉見の血を被ったまま帰って来た俺に、真木は洋間のソファの中から心底鬱陶しそうにため息をついて、風呂に入れと低い声で唸った。風呂上がりに部屋で着替えていると、茜も部屋の中でぐったりと窓辺の肘掛け椅子にもたれ、船を漕いでいるところだった。午前一時。午後四時ごろに起き出す俺たちにとっては、あと一息ぶんの仕事が残っているという時間だ。そんでこれから、華屋の連中で集まって「夕食」になる。外の世界はこのあたりで朝の目覚めに向けて体を寝かしつける頃合いかもしれないが、俺たちにとってはそうじゃない。


「茜、飯だって」

 シャツを着終わり、髪を乾かしながらそう声をかけるが、茜はまつ毛の下で薄く目を開けて、

「後から行く」

 と眠たそうに呟いただけだった。



 階段を下ってダイニングに入ると、すでに真木と椿と枇杷が食卓について待っていた。

「やーっと来た」

 と、俺にはにかんで見せる枇杷は、おなかすいた、などと子供のような無邪気さを装って声を出す。いや、このあたりは別に演技でもなんでもなのかもしれない。俺が席に着くと、全員が粛々と手を合わせ、

「いただきます」


 と馬鹿丁寧に挨拶をして食事が始まった。いつもこうだ。掃き溜めの中の誰かが作った冷えた食事を、俺たちは淡々と胃の中に押し込んで行く。パンに、ジャガイモのスープに、濁った色の照明を反射するしなびたサラダに、エビの入ったキッシュ。こうやって集まっておきながら、この食事が楽しいものなわけがない。だが、「集まることになっているのだ」と言われたら、俺もここに来るしかない。ここの「しきたり」ってやつだ。気味が悪いが、慣れればそうでもない。依然としてがちゃがちゃとカトラリーが皿にぶつかる音の混雑だけが食堂にのさばっている。奴らは無駄口をたたかない。俺が話しかけない限りは。


「高峯さんはいないわけ?」

 という俺の声に、椿はもごもごとパンを口に含んだまま、

「今日はいないわ」


 とだけ、目もあげないで俺に言う。ふうん、と声を漏らした俺は、自分のパンにとりかかる。高峯が食事にいることはまちまちで、テーブルを囲むのは、大抵、俺を含めたこの四人だった。そうだ、茜もいつもこの食卓には来ないのだ。さっきのように、「後で行く」とか俺には言っときながら、来たことなんか一度もありゃしない。彼女がこの食卓についてるのを一度も見たことがない。そもそも俺は、彼女の「食事」というものを、今まで一度も見たことがないな。そんな些細なことに気づいて、それからふと顔を上げて奴らのご尊顔をぐるりと見回すが、目を伏せたままこれから飲み込む食べ物のことしか見ていやしない。


 コップの水で口の中を湿らせながら、俺は普段の食事風景を思い起こしてみる。茜はいつもこの食事には現れないが、奴らはこの四人が集まれば「全員揃った」と言わんばかりに食事を始めてしまう。こいつらは、茜のことを数に入れていないのか。そうだ。そういうことになる。俺は口の中に残っていたほうれん草のかけらを飲み込みながら、慎重に口を開く。


「茜、が……」

 俺の声に枇杷が瞬時に視線をこちらに投げたのを俺は確かに捉えた。

「……来ないな」


 慎重に発せられた俺の声を受け取って、ナイフを動かす真木の手が一瞬だけ止まり、それからまたキッシュを切り分ける作業に戻った。別に誰も口をきかないが、それから俺の視界の奥から苛立った舌打ちの音が聞こえて、椿の声が

「後から来るでしょ」

 と、ぶっきらぼうに答えた。俺は口の中でそうか、と発しながら、順序立てて情報を整理していた。彼女が食事の席に現れないことを、こいつらは一切咎めないのか。俺にはうるさく「食堂に降りてこい」と言うくせに、茜にはこの扱い。じゃあなにか? 華屋の他の連中は「あえて」茜の食事に触れないのか。触れないことにしているのか? 触れちゃあならないものなのか……? 俺はそう思い至って、この事象の裏側に根を張るであろうロジックの文様というものに、強烈に好奇心を煽られるのを感じた。なぜみんなが揃ってそのことを話題にしないことにしているんだ? 何が気まずい? この状況の裏側には、一体何がある?


 俺は頭の中で思考をいちいち言語化するのを切らさないまま、目の前のキッシュにフォークを突き立てる。隠すからには理由があるのだ。知られたくない後ろめたさがあるのだ。見せたくない何かが。それは何だ。食卓に着いた他の三人は黙ったままで俺に答えを示してくれそうにはない。俺は一人で思考の海に沈むしかない。


 考えてみれば、俺が一度も食事を見たことがないのだから、俺が彼女のそばにいない時、彼女は食事をとっているのだ。ここじゃないどこかで? 茜はこの掃き溜めにある諸々の飲食店の元締めだ。そっちで食事を摂ってたっておかしかない。だが、俺が今まで茜にちょっかいかけにいって、彼女がよそで食事をしているのを見たこともなし。いつだ? いつ食事をしている? 先ほどソファで眠りこけていた茜の、閉じかけた瞼を思い出す。……そういえば、彼女は、今、何をしているんだ?


 誰かの靴が床板をこする音がした。俺は、いつのまにか、止めた手の内側にフォークを握りこんでいた。俺の勘が叫んでいる。彼女はおそらく、「今」、食事をしているのだ。俺の見ていない、俺が食事をしている、俺が絶対に自分のそばにいないことを保証された、今だ。こういう勘は、驚くほどによく当たる。


 なんでもそつなくこなす茜が、起き抜けも妙にベッドから出たがらないのは、寝起きが悪いからだと思っていた。だが、どうやら違ったようだ。彼女は「起きられない」のではなくて、食事に立つ俺がいなくなるのを「待っている」のだ。そうでなければ、俺だって一度くらい彼女の「食事」に立ち会うはず。彼女はそうさせないで、俺の目に届かないところでその「こと」をきっちりと、綿密な計画を立てて遂行している。彼女が遂行しているのは、周到に用意された上での完全犯罪ってわけだ。そんなもん、暴かずにはいられないじゃないか。


「なあ」

 俺の出した声に、真木がなんとか視線をこちらに寄越した。

「なんか骨がのどにひっかかってさ、鏡で見て来てもいい?」

 真木はすぐに目を落とした。

「俺の許可なく便所に行っちゃならないなんて、俺がお前に教えたことがあったか?」


 便所なんて言うのやめて、とか椿が喚いているのを他所に、俺は安心して席を立った。それから便所の先にある階段を忍び足で登って、ゆっくりと俺たちの寝室に近づいて行った。彼女の食事が一体どこで行われているかは知らないが、ここから当たるのが無難だろう。他に心当たりもない──と、やはり寝室の中から物音がする。事件は案外早いところで解決するらしい。


 これはもう強行突破だな。俺がドアを開けて容疑者を確保するまでの間、もう相手は逃げようがない。速やかに奴さんを確保せねば。俺は素早くドアに耳を押し当てて、向こう側にいる彼女の気配を探る。空気がぴりついているような感じもなく、俺に気づいてはいないらしい。完璧だ。俺はドアノブに慎重に手を滑らせて、一度ゆっくりと時間をかけて息を吸い、吐いて、一気に、開けた。


 茜はそこにいた。心底驚いた、という動揺を隠せもしない彼女がこちらを向いた時、ごん、と鈍い音がして、その音の先を辿れば、そこにはサイドテーブルから滑り落ちたらしいガラスのコップと、そこから床に広がってしみを作る水が見える。はっとした彼女が立ち上がったのに俺の体が追いついた。彼女が何かを隠そうとしたのが見えたから、俺は彼女の目に捉えられないように顔を逸らしながら、彼女をできるだけ優しくベッドの上に転がしてやる。それから、彼女が隠そうとした「それ」に飛びついた。乱暴に俺が伸ばした手が弾いたのは、乳白色の小皿だった。それがサイドテーブルからガラスのコップを後追いするように落ちて、その中身が床の上でぱらぱらと何か軽い音を立てる。薄暗いランプに照らされた床に目を凝らせば、そこに散らばったのは形状も様々な錠剤だった。


「え、なにこれ」

 そう言う俺の背中に、着替え途中だったらしい茜は掴みかかったが、俺がその腕をぐっとひねり上げるとそれ以上どうもできないらしかった。慌ててお得意の朱色の睨みを効かせるのを忘れているらしい。

「物を食う代わりにこれを飲んでるってわけ?」


 俺が落ちた錠剤のひとつをつまみ上げてじろじろ眺めると、どうやらビタミン剤らしかった。俺の背中では、掴まれた手を振りほどこうと茜が尚も暴れている。だが、俺にとってはどうでもいいことだった。指の腹でコーティングの施されてつるつるとした錠剤の表面を撫でながら、俺はそこでやっと茜を振り返る。


「なあ、俺わかんないけど、これって『異常』だぜ。……こんな食事……いや、これって食事なわけ……?」

 俺がそう言ったとき、茜が暴れるのをやめる。俺は錠剤の表面に彫り込まれた文字を読もうと目をこらす。

「こんなのを飲み込んで食事が済んだと思ってるわけ? 君ってさ。……なんていうか、非人間的だぜ、これは」


 暴かれた彼女の秘密に、つい薄笑いを滲ませながらそこまで言った俺は、知らぬ間に空気がぴりついているのに気がついて、錠剤から目を上げ、恐る恐る茜の顔を覗き込んだ。茜の唇は、微かに開いて、震えている。暴れるうちに、高く結い上げていた筈の髪が崩れ落ち、だらりと下がって彼女の肩にかかっていた。部屋のどこからか、微かに家鳴りが聞こえてきて、俺はそこではじめて部屋の中が恐ろしく静まり返っているのに気がついた。


「非人間?」

 まるで笑うように上ずった茜の声が、俺が掴んだままの身体の先から空気にじわりと滲み出た。彼女の細腕を掴む自分の手のひらに、だんだんとぬるい汗が滲んで来るのがわかる。彼女の喉の奥から、再び音が震えて漏れる。

「そうよ。非人間だもの。私はあんたみたいな食事なんてしない」


 彼女の声は例の震えを含みながらも、はっきりと冷たい調子を保っていた。俺に掴むに任せた彼女の腕が、その爪の先が、腕の筋肉の軋みに合わせて微かにひくつく。俺は、彼女の腕を離すタイミングを完全に逸していた。


「ねえ、満足でしょ。私の無様な格好を見て」

 伏し目の茜は、俺のことを見てもいない。ただ淡々と言葉を吐き続ける。

「そう、私は食べたものの味もわからない、人の気持ちだって分からないような味気ない冷たい女よ。そうね、悪かったね」


 彼女がそう吐き捨てるのを聞いて、はっとした俺がぎこちなく指を開くと、彼女の腕は力なくだらりと落ちて、その胴体の横に垂れ下がった。彼女の唇は、まだ震えている。俺はここにきてようやっと気がついたんだ。彼女の「異常な」食事のその「異常さ」を、彼女自身がよく知っていること。むしろ、誰よりもそうわかっていて、それでも彼女はその方法を選んでいること。彼女のその「習慣」に、ここのやつらは、あえて一切触れないでいること。彼女を取り巻くもののすべての配置や様相というもの。この娼館の中でぎこちなく息をしているであろう、彼女の纏う、複雑で居心地の悪いじっとりとした日常……。


「出て行って。もう顔も見たくない」

 言葉通り俺に目も向けない彼女に、俺は言葉を失った。言うべきことなんてなかった。俺はその時、彼女の言う通りに部屋を出る以外の選択肢がなかったんだ。



「馬鹿だなあ」

 食堂に再び下りた俺に、にっこりと笑った枇杷がそう言い放つ。俺は言い返せもしなくて目をそらした。椿もテーブルの向こうでけらけらと可笑しそうに笑っている。奴らは三人とも、俺の「長い便所」の間に食事を終わらせてしまっていた。かといって俺にももう食べる気もないんだけど。

「謝ってきたらどうだ」

 と、真木が席を立ちながら言うが、俺はかぶりをふる。

「しばらく顔を見るのがこわい……」

「あの子、すっごい根に持つから、覚えときなよ」

 と、椿はひいひい息を吸いながら言う。


 椿が面白がって尚も馬鹿みたいに笑っているのに耐えられず、俺はダイニングを出ることにした。かといって別に行くところもない。ただ、外の空気が吸いたかったんだ。とにかくこの食卓の息の詰まる気分の悪さから早いところ逃げ出したい。命からがら部屋から逃げ出す先刻、なんとか引っ掴んできた上着に袖を通して戸口を出るとき、枇杷の声が確かに俺の背中に届いた。


「ここではどんな奴にも踏み込まないことだ。誰だって、知られたくないことがあるんだからさ」


***


「はあ」

 お店の片付けが終わったカフェで、レジの整理をしている茜の横に私は腰掛ける。

「まだ終わらない?」


 お客さんのいなくなったお店で、茜が仕事を全部終えるまでくっついているのが私の習慣になっていた。真人間の他のバイトは先に帰されてしまって、最後まで茜の手伝いをしているのは私だから、こういうことになる。でも、ほんとはそれだけじゃない。確かに疲れてはいるんだけど、掃き溜めの一日が終わって行くこの時間はなんとなく寂しいから誰かのそばにいたいんだ。正直に言っちゃえばね。


「もう帰っていいよ。おつかれさま」

 と、茜はそっけない。

「つめたーい」

「……私は冷たい女なの」

 と、返す茜は、やっぱり今日はなんだかイラついてるみたいだった。嫌なことでもあったのかな。まあ多分あのひとと何かあったんだろうな。と、私は嫌いなひとの顔をひとつ思い浮かべる。

「いい、待ってる」


 私はそうしてテーブルの上に溶けて広がるみたいに身体を預ける。頬っぺたが冷たい天板に体温を吸われて行くのが少しだけ気持ちいい。そうすると、横になった私の視界から、花の形をした電灯が天井にくっついているのが見えた。この街に来たばかりの時も、茜に会うためにここのカフェに来たっけ……。あのときは私、なんにもわからなかったな。ここで働くなんて思ってもなかったし、茜が私に同情してウェイトレスとして雇ってくれるとも思ってなかった。冷たい顔してるけど、このひと結構優しいところがあるんだよね。ペンを走らせて伝票とにらめっこしている茜の顔を見つめていると、急に慌ただしくドアのベルが鳴る音がした。ウェイトレスの仕事をきっちりと叩き込まれてしまった私は、ついついばっと顔をあげて来客を確かめると、娼婦の椿が殺気立った様子でハイヒールのかかとを鳴らしながらこっちにずんずん歩いて来るところだった。


「はぁもう疲れちゃった! あのオヤジほんとむっかつく!」

 それから椿はばしーんと音を立てて、きらきらしたお飾りのバッグを私たちの座るテーブルに叩きつけた。それから乱暴に椅子に腰を下ろすと、間髪入れず私をぐっと睨む。

「ねえ、ブス、あたしにお茶を持ってきて」

 私は椿の剣幕に目をぱちくりと瞬かせ、固まって、しばらくしてからやっと口を開いた。

「わたし? 私に話しかけてるの?」

 椿は私の言葉に苛立ちを隠そうともしないで、思いっきり片眉を吊り上げる。

「あんた以外いないでしょ。なにぼーっとしてんの? 早くして」

 椿の声の大きさにびくびくと縮こまってしまいながらも、私の中には確かに小さな怒りとか反抗心みたいなものが生まれていた。

「もうお仕事の時間、終わってるもの……私がすることじゃないわ」


 私がおずおずと、でも椿の目をまっすぐ見つめながらそう言ったのを椿は気に入らなかったようで、彼女は露骨に口をわななかせる。と、茜は仕事の手を止めないままで、私たちのやりとりをしっかり見ていたみたいだった。


「いい……私が持ってくる」

 と言って茜が立ち上がろうとしたとき、椿がすぐさま声を上げた。

「はぁ? 『店員が』お茶持ってくるのが当たり前でしょ? だめよ。茜、あんたが行っちゃだめ。こいつに行かせて」

 そう言いながら私から目を離さない椿の視線を受け止めながらしばらく我慢していたのだけど、私は耐えられなくなって、しょうがなく席を立った。

 キッチンのほうに向かう私の背中に、椿ではなくて茜の声が、

「コーヒーね、ミルクだけ。砂糖はいらない」

 と、聞こえてきた。

 悔しい気持ちでいっぱいで私がコーヒーを淹れて帰って来ると、椿の声が相変わらずきんきん響いていた。


「あんたさ、グラスの運び方だけ教えてどうすんの? ここじゃ、他人に媚びを売れない女なんてすぐにでもおっ死ぬわ。あんたってさあ、なんでもかんでも飼い殺しよね」


 茜に向かって怒鳴っていた椿は、私のことなんかもう忘れてしまっていたらしい。彼女はコーヒーを運んで来た私を、ああ、いたんだっけ、なんて言いたげな目で一瞥する。それから急に気が抜けてしまったように冷たい目をして、ぽうっと窓ガラスの向こうの通りに視線を投げると、あまりにもあっさりと席を立った。


「いい、もうお茶なんか要らないわ。あんたが淹れたのなんて飲みたくない」

 それから呆気にとられている私を放って、またかつかつと神経質そうにハイヒールを鳴らし、カフェを出て行ってしまった。窓ガラスの奥に揺れていた椿のドレスの暗い色は、闇夜に紛れてあっという間に見えなくなった。

「それ、あんたが飲んじゃって」

 嵐のように去って行った椿に私はしばらく動けないでいたけれど、茜はもうこういうのには慣れっこらしい。彼女は椅子を引いて、私に座るように促した。

 私はお盆をそのままテーブルの上に置いて、ソーサーごとコーヒーを引き寄せる。それからむっとしたままコーヒーに口をつけた。あったかくて香ばしいのに、やたらと苦くて、なんだかすごく不味かった。

「私、あのひと……きらい」

 今更になって、目にじんわりと涙が滲んで来る。「きらい」と呟いてから、私はなぜだかますます泣きたくなった。


 茜は私の目をじいっと見て、それからまた顔を伏して紙の上にペンを滑らせ始める。私は滲んできた涙まで飲み込むように、温かいコーヒーを口の中に流し込む。そうすると、カップの縁から時折私の目に映る茜の横顔が、ゆっくり話し始めた。


「……あの子ね、背中やももの裏にたくさん火傷があるの。何でかわかる? 酷い客がさ、面白がってあの子の背中に煙草を押し付けるんだ。あの子、熱いのがわかんないの。冷たいのもそうだけど……。だから、最初は、煙草が押し付けられてるんだって気づかないのよ。背中に何か、触れてるなって、そのくらいなんでしょうね。だから、ひどい水ぶくれになるようにずっと、押し付けられて、きりきり痛んでくるまで気づかないのね。あの子はそれを、背中の開いた服が着れなくなるってけらけら笑うんだ」


 そこまで話した茜は、私になにか答えを求めるように目を向けた。朱色の瞳が、私の顔を覗き込む。まっすぐと、切実に。私は、それがなんだかすごくいやで堪らなかった。

「……その話、私に何の関係があるの」


 私は意地を張ってつっけんどんにそう言った。言ってから、自分のことをものすごく意地悪だと思った。でも、今は誰にも優しくしたくない気分だったの。私と茜しかいないカフェの中で、時計の針がこくこくと遠く鳴っている。寒くて、靴の中の指の先が冷え切っているのに気がついた。私と茜以外誰もいないカフェの中で、茜はひとつ息を吸って私のことをもう一度はっきり見つめてから、


「ない」

 と、ひどくこざっぱりとした調子で答えた。


***


 カフェを出て閑散とした街を華屋へと帰る椿に、後ろから声が響いた。グレーの眉をしかめる吉見の兄は、居心地悪そうにして椿が振り返るのを待っていた。首のあたりをさすっている。


「なあ、痛むのか」

 と言って、吉見は自分の背中を、つまりは椿の背中の傷を差した。椿はうんざりとした様子で眉をひそめ、

「またその話?」

 と、迷惑千万といった調子で声をひっくり返した。

「しつこい」

「……なあ、よくないと思うぜ、そうやって、自分を……」

 尚ももごもごと声を出して食い下がる吉見を、椿はぎりっと睨みつけた。


「あのねえ、こんなのあたしの商売なのよ。商売、なの。不意を突かれて痛がったってふりをすりゃあさ、あいつら喜ぶのよ。喜んで金を払ってくれるの。あたしは馬鹿を可愛がってあげてるの。わかる?」


 そこまで一息で喋った椿は、自分が目の前の道化男にむきになっていることが急に恥ずかしいことのように思え出した。それからゆっくりと夜の空気を吸いこんで胸を落ち着かせようとするが、今度むきになったのは吉見のほうだった。いや、彼はむしろ、泣きそうに眉根を寄せていた。


「これから痛めつけられるんだって、あんたがどれだけわかっていようが」

 吉見はそこで息をひとつ吸って、ぐっと胸の奥の痛みに耐えながら言葉を繋げた。

「痛いことに、変わりはないんだろうが」


 そう言ってから彼は、自分の目頭が夜気の冷たさに反してほのかに熱くなっていくのを覚えていた。肺の震えを押し殺そうと、強く息を吸っては吐き出す吉見のその立ち姿に、椿は強く辟易していた。それから彼女は唇を微かにひらく。

「消えて」

 冷たく尖った椿の目元に、吉見はそのまま退きさがるしかなかった。彼女の言うとおりさっさと彼女に背を向け歩き出した吉見は、一度だけ振り返って、そっけなく向けられた彼女の背中のあまりの小ささに、悔しくて唇を噛みしめるのだった。


***


 カフェを出てから、私はぐるぐると茜や椿の顔を思い出していた。私はひとつも悪いことをしていないはずなのに、ひどくひどく胸が痛くて、気分が悪かった。なにか楽しいことをして、さっきのことの全部を忘れたかったし、どうして自分がこんなもやもやした気持ちになっているのか知りたかった。


 私はそうして、もうじき朝になる夜のままの通りを歩いてゆく。街の真ん中に向かって歩く私とは反対に、ここを出ていかなければならない帝都の「真人間」たちが私の横を通り過ぎていく。私はそのひとたちをひとりひとり見つめてみた。ぐったりとした背中を無理やり引っ立てられるようにして、濁った目をぼうっと見開いたまま、真人間たちはよろよろと肩を揺らしてその足を動かしている。一歩進むごとにがたりがたりと背中を震わせ、間抜けに開けっ放しの口からはよだれが垂れてしまっているひともいる。まるでひとの抜け殻だ、と言っていたのは、たぶん市井だ。


 夜明け間際になるまでこの街に居残ってしまった真人間たちは、こうして自分の意識を失ったまま、「歩かされる」ように、まるで映画のゾンビみたいに、「自分の足で」この街を出て行く。何も見えていないような目をして、まるで洗脳された芋虫みたいに、お化けに取り憑かれた映画の登場人物みたいに、街の外へとよろよろ歩いて行く。ふた月も前は、私だってびっくりしたけれど、今はもう慣れっこだ。掃き溜めにとってはいつものこと。見慣れた風景ってやつだ。


 ゾンビたちの流れの中でいつのまにか足を止めていた私は、ぼんやりと目を泳がせる。すると、通りの向こうに私と同じように立ち止まった人影がいるのに気がついた。バイトが終わったばかりでくたくたの私はぼうっとその人影を見ていて、それからそのひとがこちらを振り返った時に瞬いた紫の目にどきっとした。まもるだった。


 びっくりした自分を落ち着かせるように、私はそのままじっとしていたのだけれど、私に気がついたまもるは、そのままこちらに手招きしてみせた。私は戸惑ったけれど、まもるは優しく微笑んだまま私を手招きし続けている。私はしばらく躊躇っていたけれど、なんとか思い切って、よろめく人たちの波に逆らって、ゆっくり、ゆっくり、白い月の下を、彼らの合間を縫うようにしてまもるのところまで歩いて行った。まもるに追いつくと、まもるは取り出した手帳にぐいぐいと急いで文字を書いた。走り書きの、角ばってくちゃくちゃした文字。


 仕事は終わったの?


 私がこくんと頷くと、まもるは嬉しそうに目をぱちりと瞬いて、それから、じゃあ、というように私に手を差し出した。私がびっくりしていると、まもるは私の様子に気づいたらしくて、手を下ろしてから、ついておいで、と言うふうに私に目配せして歩き出した。私は、よくわからないまま、まもるの背中を追った。


 まもるが向かっているのは町の中心みたいだった。よろよろ不気味に歩く外の真人間たちの数は、歩を進めるたび、だんだんと少なくなっていく。しばらく歩いていると、とうとう道の上にいるのは私とまもるのふたりだけになった。どこまでいくんだろう、と私がまもるの様子を伺っていたとき、まもるが不意に立ち止まる。彼が立ち止まったのは、私たちの視界を下っていく坂の上だった。石畳の青い夜の景色に、電灯が通りの先までずうっと続いている。そのとき、私たちの歩いて来た通りの明かりがぽつりぽつりと消え出した。この時間、この街に残っているのはひとでなしだけになるから、街灯はほとんど消えてしまうんだ。そのときまもるが私の肩をやさしく叩くから、私ははっとして彼の方を見遣った。するとまもるは、はにかんだまま自分の目を覆う動作をしてみせる。彼が何を言いたいのかわからなくて首をかしげると、まもるは私に半歩近づいて、ゆっくり、右手で私の目を覆った。


 びっくりしたけれど、声を上げるほどではなくて、私は背中を強張らせたまま、きょとんとして立っていた。目を覆われているから、当たり前だけど、真っ暗で何も見えない。まもるは私の目を覆ったままでいる。なにが起こっているのかよくわからない。まもるが、すぐそばで笑っているのがなんとなくわかる。私はうまく息をできないまま、まもるの手は大きいな、と思っていた。


 それから急に覆いを解かれて、私はとにかく必死にまもるの顔を見た。やっぱり笑っていた。それからまもるは、私の肩に手を添えて、下り坂のほうを向かせた。私はそこで、やっと全部がわかったんだ。


 街灯がすっかり消えてしまった景色の中で、私たちの先に下っていく坂の両脇の柊の花が、暗闇に慣れた私の視界の中で、白くぼうっと浮かんで花開いていた。ずうっと続いていく通りの両側から、その色は月の光を跳ね返して、きらきらと、たしかに私の目に届く。ずっとネオンの強い光に蓋をされて見えていなかったその儚い花の色が、とうとう私の世界に映り込んで、私は息を呑んだ。しばらくその景色に目を奪われていた私は、はっとしてまもるを振り返った。まもるは、肩をすくめて笑う。彼は星を背負っている。


 そのとき初めて気づいたの。

 私、恋をしたことがなかったんだ。 



 また夜がやってくる。月の光がさす、夕方四時半の屋根裏部屋。私はベッドでまどろんでいた。昨日、まもると見たあの柊の白い色は夢じゃない。そもそも私、夢を見ないけれど。


 ここに来てふた月は経ったけれど、私が眠れたことは一度もない。疲れもする、ぐったりと眠りたいとは思うけれど、ほんとうに眠れはしない。ほかのひとでなしたちと同じような時間にベッドに潜り込み、ゆっくりと念じながら目を閉じる。けれど、頭のどこかは絶対にいつも起きていて、吹き込んで来る風のひやっとしたつめたさや、布団の生地のちょっとしたざらつきや、床板の湿った匂いや、通りのどこからか聞こえて来る夜の音を、私はいつも知っていた。ここに来てからずっと、私にとって太陽の昇らない昼は夜と同じかそれよりもずっと長くて、辛くて冷たくて寂しいものだった。けれど、今日だけは別だった。


 昨日の続きのままベッドに寝転んでいる私は、しろっぽく照らされたまもるの顔をそのまま覚えていた。にこっとどこか気恥ずかしそうに上がるほっぺたを、そう、そのまま。


 なんだか心が弾むのに、それと同じだけむず痒くて、私はひとりぼっちのベッドの上でふふ、と笑ってしまう。それから弾みをつけて起き上がって、よし、と声を出してから寝巻きを着替えることにした。



 外の人たちが入り始めた表通りは、ネオンの光がいつもよりきらきら輝いて見える。いつもとは違ってもっと優しい色、な気がする。私は、息が弾んでしまう自分に気がついて、それから、これからお仕事なんだから、と頭を切り替える。仕事をいい加減にしたら茜は怒るわ。まあ、怒ったって、肩をすくめてごめんなさいって言っちゃえば、そんなに怖くないんだけどね。


 私はふわふわした気持ちのまま、カフェに向かって人波を縫うようにして角を曲がる──そのとき、背中から私の腰に、どん、と何かがぶつかった。びっくりしたまま振り返ると、高くて幼い声が下の方から響く。

「たすけて……! わたし、追いかけられてるの!」

 そう言って私の腰に必死で縋り付いたのは、まだ十にもならないような、冬の色を映した瞳をした女の子だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る