14 船と群狼

14-1


 昨年の話だ。


 アメリカ、ニューヨーク州。アッパー・ニューヨーク湾付近。午後八時。

 一隻の豪華客船が静かに進んでいる。大ホールでは、ザイロック製薬の株主パーティが開かれていた。


 ホール内にはステージがあり、楽団がワルツを演奏していた。きらびやかなホールの中、踊る紳士淑女。

 そんな中、ホールの隅で一人佇む女性。若くはなく、かつて輝く蜂蜜色であったであろう髪は白髪が大半を占め、銀色に変化している。すらりと伸びた背筋。柔らかいホワイトベージュのドレスをまとい、同じくホワイトベージュの花があしらわれたイヤーフックだけが彼女の身につける装飾品だ。華美ではないが上品であり、歳相応の美しさがあった。

 ドレスと揃いでしつらえたパーティークラッチを片手に、その翡翠色の瞳で踊る男女を眺めている。


 そんな彼女に、一人の東洋人の男性が近付いてきた。タキシードを隙なく着こなす中年男性。整った顔立ちに浮かべる笑み。


「お一人ですか?」


 呼びかけられ、そこで初めて男性に気付く。柔らかい微笑みを返す女性。


「いえ、待ち人を待っているの」

「おや残念。よろしければ、一曲踊っていただきたかったのですが」


 女性は辺りを見回し、男性の顔を見つめ直す。


「こんなお婆ちゃんより、もっと若い女性が良いのではなくて?」

「若さだけが美しさだとは思いません。貴女はとても魅力的ですよ、マダム」


 女性はころころと笑った。


「お世辞でも嬉しいわ。そうね、一曲だけなら時間も大丈夫でしょうし、貴方のような素敵な人なら是非」


 白い手を恭しく取る男性。映画のワンシーンのようにすら見える。


「そこのボーイさん、これを預かってもらえるかしら?」

「かしこまりました」


 近くにいた背の高い黒髪の給仕にクラッチバッグを渡すと、その空いた方の手でドレスの裾をつまんでふわりと会釈した。両者とも手慣れたもので、二人はそのまま流れるようにダンスホールへと移動し、するりと輪の中へ合流してゆく。

 ちょうど良いタイミングで曲が変わる。静かに立ち上がる音の流れ、『The song from Moulin Rouge』だ。


 ひらり、揺れるドレス。柔らかくリードする男性。花火のように眩しくはないが、闇夜の中に咲く白い花のよう。自ら輝くわけではない。しかし、僅かに光を帯びているようにも見える。


 何人かはその二人に視線を奪われて、動きが止まる。それほど彼らは隙なく踊っていた。そして何より、楽しそうであった。この時間は二度と訪れない。だから、今この瞬間を目一杯楽しむべきだ。そんな声が聞こえてくるようであった。


 ホール一帯を、流麗なストリングスの旋律が支配する。その旋律に乗り、華やかな人々の隙間を縫って二人は踊る。緩やかな三拍子が彼らの足を動かす。

 二人につられるように、我も我もと踊り始める者がいる。二人を羨ましそうに見つめて、上手く踊れない己を嘆く者もいる。そんな人々をよそに、二人はかすかにきらめく喜びの微粒子を撒き散らす。


 曲はあっという間に終わってしまった。ひどく短かったような、いや、長かったような気もする。

 会釈しようと離した女性の片手を誰かが取った。振り向いた彼女の顔が、あどけない少女のような満面の笑みになる。


「ヴォルフ」


 名を呼ぶ。手を取ったのは、女性と同年代と思わしき老齢の男性であった。少し長めの灰色の髪、顔立ちからして東洋人だと思われるが少々曖昧だ。


「ごめんなさい、待ち人が来たからここまでね」

「いいえ、お付き合いいただいて光栄です」


 もう片手も離して、男性は深々と会釈した。女性は連れ立って雑踏の中に消え、男性も反対側の雑踏へといつの間にか紛れて行った。

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