Ⅱ-2 彼女の追想

 彼女の意識はその柱の中で、確かに息づいていた。指先ひとつ動かすこともままならない状態で、夢と現、過去と現在の狭間で、揺蕩たゆたうように存在していたのだ。活動をしていない彼女の身体はしかし、彼女の意識によってその存在を確かなものとしていた。そうして、彼女がその意識を、思いを馳せるのは七十年以上前の夏の日の事であった。


 その日、この国は混乱の最中あった。戦争と言う名の混乱とは異なる、それを終える為の混乱。古めかしいデザインの軍服を纏う彼女は地上の混乱を聞き、溜息を隠すことはなかった。

「見咎められたらどうする」

 彼女の隣に立つ鶯茶うぐいすちゃ色の国民服を着た老人は、彼女を嗜めるようにそう口にしたが彼の言葉には真に迫るものなどは全くもって無かった。

「見咎められたところでねぇ」

 詰まらなそうに彼らの為に用意されたその執務室に置かれたソファに深く腰掛けたまま、呆れきった声を上げる。執務室の中に置かれた木製のラジオはお世辞にも綺麗とは言えない音声で国歌を流していた。そうして彼らはその言葉を耳にする。「朕深く世界の体勢と帝國の現状とに鑑み」から始まったラジオから流れる言葉は、その混沌とした戦いに終止符を打つ為に述べられた言葉であった。

「終わったな」

「うん、終わった――でも、これからが正念場」

 彼女は立ち上がり、執務室の最奥に置かれた刀架に掛けられた一振りの日本刀を手にする。漆塗りを施され艶を放つその黒い鞘を握り「そら見ろ」と視線だけをドアへと投げる。彼女の言葉にこの部屋の扉へと目を向けた彼の視界に飛び込んできたのは、慌ただしくその扉から執務室へと飛び込んできた青年の姿であった。彼女と似たようなデザインの――しかし彼女が纏うものよりはシンプルな詰襟の軍服を纏った青年は、外見で見れば彼女と同年代か幾許か若いように見える。走って来たのであろう彼は息を切らし、肩で呼吸を整えながら「会長!」と叫ぶ。

「どうした、一宮」

 口を開いたのは、老人であった。この部屋で唯一の女性であった彼女は青年の顔を見ることすらせず背を向けたままであった。

「父上が会長を呼んで来るように、と」

「一宮氏が?」

 老人は青年の言葉に首を傾げる。青年の父は老人の学生時代の後輩であった。「これからの事を話し合うと」青年はそれだけを言えばその扉から外へと駆け出していった。

「一宮か。ろくな事じゃなさそうね」

 面白くもないとでも言うように彼女はそう口にする。その言葉に「だろうな」と老人も頷く。並べば親子か祖父と孫娘と思われても可笑しくはない彼らは同い年の夫婦であった。彼女の後輩でもある青年の父を思い浮かべ、彼女は眉根を寄せる。何十年も変わることの無いその若い姿のままで、彼女は紅い瞳をゆっくり細めた。

「何を企んでるか見ものね、ここで待ってる」

 彼女は夫である老人へそう告げ、握りしめていた刀を刀架へと戻した。老人は「まぁ、ろくでもないことだろうがな」とその深い碧を彼女同様に細め、ソファに沈んだ彼女に背を向けた。

 

「千歳」

 老人が慈しむように優しい声色で彼女を呼んだのは、それから何時間も経った頃であった。ソファに沈み込むように眠りについていた彼女はぼんやりとした声で「睦月か」とその上半身を起こしながら彼を見つめる。

「ろくなことじゃなかったって顔をしてるけど、ろくなことじゃなかったみたいね」

 口元だけで笑った彼女の告げた言葉に「ろくなことじゃなかった」と彼も溜息と共に同じ言葉を口にする。

「『氷雨の遣い手がここにはいる、彼女さえ居れば我等は安泰だ』だと」

 彼の言葉に彼女は乾いた笑いを漏らす。「――馬鹿じゃないの?」その言葉とともに浮かべた彼女の表情は、彼らがまだ学生だった時分、彼女が彼に向けて浮かべていたものとよく似ていた。嘲るような笑いを漏らした彼女は「今まで散々氷川を使って、今度は祓魔師協会を守れ? 片腹痛いわ」と口にしながらソファから立ち上がる。

「睦月、手伝って」

 彼女は日本刀を乱暴な手付きで持ち、この部屋の扉へ向かって床を蹴る。「何をするつもりだ?」慌ただしく動く彼女に彼は焦った様子で声を投げる。

「私は、一宮の傀儡になるつもりはない。勿論桐生にも、鷹司にも好きにはさせない」

 扉の前で、彼を見つめながら彼女はまっすぐにそう口にする。「氷雨は、私ごと封印する。氷川の名も」ぎゅ、と握りしめた日本刀を抱きながら彼女は彼へと強い視線を投げる。それは、彼女の決意の現れであった。人間とは言えない存在となっていた彼女は、凛とした声で彼へと告げる。

「私を封印できるのは、

 誰もいない空間に聳え立つ柱の中で、彼女はその意識だけで息を吐く。その追想は彼女がその時出来た最善であったことを、現在の彼女も疑ってはいない。そうして彼女は意識を周囲に向ける。彼女がまだ意識だけの存在ではなかった頃と変わらないその空間は、清浄な空気に溢れ、遠くでは木々が騒めいていた。「――なにかが、始まる」彼女は音にはならない意識だけでの声を出す。予感はあった、と。俄かに彼女が存在するその柱の周りで様々な事が起こっていた。それは主に、彼女の封印を解こうする動きであった。彼女と、彼女の夫であった老人がその柱に施した術は、その動きの全てを跳ね除けていた。柱に施されていた封印は、彼女の直系の子孫――その血が最も濃いものでなければ解くことは叶わないものであった。彼女に似た気高き魂を持ち、氷川の血が色濃く継がれている者こそが彼女の封印を解ける――そんな存在が居たとして、その子孫が他の術師の家に従う事はない、と彼女たちは踏んでいたのだ。

「お手並み拝見、今度は何を持ってくるつもり? ――一宮の小僧」

 彼女の言葉は、誰にも届かない。

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