13-5

 翌日、日曜日。朝。グリズリーコーヒー店内。開店前。


「良かったねえ。楽しかった?」


 大きな水出し式コーヒーメーカーと睨み合いをしながら、椿が問う。暑くなってきたのでアイスコーヒーを準備しているのだが、この店ではダッチコーヒーと呼ばれる水出し専用の機材を取り入れているため時間が掛かる。その手間、約八時間。

 その日の気温や湿度と相談しながら、ゆっくりと水滴を落としてゆくのがこのダッチコーヒーメーカーだ。水滴の落ちる速度が早くても遅くてもよろしくない。

 その調整作業の邪魔をしない程度に、みさきは昨日の出来事を話していた。本人もフルーツタルトを早めに冷蔵庫に入れてしまいたいため、作業しながらの会話だ。


「楽しかった! 来年のバラ祭も一緒に行こうって約束してくれたんだよ」

「おお、えがったのぅ、えがったのぅ。浮かれとるのぅ」


 実際、みさきはかなり浮かれていた。長年彼女と顔を突き合わせてきた椿だが、ここまで浮かれているのは今までお目にかかったことがない。

 暴漢から助けてもらった時も、弁当を作り始めた時も、それはそれは嬉しそうに話していたが、今回はそれに輪をかけて満面の笑顔。誰が見たって分かる、これは恋する乙女である。


 話を聞いている限り、相手の男性は相当歳が離れている。が、それに対して妙に納得してしまう椿である。みさきが同世代の異性とどうのこうのなんのかんのという図は、いまいち想像できないのだ。


「それでね、帰りに、親子に間違われたかなって言うから、むしろ恋人同士だと思われたいって勢いで言っちゃった」

「すごいな?! みさきってそんなに押せ押せタイプだったっけか?」

「だから、その、勢いで。今言わなきゃダメだーって思って」


 自分で思い出して顔を真っ赤にしている。押すがいいさ押すがいいさ。ガンガン押して、押し出し寄り切りで今場所優勝すればいいさ。などと思いつつ作業を進めるが口には出さない椿。

 この娘が、きちんと自分の欲望に従って動いているのをみると安心するのだ。当たり前のように、人のために粉骨砕身できてしまう彼女である。できれば自分自身のために粉骨砕身してもらいたいものだと常日頃思っていたので、ようやくその機会が訪れたということだ。


「お相手さんはどうだったのさ。反応は」

「うん、言っちゃった後から、そんなこと言われても困るよねって思って謝ったんだ。そしたら、困ることはないよって言ってくれた」

「うおお、それってかなり好反応じゃない……ってアレェー?」


 振り向いてみさきの顔を眺めてやろうとしたところ、その表情は突如として悲壮なものになっていた。


「どうした」

「……よく考えたら、これって……目澤先生に無理矢理言わせてるんじゃ……」


 顔がみるみる青くなってゆく。


「だ、だって、目澤先生、すごく優しい人で、私みたいな小娘にもすごく気を使ってくれて、お弁当作って押しかけてるのに嫌な顔ひとつしないし、だから、これってやっぱり、気を使わせちゃってるってことで、言わせちゃってるんじゃない……かな……」


 顔面蒼白どころか、目に涙が溜まり始めている。


「どうしよう、私、言葉を、強要、しちゃった……!」

「うーわ! 落ち着け! 落ち着けみさき! 泣くなー!」


 タオルでみさきの顔を抑えてやると、そのタオルの奥からくぐもった声で「ありがと」と礼。こんな時まで礼なんぞ言わんでも良いのに。


「あのさ、みさきの話を聞いてる限りでは、大丈夫なんじゃないかなって思うんだけど」

「……そう、かなぁ」

「どうしても気になるなら本人に聞け。ズバッと」

「うう、確かに。聞いてみる」


 ここで「だいじょうぶだよーそんなことないよー絶対だいじょうぶだってェー」と繰り返さないのが椿の良いところであり悪いところである。彼女の「大丈夫だと思う」は自分の意見であって、相手が望む言葉を選んでいるわけではない。

 そこが良いという人間と、そこが嫌だという人間に二分化されるのが椿の周辺である。当然、後者は自然と離れてゆく。

 で、みさきは前者であるわけだ。


 ここ最近は椿も「それを使い分ける」ことが容易になってきたが、気が緩んだり、いざすわという場面になったり、もしくは気を許した相手であったりすると完全に吹っ飛んでしまう。


「落ち着いたか」

「うん。ずびばぜんでじだ」

「よし。ならば働くぞ。体を動かせ!」

「働くぞ!」


 目の下を真っ赤に腫らして、それでも拳を掲げるみさき。鼻をすすりながら奥のキッチンへと引っ込んでゆく。盛大に鼻をかむ音が聞こえてきたので、とりあえずは大丈夫だろう。


 恋というものは気力体力を使うものなのだなあ、と、呑気に考える椿であった。

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