18-4
相田は周辺の状況を確認する。交通状況はまばらで、道は十分に広い。このまま群馬県方面に進むのはいいが、あまり進むと高崎市にまで到達してしまう。大きな駅がある市なので、その手前で進路を変えねばなるまい。
現在の時速は百三十キロ前後。背後の車はまだ余裕を持ってついてきている。ならば、と更に速度を上げた。相手はいわゆる「百八十キロを超える」タイプの運転手だと悟ったからだ。
「相田君、解説を聞く余裕、ある?」
塩野が後ろを向いたまま聞いてくる。大きめの声で「大丈夫です」と返すと、それに応える塩野の声は少し低い。
「多分、追手は警察関係者だ。さっき僕、飲酒運転として処理するって言ったでしょう。自分で口走っといて後から気付いたんだけど、処理する、ってことは、処理できる立場にいるか、処理する人とお友達ってことだよね。少なからず警察と関係がある人、もっと短絡的に考えれば……」
「警察官そのもの、ってことですね」
「うん。僕が分かるのはそこまで。追っかけてきてる人らが交通課の人かどうかは分からない。ただ、速度慣れしてるのと、追跡も慣れてるってのは確実。素人じゃない」
「了解です。そのつもりでやります」
塩野の推測は限りなく事実に近いだろう。そこら辺の飛ばし屋気取りとは訳が違う。
前に、こんな話を聞いたことがある。警察官が車やバイクで相手を追うとき、全力は出さないのだ、と。全速力で追い立ててしまうと相手が事故を起こす恐れがある。日本の警察は人命を優先するが故に、時には故意的に逃し、後で証拠を揃えて取り立てるのだ。アメリカなどは人命を日本ほど優先しないため、全力で追い、結果として事故を起こす事が多い。
また、警察車両は改造を施していないとも聞いた。何かをするとしてもテコ入れ程度だ。それらの情報から推測できる諸々は、相田の背筋を冷やす。
それでも。相田はこの車に絶対の自信を持っていた。この車の性能をフルに引き出すことが可能だと、そう強固に信じていた。確信は即ち、今までの経験の蓄積だ。レーサーとしての過去ではない。車の何たるかを知り、整備し、練習を積み重ねたという経験だ。
更に速度を上げる。既に百八十キロは超えている。ここまで到達すると、最も注意しなければならないのは自身の挙動より他車両の挙動だ。背後の追跡者はまだついてくる。それどころか、追突する気も露わに追い立ててくるのだ。
はるか前方に小さく見える物体を認識すると、相田は徐々にスピードを上げてゆく。車線は左側。
ごく僅かづつ、じりじりと。相手がそうと認識できない程度に。
付いてこい。そうだ、追いかけてこい。追いつけると、錯覚するがいい。追うことに夢中になり、この車以外の物は見えなくなる。
前方に確認したものがはっきり見えてくる頃合いで、相田はさらにアクセルを踏み込んだ。ただし、まだ全力ではない。相手がまだ踏み込める速度だ。餌は十分に撒いた。
追跡車は期待以上にあっさり食いついてくる。追われる立場を十二分に演出してやったのだ、そう来なくてはならない。
「しっかりついて来いよ!」
小さく呟いた。相手が前方の物に気付いてしまっては意味が無い。ギリギリまで引きつけ、意識がそちらに向くより前に到達しなければならない。その条件を、相田は非の打ち所がないほどに満たした。
目の前に、車両運搬車。蹴るようにアクセルを踏む。一挙に増す速度、そいつに振り回されて前輪がブレる。トルクステアというやつだ。車のフロントが右へ吹っ飛ぶ。
相田はそれに逆らわなかった。最初からそのつもりだったのだ。車両運搬車のそれこそ直前で、相田達の乗った車は急激に右車線へ曲がった。背後にへばりついていた車両はもう間に合わない。路面にまで下げられていた上段荷台を猛スピードで駆けのぼる。
そして、上空へと飛んだ。
相田はその顛末を見届けもせず、中央分離帯の僅かな隙間を抜けて反対車線へ飛び込む。右車線を走っていた追跡車は慌てて急ブレーキを踏んだ。元来の目的を考えればそのまま突っ込んで相田達の車にぶつかるべきであったろう。だが、それができなかったのだ。これはもう反射としか言いようのないものであった。
気が付いた時にはもう遅い、青い車は背後へと去ってゆく。悪態をつきながらUターンしようとするが、相田のすり抜けた隙間は本当にごく狭いもの。簡単に通れるものではなかった。しばらく逆走し交差点で反対車線に入る頃には、もうその姿は見えない。
上空へと飛翔した車は放物線の描く先でアスファルトに叩きつけられ、さらにガードレールへと突っ込んでいた。どう見ても再起不能だ。
これで追跡車はひとつ減って三台。だが、まだ一台削っただけだ。
相田はわざと速度を落として三台を待った。まだ引っかかってくれる。相田の中にはそんな感触があった。しかし、その次はないだろう。速度を落とすのはこれが最後になる。
背後にヘッドライトが迫る。暗闇に沈む路面を切り裂いて、獰猛な殺意が追いかけてくる。
だが、相田はこの感覚に似たものを知っている。
熊谷市の市街方面へと向かう都合上、対向車が多くなることが予想される。可能な限り一般車は巻き込みたくない。早めにケリを付ける必要があった。人気のない場所で、なおかつ思い描く条件に見合う場所。相田の視線がカーナビの画面を走り、瞬時に該当箇所を発見する。
加速。忠実に相田の意思を反映し、車はどこまでも加速する。障害物のない真っ直ぐな道路を、ひたすらに走る。追跡車は躍起になって追ってくる。
道路はごく緩やかに右へと曲がり始める。まだ対向車は見えない。単調な道程に運転手の意識が茫洋とし始めた時だ。
相田の車が大きな唸りを上げた。加速の合図だ。派手なエギゾーストノートが耳をつんざき、タイヤが路面に噛み付いて前へ、更に前へと。追跡する車三台も速度を上げる。追いつけると思ったからだ。しかし、前を行く車体は突如その姿を消した。
馬鹿な、と思う暇もない。目の前には道路ではなく、Y字路の合間に植えられた大きな街路樹。真正面だ。低木の植え込みに突っ込み、街路樹の幹に正面衝突。さらにもう一台が後ろから追突する。
Y字路の左側へほぼ横っ飛びに突入した相田は、追跡車の衝突を音で確認する。二台分の音があったまではいい。しかし、最後の一台は相田の揺さぶりに引っかからなかった。見事にブレーキを効かせ、どこまでも背後に喰い付いてくる。
三台までは響介の真似でなんとかなった。それでも振りきれないなら、もう悠長に構えてはいられない。
相手も車に関しては自信があるのだろう。そして、経験も。小手先の技は効かない。振り回してどうこうできる相手ではない。ならば、あとはもう全力で走るしかない。
左に入ったのはそのためだった。勿論、先程のY字路で全ての車が引っかかってくれればそれに越したことはなかったのだが。
動きが一台だけ明らかに違う。ミラー越しにその実力を認識した相田は、該当車両を故意的にこのバイパスへと誘導したのだ。
疾風、と人は呼んだ。狂気の沙汰だとも言われた。ならば狂気で構わない。
ただ俺は、この車を信じているだけ。
踏み込む。回転数を適切に保つ。然るべきシフトに入れる。この車がスムーズに走れるように、持っているポテンシャルを遺憾なく発揮できるように、ただひたすら、受け止める情報と有している情報をすり合わせ、操作する。そのように作られている、それをそのまま実行する。
道は緩やかに右へカーブし、しばらくの後に直線へと変化する。この時間帯に車の姿はほとんど無い。故に相田は速度を上げる事にのみ集中できた。当然、考慮しなければならない項目は山程ある。いくら人気が無いとは言えど、全くの無ではないのだ。
前方に車。影としか認識できないほどの速度。十分な距離を開けて避ける。直後、対向車線に一台。トラックだ。真横をすり抜けた。
追跡車もしぶとくついてくる。軌道は粗いが、この速度のなか瞬時に判断を下し的確に実行している。ならば、まだだ。まだ速度を上げることができる。
まだついてこれるだろう?
日常生活では出すことのないスピードに伴い、騒音も通常時には聞くことのできない大きさになる。左右に広がる田園風景に轟音が吸い込まれてゆく。路面との摩擦でタイヤの表面が削れ、溶ける。アスファルトに踏みしめた爪痕が残る。
まだ踏み込む。まだいける。エンジンはまだその全力を発揮してはいない。誰も止めることはできない。まだだ。まだ走れる。
僅かに道が湾曲。その緩やかな曲線でさえ、飛ぶような速度の中ではかなりの角度へと変化してしまう。それを乗り切るとまた直線。今度は長い。とはいえどせいぜい三キロ程度だ、あっという間に終わってしまうだろう。
ここで相田はさらに踏み込んだ。自分の車の加速力を信じた。走る。より速く、走る。速度計の針が右へと動いてゆく。
相田にとって、懐かしい速度。周辺が消し飛び、目の前の世界だけが迫る速さ。限界まで集中する。目と、耳と、皮膚から伝わる情報を受容すると同時に処理する。対向車。路面。回転数。振動。
そして直線は終わり、左カーブ。角度が深い。次いで右。S字に揺さぶられ、流されそうになる車体。堪える。捩じ伏せる。地図上では緩やかな右カーブが長く続いている。他主要道路との合流が近いのだ。車の数が増えるだろうことを予測し、より警戒を増したその時。
背後から、耳障りな音が聞こえた。断末魔の悲鳴の如く甲高く軋み、路面とタイヤとが互いに負荷を掛けあってこすれ合う音。ブレーキディスクが限界を突破し、その役目を果たせずにいる音だ。
黒い車体がミラーの中を横切った。制御を失い左へと流されてゆく。暗闇の仲で明色を主張する白いガードレールに、漆黒の車体が衝突してその均衡を崩す。衝突してもなお速度は衰えず、火花を散らし不快な摩擦音を立てながら滑ると、じきに動きを止めた。
速度に負けたのだ。相田にではなく、己の速さ自体に喰われた。真後ろにぴったりくっついてくる、その魔物に。
「……これで、全部」
エンジンブレーキで緩やかに減速しながら、喉の奥に詰まった空気を吐き出すように呟く。身動き一つしなかった三人の医師もようやく強張った体を休めることができた。
「ちょうど国道に合流するとこですね。帰還します」
「……相田君すごいな。あれだけの運転をしておいて、平気な顔してるなんて」
「いや、平気じゃないっすよ。指が固まって、ステアリングから離れません」
笑って返すと、中川路も笑った。苦笑ではあったが。
「それで済んでるのが、もうおかしいんだよ。座ってるだけで怖かったのに」
走っている間に一言も発しなかったのはそのためだ。医師達が口出しすることなど何一つ無かったが、それ以前に口を開く余裕など存在しなかった。理由は勿論、恐怖からだ。塩野に至っては隣の目澤にすがりついて「怖かったよう」と泣きつく始末。すがりつかれた目澤も「俺も怖かった」と言っているのでどっこいどっこいだ。
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