16-4
痛みに目が覚めたのか。覚醒したから痛みが襲ってきたのか。
判然としない頭を振って、中川路は痛みに顔をしかめた。後頭部に鈍痛。引き攣れるような感覚もある、裂傷ができているのだろう。
薄暗い中、自分の置かれた状況を確認する。まず、両手両足の自由が効かない。四つ脚の椅子に座らされ、足は脚部にロープで縛り付けられている。両手は後ろに回され、手錠を掛けられているようだ。金属の感触と音がする。手錠は椅子の背もたれに何かで括りつけられている。指先で触れる感触は多分、自分のネクタイだ。上着は脱がされている。スマートフォンは上着のポケットに入れてあるので、連絡手段は絶たれたということになる。
ここはどこなのだろう、と目を凝らした。視覚よりも先に認識するのは嗅覚。随分と馴染みのあるこのにおいは消毒用エタノールだ。あまり広くはない部屋。小さな台。色々と入っている棚。多分ここは、病院の採血室だと気付く。
背後でドアが開いた。中川路は首だけ後ろに捻じ曲げて、相手を見た。
「久しぶりだな、
「半年ぶりね」
後ろ手にドアを閉める。ヒールがリノリウムの床を叩き、中川路の正面で止まった。
「気分はいかが?」
「最低だ」
皮肉を皮肉で返す。何かが空を切った。鋭い破裂音が響き、中川路の頬に赤い痕が残る。
女の手には乗馬鞭が握られていた。有名ブランドのロゴが入っているが、れっきとした本物の鞭だ。
「貴方が悪いのよ! この状況は全部、貴方が! 作り出したの!」
二度、三度と女は鞭を振るった。全てが上手く当たるわけではないが、それでも中川路の血を流すには十分だ。そのうちの一発が鼻梁を痛打し、鼻からも大量に血が流れた。
そこまでやって気が済んだのか、女の手が止まる。鼻血が喉の奥にも流れ込んできて、中川路は仕方なく口から血を吐き出した。
「……貴方のせいよ」
うつむいたままの中川路を、顎を掴んで上に向けさせる。ひどく冷めた視線とぶつかって、女は一瞬怯んだ。が、それでも何とか虚勢を張る。
「私を拒むから、こんなことになるの。分かるでしょ」
中川路は何も答えず、ただじっと女の顔を見つめた。血が滴って白いシャツを赤く汚す。
「ねえ、どうしてあの時、ちゃんと『はい』って言ってくれなかったの」
指で血を拭って、女は悲しげな顔。
「そうすれば、こんなことにはならなかったのに」
「最初から言ってあったはずだ。俺は誰のものにもならない。結婚なんてしないって」
至近距離で鞭が飛んだ。顔にもう一筋、傷が付く。
「聞いてないわそんなこと!」
「いや、お前はちゃんと聞いていたよ。その時、何て返したか覚えてるか? 忘れたって言うのなら、俺が教えてやる。『分かった、それでもいい』って言ったんだ、お前は」
もう一度殴打。黙って受ける中川路。呻き声一つ上げない。逆に女の方が疲労し、息を荒げていた。
しばらく無言のまま時が過ぎる。落ち着きを取り戻した女は、腕時計を確認すると薄い笑みを浮かべた。
「まあ、いいわ。じきに貴方も、そんなこと言ってられなくなるんだから」
乗馬鞭の先端で中川路の顔をつつくと、女は余裕たっぷりの表情を見せ付ける。
「貴方、これから売られるのよ。心当たりはあるでしょ?」
中川路の顔付きが明確に変化した。侮蔑混じりの冷めた顔から、怒気をはらんだものへと。その変化に満足したのか、女は饒舌になる。
「知らなかったわ。貴方と、貴方のお仲間の首に賞金が掛かってたなんてね。そういうことはもっと早く知りたかった」
鞭を軽く振りながら、女は得意気に語る。優位に立っているという驕り。
「しかも貴方、すごいのね。身柄を引き渡すだけで五千万よ。その頭脳と血液に、そんな価値があったなんて」
知っている、ということを自慢したいのだろう。中川路の周辺を、ヒールの音を立てて歩きながら女は喋り続けた。時折、中川路の顔を眺めて悦に入りながら。
「細菌研究の第一人者だったのに、なんでこんな田舎町でくすぶってるの。細菌兵器の開発、してたんでしょ?」
「どこからそんなガセネタ仕入れたんだ。俺がやってたのは兵器開発じゃあない。悪意を持って転用すればやれなくはない、っていう程度だぞ」
「同じようなものじゃない、どこが違うの? それに貴方、自分だけその抗体を持ってるって聞いたわよ」
「へえ、そういう風に伝わってるのか。どこから聞いた」
「貴方を欲しいって言ってる人達から。貴方にとって、次の就職先よね」
「今の勤め先、好きなんだ。転職したくはないな」
「この状況で、よくもまあそんなことが言えるわね。貴方、選択する権利なんて無いのよ」
そう言いつつも、女は中川路の背後に回ると、優しく彼を抱きしめた。まるで聖母のように。
「でもね、大丈夫。私がついててあげるから。私も貴方と一緒に行くわ。貴方が不利にならないように、私が交渉してあげる。ずっと側に、いてあげる」
包み込むようにも、縋り付くようにも見えた。中川路の表情は変わらないが、女からは見えない。
女の手が愛撫するように首筋を撫でる。そこで初めて、女は中川路が着けているチェーンに気が付いた。戯れにシャツの襟元から引き上げると、チェーンには二つの指輪が下げられていた。
「これは?」
「それに触るな」
拒絶され、余計に興味が湧く。手繰り寄せてよく見ると、それはペアリングであった。小さなサファイアが輝く、精巧な作り。よく磨かれているが新しいものではない。
「もしかして、これ……結婚指輪?」
「触るな!」
怒号。明確な拒否。女は悟る。この指輪は少なくとも、自分のためのものではない。頭に血が上るのを感じた。力任せにチェーンを引きちぎる。そのまま、切れたチェーンごと指輪を投げ捨てた。
「あんなものいらないわ。そうだ、今回もらう報酬で新しい結婚指輪、買いましょう。どこで買おうかしら、迷っちゃう。ね?」
中川路の正面に立ち、両手で血塗れの顔を包み込む。勝ち誇った笑みは少し歪んでいる。
「もう、貴方には私しかいないの。だから、私だけを愛して。私だけを見て。私も、貴方を愛してあげるから。これからずっと、ずうっと、二人っきり」
女の顔が近付いて、二人の唇が触れ合う。美しい未来への、誓いのキスか何かのつもりであったのだろう。
が、中川路はこの時を待っていたのだ。女が油断し、視界が遮られるこの時を。
位置は十分に確認してある。中川路は体重を左に傾けた。がくり、と椅子が傾く。右側の脚が浮く。その浮いた方の脚に全体重と脚力を乗せ、そのまま全力で女の足の甲を踏み抜いたのだ。中足骨が潰れる感触。
耳障りな絶叫を撒き散らしながら、女は床に転がる。中川路の方はバランスを崩しかけたが何とか持ち堪えた。
もう一度、血を吐き出す。女の顔面へと。
「いいか、これから大事なことを教えてやる。よく覚えとけ」
痛みに叫び続ける女へ、中川路は吐き出すように告げた。
「俺はお前なんぞと結婚する気は無い。お前と一緒にいる気も無い、お前に限らずだ。『あの人』でないのなら、美人だろうが不細工だろうが、何もかもが等しく無意味なんだ」
一片の曇りもない、これが本音。
中川路正彦という男が抱える、心からの叫び。
「俺は誰のものにもならない。たとえ殺されても、絶対にお前には屈しない。俺の自由は俺だけのものだ。どうしても言うことを聞かせたいのなら、まずは這いつくばって懇願するくらいのことはしてみせろ!」
女は泣き叫びながら、床に落ちた鞭を掴んで立ち上がる。思い切り振り上げた腕。再び食らうであろうあの痛みを予感して、中川路は思わず目を閉じた。
その瞬間、爆発音。背後のドア、その蝶番部分とドアノブが吹き飛んだ。倒れる扉、それを認識する間も無く、閃光のように黒い塊が滑り込んでくる。
女は何が起こったか全く分からぬまま、利き腕の関節を捻り上げられた状態でうつ伏せに組み敷かれた。容赦のない激痛。そして後頭部に突き付けられる、銃口。
「はーい終了、お疲れさーん」
後から、呑気な台詞とともに現れたのは塩野だ。女を組み伏せた網屋は、目澤と交代すると中川路の拘束を手持ちのナイフで解いてゆく。手錠は銃弾で破壊してしまった。
開放された中川路が真っ先に実行したのは、投げ捨てられた指輪の探索。狭い部屋であったので、隅に転がっていた指輪はすぐに見つかった。
中川路が浮かべた安堵の表情に網屋は驚く。そんな顔を見るのは初めてであった。いや、そんな顔もできるのかと、そこまで思うほどだった。
「さて、と。どうしよっか」
先程までの中川路のように拘束された女を眺めながら、塩野が問う。網屋が何か言葉を返そうとしたが、電話の呼出音に阻まれた。着信は相田からだ。
「おう、どうした」
『先輩、もう来ましたよ。車が一台、中に三人乗ってます』
「うわ、早いな。ギリギリか。おし、そっちはそのまま待機しててくれ」
『はい。そっちも気をつけて』
手短に切り上げる。時間はない。
「予想通りです。買い手、来ました」
「早い! いや、こんなもんか。時間も時間だしね」
「ここからが本番だぞ。中川路を引っ込めている暇はないな」
「ですね。生け捕りの方向性で?」
「うん。よろしくー」
男達の顔はひどく冷徹で、それを見た女は、ここに至ってようやく、ああ、自分はとんでもない相手を敵に回したのだと認識した。時は既に遅かったのだが。
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