24-5

 走る、B棟の自分のラボに向かって。ミミックのいた方向とは丁度反対側だ、音を立ててもさほど問題は無かった。いつも通り角を曲がり、フロアを抜け、廊下を抜けて、いくつも並んだ同じようなドアを迷いなく開ける。こちらは荒らされていないので、研究用の培養装置は破壊されることなく無事に稼働していた。

 あった。そこに、いつもの場所に、彼らは居た。静かに。

 月子と共に作り上げた、対ミミック専用カテゴリーA分類生物兵器。大気に触れることにより爆発的に増殖し、エアロゾル状態で拡散。地上に存在する微生物とは比較にならないほどの速度でだ。


 上着のポケットから携帯電話を取り出した。上から二番目にあった番号がたまたま塩野のものであったので、それを選ぶ。一番上は月子で、三番目は目澤だ。

 かけた途端に相手は出た。物凄い速さだ。


『もしもし、川路ちゃん?!』

「いいか、よく聞いてくれ。今から二十五時間、この実験本島から全ての人員を退避させろ。実験A棟を中心に半径十キロメートルの範囲内、一切の生物を入れるな。上空もだ。二十五時間経過後、レベルB以上のPPEを着用して建物内部を確認。要はホットゾーン扱いだ。二十時間経過すれば一応は大丈夫なんだが、大事を取って五時間追加」

『待って川路ちゃん、何をする気』

「人体に対する影響は、臨床実験なんてしてないからな。何かあるのはどう考えても避けられないが、どれほどの影響が出るのか知れたもんじゃない。二十五時間の隔離を徹底してくれ」

『川路ちゃ……』

「頼むぞ」


 一方的に通話を切った。それ以上話していたら、未練のようなものが出てきてしまいそうだったから。


 装置から培養槽のガラス容器を取り外す。流石に五リットル用は重いが仕方ない。確実に割るためには、その重さが寧ろ丁度よいだろう。大事に抱え込み、自分のラボから出る。二度とここに戻ることはない。

 再び走り出す。もう音を気にする必要さえない。


 ミミック付近の廊下の角に辿り着く頃にはすっかり息も切れて、一度立ち止まり肩で呼吸をした。背中を付けた壁が冷たい。赤子のように抱え込んだ、ガラス容器も。


 自分と月子の二人で作り出したのだから、子供のようなもの、かもしれない。月子さんとの間に子供ができたらどんな感じだったろう。家庭を築いて、のんびりと暮らすことができたなら。


 月子さんに渡したかった。この指輪。ひと目見た瞬間に、これこそが彼女にふさわしいものだと確信した。とても良く似合うだろう。彼女の指に映えるだろう。

 ああ、ああ、月子さん、月子さん……君はきっと怒るだろうね。だけど、望むがままに動く俺を、どうか、許して下さい。


 ガラス容器を両腕で抱え、中川路は廊下の角から出た。先程より少し奥に移動していたミミックは彼に気付かない。ある程度の捕食を終え、動きが緩慢になってきたからだろうか。それとも、中川路が歩いて接近したからだろうか。どちらでもいい。どうでもいい。奴に接近できさえすれば。

 黒目がちな瞳がひとつ、ふたつ、こちらを捉える。奴の意識が集中し、無数の視線がこちらへと向けられる。ずるり、と緩慢に巨体が動く。そうだ、こちらへ来い。近付いてくるがいい。


「俺は、お前がどこから来たのか知らない。分からない。月子さんは、外宇宙から来たのではないかと仮説を立てていた」


 近付く。移動しているのか、それとも膨張と崩壊を繰り返しているのか、どちらともつかない。体の一部が生成され、崩れ、また作り出され、増え、滅び、急激な新陳代謝を展開しながら、膨張する肉がガラス窓を圧し割り、壁に亀裂を走らせ、中川路へと迫る。


「乱暴に言ってしまえば宇宙人だってことだろう? だったら」


 抱えた五リットルガラス容器を掲げる。ミミックが接近してくる。ゆっくりと、確実に。歪な手が、指が、足が、嘴が、彼を捕らえて喰らおうと伸びる。伸ばされる。


「どうってことない地上の細菌にやられてくたばるってのが、この星じゃお約束なんだよ」


 笑ってみせた。誰に向かって笑ったのか、それはきっと、自分自身に向けて。


「冥土の土産に覚えとけ」


 そして、掲げたガラス容器を床に叩きつけた。派手な音を立ててガラスが割れ、中の培養液が飛び散った。自分の足元を、すぐそばにまで接近していたミミックの接地面を、廊下を、辺り一面を濡らして「彼ら」が空気に触れる。軛から放たれ自由を得て、増え、大気に満ち、この場を支配するものとなる。

 ミミックから伸びた腕が恐れるように引っ込むがもう遅い。その体表に菌が接触した時点で分解は始まるのだ。ミミックを倒すためだけに造られた、とても小さく、膨大な数の生命が、巨大な一個の存在へと襲い掛かり、喰らい尽くす。体組織分解の開始時間は観測実験での平均値で0.24秒。この閉所、その体積、逃げられるものか。

 体組織生成の崩壊とは別種の反応がミミックの体表で起こり始める。元来の状態で観測できる崩壊よりもはるかに速く、いくつもの黒斑が浮かび上がり水分が失われ収縮し剥離して砕けてゆく。

 突然の出来事に混乱したのか、目玉ばかりがぎょろぎょろと動いて辺りを見ようとする。が、その目玉ですら見る間に黒く縮み、乾いて崩れてしまう。模倣した組織の生成も、元来の体組織の増殖も、何もかもが間に合わない。翼は折れ、指がもげ落ち、歯がこぼれ、全てが黒く染まって崩れ、崩れ、崩れて、粒子へと変化してゆく。ただの塵へと。

 中川路自身も、喉と鼻の奥に強烈な痛みを感じた。激しく咳き込み、口を抑えた掌には大量の血液が付着している。眼球も痛い。目元を拭えば、スーツの袖口にべっとりと血だ。だが、襲い来る痛覚よりも安堵感の方が上回る。きちんと働いている証拠だと実感することができたからだ。

 目を開けていられない。体の内側が痛くて仕方がない。立っていることもできず、膝をつき、咳き込んでそのまま床へ倒れた。無理矢理に開いた目蓋の向こう側で、巨大な体躯を揺らしのたうち回るミミックの姿がおぼろげに見えた。


「はは……ざまぁ……みろ……」


 再び目を閉じる。暗闇の中に、月子の顔は見えない。


「……くたばり、やがれ……!」


 この世の呪詛の全てを込めて、中川路は罵り、そして意識を手放した。

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