25-3

 午後十一時十分。椿の自室。


 珍しく土曜の夜というタイミングで、みさきからチャットアプリの通知が飛んできた。土曜日と言ったら、彼女は彼氏の家で夕飯を作っているはず。何かあったのだろうか。ベッドでゴロゴロと転がっていた椿は体を起こした。


 アプリ画面を広げてみれば、『ごめんね、ちょっといいかな』という文字。


「どした?」

『あのね、朗さんがまだ帰ってこないんだ』

「え、遅いね」

『今日は遅くなるとは言ってたんだけど、こんなに遅くなるの初めてで』

「うん」

『ちょっと怖くなっちゃって』

「この時間じゃあねえ」

『でも、お医者さんだし』


 ここで文章が途切れる。不安に思う気持ちと、安心したい気持ちがごちゃまぜになっているのがよく分かる。


『急患とかたくさん来ちゃったのかな?』

「かもしれない そしたら連絡とか入れられないもんね」

『だよね』

「まあね、激務だわな」


 再び、間。先程より長い。次に来たのは『ごめんね』と小さな熊が頭を下げるスタンプ。


『こんなことで時間使わせちゃってごめんね 寝てた?』

「まだ寝てないから大丈夫」


 文字列を打ち込みながら、椿の脳裏に一つの案が浮かび上がった。間髪入れずに文を繋げる。


「あのさ、網屋さんがさ、みさきの彼氏と知り合いだって言ってたよね」

『うん』

「聞いてみようか? 網屋さんに」

『いいのかな』

「何事もなければそれでOKでしょ」


 いつだったか、網屋が店で目澤の話題を出したことを椿は覚えていた。みさきの弁当を嬉しそうに食べていた、と教えてくれたのだ。確か仕事の関係での知り合いだと。

 網屋の「仕事」を椿は知っている。そして、みさきから見せてもらった彼氏の写真。顔に見覚えがあった。網屋をバイクに乗せて走ったあの夜だ。相田の運転する車から出てきた人物と同一であるはず、自分の記憶が正しいのなら。

 みさきにはこのことを告げていない。自分が言うことではないからだ。きっと、彼氏さんが自ら言う時が来るだろうと椿は信じているし、願ってもいる。


 嫌な予感がしたのだ。ほんの僅かではあるが。それこそ、何事もなければそれで良い。





 午後十一時二十一分。網屋の自室。


 ヘンリーに頼まれたデバッグ作業を終えて、網屋は思い切り体を伸ばした。彼は仕事の合間にこうやって小遣い稼ぎをしているのだ。

 日付が変わる前に寝てしまいたいなと思ったその瞬間、スマホがけたたましく鳴った。着信音は医師達に割り振ったものではない。誰かと思って画面を見れば、神流椿という文字が網膜に飛び込んでくる。条件反射的に嬉しさがこみ上げて、浮かれた気持ちで電話に出た。


「はい、もしもし」

『こんな時間にすみません、神流です』


 こちらの浮かれぶりとは対象的に、椿の声は緊張に満ちていた。網屋はそれを分からない、もしくは分からないふりをするような人間ではない。瞬時に頭を切り替える。


「どうしたの?」

『あの、つかぬことをお聞きしたいんですが』

「うん、何でもどうぞ」

『目澤朗さん、って、確かお知り合いでしたよ……ね?』

「うん。あれだよね、加納さんとお付き合いしてんだよね確か」

『その目澤さんなんですけど』


 椿が息を吸う気配が分かり、網屋は思わず身を固くした。





 午後十一時二十二分。陣野病院、休憩室。


 休憩時間というやつは、一応決まってはいるがその通りになった試しなど無い。それが夜勤というやつだ。なんにも無い時もあるし働き詰めの時もある。故に、夜勤の際はスクラブの上にドクターコートを羽織った格好のままだ。ご丁寧にシャツとネクタイを解いて脱いで、なんてやってられるわけがない。なので、うまいこと休憩時間が取れた場合はスクラブのまま寝てしまう。きちんとパジャマを持ってくる人もいて、個人差は大きい。


 今日はあまり動きはなく、うまいこと休憩が取れた。中川路は休憩室に行く前に、自分のロッカーからスマートフォンを取り出した。何か連絡が来ていないか確認するのはもう癖になってしまっている。

 目に飛び込む、着信履歴と留守録。時間を確認すると約一時間前。相手は。


「……藤田ゆうき!」


 情報提供者としての立場をよく言えばわきまえている、意地悪な言い方をしてしまえばこれ以上精神的に踏み込むまいとしている藤田は、こちらに電話を直接掛けてくることなど滅多に無い。いや、そもそも今まで一度も無かったはずだ、彼女から接触してくるなんて。

 休憩室に向かおうと開きかけたドアを勢いよく閉め、ロッカーに取って返す。通勤用の鞄から取り出したのは分厚い手帳だ。目当てのページを一発で広げ、確認。彼女の職場の住所、電話番号、勤務時間、そして休憩のタイミングが書いてある。休憩時間は十一時十五分から。内容のチェックをする間に留守電の内容を聞く。


『お仕事中、申し訳ありません、藤田です。目澤さんに関して、ちょっと聞いていただきたいことがあります』


 内容を最後まで聞かずに、迷わず返信ボタンを押した。一分一秒の時間が惜しかった。コール音が一度鳴っただけで相手はすぐに出る。


『はい、藤田です』

「遅くなって申し訳ない」

『こちらこそ勤務中にごめんなさい』

「いや、それはいいんだ。で、目澤がどうしたんだ」


 藤田の頭の回転が早いことを、中川路は知っている。故に余計な言葉は全て端折ってしまう。


『今日のお客様が、目澤さんの名前を口にしていたんです』

「もしかして、いつもの連中?」

『いえ、メンツは別人です。でも例の集まりの人間』

「なるほど。で、内容は」

『警察関連と思わしき人物に、目澤さんを襲撃しろと言われたようです』


 藤田も、余計な言葉は削ぎ落としてくる。ぞわり、と中川路の背中を悪寒が走る。


『時間は十時ちょっと過ぎくらい。そのタイミングで、もう始まってるかもしれないってことを話していました』

「ありがとう、助かった。礼はまた後日に」

『はい』


 ろくに挨拶もせず電話を切った。次に掛けなければならない相手がいるからだ。

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