Ⅴ-1 はじまりの朝に
彼が目覚めてから四時間程が経過していた。午前四時に眠りから覚めたかれは、再び眠る事はせずにゆっくりと身支度を整えていた。のんびりとシャワーを浴び、ひどくゆっくりとスーツを身に纏っても約束までは十分に時間が余る程の余裕があった。時間を持て余したルイは端末を手にし、少しだけ思考を巡らせる。空港で借りたモバイルルーターはジルヴェスターの部屋にあったが、客室内には無線通信が整備されていた。端末に入れられているメッセンジャーアプリを起動させれば、隣の部屋に居るであろうジルヴェスターへといくつかのメッセージを送信する。隣の男はまだ寝ているのか、それともメッセージの着信に気付いていないのかすぐにメッセージが帰ってくる事はなかった。あいつは意外と寝汚い――ジルヴェスターの寝起きの悪さを思い出し、そんな事を考えたルイは一人小さく口元だけで笑いながら鞄を手に取りロビーへと降りた。約束の時間まではまだ早かったが、このホテルのロビーがカフェを兼ねていた事を思い出したのだ。
「やっと起きたか」
彼が端末の液晶画面を見つめ、小さくそう零したのは彼が頼んだコーヒーが運ばれてきた頃であった。夏だというのに湯気の立つブラックコーヒーを頼んだルイは、窓の外の陽気に少しだけ顔を顰める。クーラーが付けられたロビーだからこそできる贅沢か、と立ち上る湯気を見つめカップに口をつける。そうしてやっと、彼はジルヴェスターからの返信をまじまじとみつめるのだ。その文面には焦りが見えるようで、それはそうだ。とルイ自身も心の中でだけ頷く。「お前も似たような事をしただろう」と言外に昨年の事件を混ぜ返しながらメッセージを返した彼にジルヴェスターは間髪入れず「それとこれとは話が別!」と即座に返信を行うのだ。そんなメッセージにどう返そうか、と思案を巡らせていれば頭上から一人の青年の声が投げかけられる。
「お待たせしましたか」
日本語で投げられたその言葉の主は、昨夜彼にメールを送った張本人であった。「いいや」ルイは青年へ一言そう答え、カップに残ったコーヒーを一気に喉へと流し込む。そうして彼はメッセンジャーアプリに一文だけ言葉を残し、端末をポケットへ仕舞い込みながら腰を沈めていたソファから立ち上がり青年へと口を開いた。
「で、俺だけを呼び出して何を教えてもらえるのかな――七生さん」
彼が目を覚ましたのは、その日のスケジュールが始まる一時間半程前の事であった。身支度には一時間あれば充分だと惰眠を貪っていたジルヴェスターはカバンの中から端末を取り出し舌打ちをする。普段であれば充電をしていたものを。と、電池残量が半分ほどになっている端末をアダプターに挿し込み充電を始める。この部屋から出る頃にはもう少しマシな残量になっているだろう。いくつかの通知が並ぶ液晶を寝ぼけ眼でぼんやりと見つめた彼は、確認は後にしようとシャワールームへと向かう。シャワーを浴び自分自身でも見慣れないスーツをその身に纏ったジルヴェスターが、幾分かスッキリした思考で再びその端末を手に取ったのは充電を始めてから三十分程が経過した頃であった。再び確認した端末の通知は普段使っているメッセンジャーアプリの通知とメールの通知であった。上部に残されたメッセージの着信通知はルイからのもので。首を傾げながらその通知を開けば新たなメッセージがいくつか残されていた。
「は?」
怒気すらも孕むようなその声は静かな室内に響く。そんな声はジルヴェスター以外に届く事はなく、彼一人居ない部屋の中で霧散していった。ルイからのメッセージを要約すれば「一人で来るようにと言われたから行く。罠だろうな」という話であった。冗談じゃない。そう画面に声を投げたところでルイに彼の声は届かない。「一人は危険すぎる、俺も行くから待ってて」と慌てて返信すれば数分ののちに「お前も似たような事をしただろう」と昨年のジルヴェスターが行った事を揶揄するような返信が返される。その言葉に即座に「それとこれとは話が別!」と返し、部屋を出ようとジルヴェスターは慌てながら準備を進める。そうしていれば、彼の端末は再び通知音を鳴らすのだ。
「あの馬鹿……!」
そこに残されてメッセージには「幸運は勇者を好むものだろう」と記されていた。彼のメッセージにいくつか返信を行ったジルヴェスターはそのメッセージへの返信がない事に舌を打つ。まずは日本支部へと向かおうと鞄を取りながら、もう一通のメールの通知を確認しようと片手で端末を操作する。
「――え?」
ガチャリと部屋のドアが閉まり、オートロックがそのドアを施錠する中。ジルヴェスターはメールの内容に思わず声を上げる。そのメッセージは簡単な英文で「入り口に居る警備員に声を掛けろ。私がナナオだ」という文章と味方であるという証拠として記載したのだろうか、ウィリアム・シーグローヴのメールアドレスとナナオと名乗るメールの送り主のアドレスと番号が続けられていた。ジルヴェスターは大きな溜息と共に肺の中の空気を吐き出し、大きく息を吸う。そうしてやっと彼はエレベーターに向けて足を踏み出した。
「あなたがナナオさん?」
ホテルを抜け出しタクシーを捕まえて観光地としても有名な公園の名を告げたジルヴェスターはその公園の駐車場でタクシーを降りる。場所さえ告げればあとは目的地に着いた後にメーターに残った金額を払えば意思の疎通が測れなくとも目的地には辿り着ける。メトロなんて使ったら辿り着けるかも怪しかった。と心の中でだけ呟いたジルヴェスターは駐車場の端に建てられた建物へと足を踏み入れそこに座る一人の警備員へと声を投げる。探るような声色で警備員へと投げられたその声に、警備員の制服を纏い帽子を目深に被った男は口元だけで笑い「イエス」とジルヴェスターへ肯定の返事を返す。目深に被った制帽を脱いだ年嵩の男は、メガネのレンズ越しにその黒い瞳をジルヴェスターへと向けた。
「制服を着てれば、その所属を問われないのが良いところだな」
流暢な英語でジルヴェスターにそう告げた七生は言葉を重ねる。
「本当は昨日君たちが来た時に声を掛けようと思ったんだが、氷川が居たからな。下手に動けなかった」
七生の言葉にジルヴェスターが「ヒカワ?」と首を傾げれば、「別の名前を名乗ってたか? 君らを連れてきた男が氷川だ。日本支部に蔓延る膿の一人だ」と七生は返す。そんな七生の言葉にジルヴェスターは舌を打つ。
「ナナオって名乗ってた」
彼の言葉に七生は思わず大きく息を吐き出し「私がウィリアムの親類という事は上にバレてたか」と苦々しげに口にする。
「改めて、私は七生・アスティンだ。遠縁ではあるが、ウィリアム・シーグローヴの親類だよ」
立ち上がりそう名乗った七生に「ジルヴェスター・ハイデルベルク。本部の研究課に所属しています」と返したジルヴェスターは七生が差し出した右手を握る。そうして、その碧い瞳をレンズ越しに真っ直ぐ七生へと向け、再び口を開くのだ。
「――で、ルイが何処に行ったのかは分かってるんだ?」
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