23-7

 今回は号泣された。極力人目につかない場所で話をするのだが、ここまで大声を上げて号泣されたら、きっと音が漏れているだろう。誰かにどうのこうの言われるかもしれない。

 だが、そんなことを気にしている場合じゃない。決めたのだから貫き通す。ひたすら上から順番に。


 中川路はその日も、引っ掛けて遊んでいた女に別れを告げた。一日につき一人から二人。大抵は話が長引くのでこれが限界だ。怒られるのは当たり前、ヒステリーを起こす、泣き喚く、殴る、ゴネる、沈黙を貫く、それらの反応に根気よく付き合い、理解してもらうまで粘る。

 自分の撒いた種であるからして、諸々痛い目を見るのは仕方がない。寧ろ全くゴネず素直に引いてくれる女の方が怖くなってきた。後からどうのこうの言われたら困る。分かったような素振りをしておいて、実は全く引く気がない……なんてのが一番厄介だ。それだけは避けねばならない。今のところ、そんな女はいないから良いものの、いつ懸念が具現化するか知れたものではない。警戒するに越したことはない。


 そんな気持ちで、今日も一人切った。実はこれで最後だ。携帯電話に入れてある女達の連絡先、そいつを一番上から順繰りに選んで別れ話をし続けて早数ヶ月。ようやっと終わらせることが出来た。

 これで、準備は整った。いや、最低限やらなければならないことを終えたと言うべきか。


 女が吐いた罵りの言葉も、この後に彼女と会えるのだと考えれば一瞬で忘れられる。正直に言ってしまえばどうでもいい。どんな言葉も態度も、殴られた痛みすら中川路にとっては意味を成さない。……まあ、今回は殴られなかったから、助かったのだが。



 そんな事を考えながらラボへ向かう。ここ最近は夜も研究対象に張り付いている事が多く、まるで赤子の面倒を見ているような状態であった。実際の乳児のように二時間おきにどうのこうの、とまでは行かないが似たような状況で、負担軽減のために月子が交代で子守りをしてくれている。

 公的な理由で堂々と月子を確保できるのはありがたい。職権乱用というやつだ。もうこの際、どんな理由でもかまわない。彼女と一緒にいる時間がとにかく好きなのだ。学術的なことを語り合っている時も、何も喋らず黙って対象と睨み合いしている時も。


 チクショウ、これが好きって感情か。これは確かに振り回される。感情の振れ幅が極端になる。こんな状態で告白なんてできるのか? 準備が整ったとは言え、それと覚悟を決めるのとでは話が違う。準備を終えてしまったことで余計に二の足を踏む。

 ああ、俺はこんなにヘタレだったのか。自分でも驚く発見が次々と出てきて、感情の処理が追いつかない。それなのに、彼女に会いたいという欲望ばかりが膨れ上がって頭の中は真っ白になる。取り繕うことすら出来ずに、ただその瞬間を享受することで精一杯。


 ラボの前にたどり着き、ドアを開ける前に深く息を吐き出す。この緊張感を忘れないように。いや、結局は顔を合わせれば忘れてしまって、共にいることだけが世界のすべてになってしまうのだが。


「月子さん、交代の時間だよ」


 極力平静を装って、軽い調子で声を出しながら中へ入る。だが、そんなフェイクも月子の顔を見た瞬間、あっという間に吹き飛んだ。


「……どうしたんだ、その顔……!」


 いつも通りに計器と培養シャーレを見つめていた月子であったが、そんな彼女の頬は痛々しく真っ赤に腫れ上がっていたのだ。

 中川路が話し掛けるまで座ってぼんやりしていた月子は、慌てて立ち上がった。


「あ、うん、何でもないから!」

「そんな訳無いだろう! 叩かれたんじゃないのか? いやちょっと待て、これ、引っかかれてるだろう! 血が出て……」

「大丈夫だよ、ホントに大丈夫、何ともないし、もう痛くないし、大丈夫だから」


 今思えば、この時は完全に頭に血が上っていた。月子が何かを隠そうとしているのを分かっていながら、それでも中川路は暴くことを抑えられなかったのだ。肩を掴んだ手に力がこもる。


「嘘を付くな、これで何ともないなんて……! 何があったんだ、月子さん」


 月子の瞳が少し揺れて、彼から離れ、僅かにうつむく。きゅっと唇を引き結ぶ。紡がれる言葉は小さく、躊躇いがあった。


「……その……ちょっと、喧嘩しちゃったんだ。友達と」

「誰だ、その相手は」

「うーん……その……言いにくい、な」

「月子さん」


 強い語気のまま名を呼ぶ。月子はうつむいたまま。


「別に、その相手を知ったからって、そいつにどうのこうのする気はないよ。ただ、知っておきたいんだ。気になっちゃうじゃないか。だってそうだろう? ここまでの大事になってるんだから。もう一回言うけど、これで何ともないなんてのは通用しないぞ」


 細い指が己の白衣を掴んで、暫くの間が空いた後、ようやく彼女は顔を上げた。


「……そうだよね。正彦君に、隠したままってのも、できないよね。ちゃんと話しておきたい。隠し続けるなんて、したくない」


 言葉は多分、自分を鼓舞するための呪文みたいなものだったのだろう。己に言い聞かせるように呟いた後、月子は顔を上げ、そして風船がしぼむように座った。中川路も適当な椅子を引っ張り出して座る。


「んーと、どこから話せば良いのかなぁ……」

「誰に殴られたのか、そこから」

「……ダーシャちゃん、って覚えてる?」

「ええと……あー、インドの子?」

「そう。A班の子」


 中川路の記憶から出てきたのは、大人しく地味な女性の姿だった。小さい体格ながら出るところは出ているトランジスタグラマーというやつで、眼鏡の奥からこちらを見つめてくる印象は子リス。そんなに大人しい女がどうして……と考えかけて、中川路はその思考を止める。大人しいやつに限って何をしでかすか分からない、と思ったのはつい先程ではなかったか。


「その、ダーシャちゃんがね、お友達になりたいって言ってくれたの。すごく嬉しかった。いつもは私から友達になってって言うから、本当に、すごく……嬉しかったんだ」


 しかし、彼女の手はやはり白衣を強く強く握り締めていて、そのままの状況では済まないと容易に想像できた。


「それが、一週間くらい前で」

「もしかして、具体的には八日前じゃないか? 火曜日」

「うん。そのはず」


 そのものずばりの日付を提示してみせる中川路に、月子は特に驚きもしなかった。それが余計に、中川路の中の嫌な予感を膨れ上がらせる。


「それでね、一緒にご飯食べたりお喋りしたり、仲良くやってたんだ。……でもね、今日、ダーシャちゃんが……正彦君との仲を、取り持ってほしいって。そう、言ってきたの」


 やっぱりな、と中川路は苦虫を噛み潰したような顔付きになる。先程示した八日前という日付は、中川路がダーシャという女に別れを切り出した日であるのだ。


「正彦君ともう一度やり直したいからって。だから、正彦君と仲のいい私に仲介を頼みたいんだ……って」

「……くそ、あの女」


 思わず漏れた呟きは何とか口の中だけで収まった。


「何となくだけど、予想はついてたんだ。こうなるって。でもそれは、根拠の無い直感だったから……そんな勘繰りをする自分が嫌で嫌で仕方なくて……でも、本当になっちゃった。予感、当たっちゃった」


 友達などというのは餌だ。あの女が隠し持っている狡猾さを知らなかった訳ではない。ベッドの中で端々に垣間見えてもいた。大人しいから性格も良い、などという方程式は成り立たない。


 月子は下を向いたままである。己の中に淀む感情を、なんとか外に出そうと藻掻いている。

 彼女はそういう人だった。綺麗な部分も汚い部分も、己として向かう人だった。自身にとても厳しい人であったと言い換えても良いのかもしれない。

 故に。唇から言葉を、なんとか紡ぎ出した。


「……私は…………できない、って、言ったの」


 下を向いたままの状態では、月子の表情を知ることは出来ない。しかし、その手に、膝に、ぽとりと音を立てて落ちる涙。いくつも、いくつも。


「できない、って、私は、それができないって、言ったの。それだけは、協力できないって」


 声が湿る。嗚咽が言葉を細切れにする。


「友達なのに、酷いって、言われた。友達なんだから、協力してくれるのが……当たり前だって……そうだよね、普通は、そうなんだよね。分かってる。私だって、それくらい分かる。でも……できないの……私は、私には、できないの!」


 大きな涙の粒が落ちて、手の甲で弾けた。血を吐くような叫びに、砕け散るように。


「私は酷い人間なんだ、自分の欲望に従う、酷い……醜い……それでも……どうしても……!」


 それ以上の言葉を続ける前に、中川路は立ち上がった。突き動かされるように月子を立ち上がらせ、思い切り抱き締めた。腕の中で月子の体が強張るのを感じる、だが、それが何だ。構うものか。今この瞬間に抱き締めなければ。他に何がある、それ以外に、何が。


「月子さん」


 名を呼ぶ声に、熱がこもっているのを自覚する。


「俺さ、連絡先に入ってた女の電話番号、全部消した。遊びで引っ掛けた女は全員手を切った。月子さんに告げるのなら、全部終わらせてからじゃないと駄目だって……そう、思ったから。今日、終わったんだ。終わらせた。だから、言うよ」


 少しだけ腕の力を緩めると、中川路は月子の顔を見つめた。うっすら赤く腫れた目尻に涙が溜まり、零れ落ちそうになっている。その涙をそっと拭う。


「月子さん。好きだ。俺は月子さんしか見てない。月子さん以外いらない。だから、月子さんも……俺を見てくれていたのなら、嬉しい」


 胸の中いっぱいに、愛しいという感情が込み上げてきて苦しくなる。これが、恋か。これが、愛なのか。


「……俺、自惚れちゃっていいかな。月子さんが、協力はできないって言った意味。俺の都合の良いように取っても、いいかな」


 普段の中川路らしからぬ弱気な発言に、思わず月子は薄く笑う。


「ああ、笑った。やっと笑ってくれた。月子さんの笑った顔、大好きなんだ。最初に会った時も笑ってたろ?」


 滑らかな頬に触れ、未だ流れ落ちる涙を拭って、その涙が悲しみによるものではないと知る。

 ああ、こんなにも、こんなにも、自分は、あなたのことが好きなのです。


「いいの、かな……私、その……正彦君……」

「誰かに許されないと、怖い?」

「ちょっと、ね」

「じゃあ、俺が許すよ。だから月子さん、言葉にして。俺も怖いんだ、自分の勘違いだったらどうしようって」


 随分と情けない実情を、躊躇いもせず吐露できる。自分でも信じられないくらいあっさりと。

 月子は頬を赤らめて、それでも真っ直ぐに中川路を見た。


「私も、好き。正彦君が、好き。すごいね、互いに好きって、すごいことだね」

「そうだな。もう俺、なんて言っていいか、分からないや」


 見つめ合い、互いの位置が近くなって、吐息が肌で分かるほどにまで。

 柔らかく触れ合った唇は、熱い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る