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 実際、本目的は伊勢観光であった。翌週の土曜日、みさき用に学業御守と可愛らしい鈴を伊勢の内宮で買い求め、赤福を食べたり伊勢うどんを食べたり、普段はできない観光を「夏季休業中の学生」らしく堪能して、ジムカーナ観戦はまあついでくらいのつもりだったのだ。

 観光にうつつを抜かしていたこの土曜日、結構な雨が降っていた。そのため、この日に予定されていた予選は中止。翌日曜日の決勝戦がそのままぶっつけ本番となっていた。


 まだ、その方が良かったのだと思う。相田は、そう何度も走れる状態ではなかったから。




 翌日の日曜日は前日とは一転、よく晴れていた。鈴鹿サーキット国際南コースにまだ残る湿気が、強烈な日差しに照りつけられて立ち上る。


 椿達は、珠姫の双子の弟・克騎の所属する関東の有名大学チームへとまず顔を出した。まだコースオープンもしておらず、各大学のピットに学生達が団子のごとく群がっている。


「おーい、かっちゃん、応援に来てやったぞ」

「たまちゃん、よく来たねぇ。ありがとありがと」


 双子というよりは姉弟、程度しか似ていないのは男女の双子である時点で仕方無い。だが、まとう空気感はやはり双子だ。とても良く似ていた。


「佐伯さんと神流さんも、お久しぶり。たまちゃんがお世話になっております」

「いえいえ、お世話したりされたりしております」


 ぱっと見はふわふわしているこの男、所属大学のキャプテンであり、全日本学生自動車連盟が主催する大会のうちジムカーナ、ダートトライアル、フィギュアの三部門で個人順位入賞を果たしている強豪である。

 その彼が、興奮気味に二人に向かってこう話すのだ。


「熊谷産業、相田選手出るんでしょ。すごいね、あの相田を引っ張り出したんだ」


 正直、四輪のことはよく分からない。だが、これだけの期待を寄せられる人物であるということは分かる。この場全体が、熱に浮かされているのだ。

 ふと、振り向く。二つ向こう側の、自大学のピット。




 コースオープンした途端に、学生達が飛び出した。道順を覚えるためにコースを歩く「慣熟歩行」を行うのだ。

 それなのに、相田だけは一人、コースの端で立ち尽くしていた。

 走れるのか、今の自分は。この、サーキットで。

 この一ヶ月、練習走行は問題なくできた。だが感覚を掴むことにのみ専念したため、自動車部の面々が満足の行くような結果を出してはいない。

 そもそも、本番を無事に走り切ることが出来るのかすら自分でも分からないのだ。


 コースに出ている主将の池田と、選手に選ばれた前崎の背中を視線で追って、それでも相田は動くことが出来ない。

 ただ立ち尽くすことしか出来ないのなら、引っ込んでいた方がマシだろう。そう考えて踵を返した時だ。


「雅之君!」


 呼ばれて、弾かれたように振り返る。観客席から呼びかけたのは、つい昨日顔を合わせたばかりの人達だった。


「等々力さん、来て下さったんですか」


 響介の両親が手を振っていた。迷い無く相田は駆け寄る。


「昨日はありがとな、忙しいやろうに」

「いえ、雨で予選も潰れたし、むしろ暇だったんですよ」


 響介はここの県の出身だ。こちらに来たついでにと、関東土産を持って等々力家へお邪魔していた相田である。響介の命日には毎年必ず等々力家を訪れ一緒に墓参りをしているので、両親とは懇意の仲であった。


「雅之君、大丈夫なら、でええんやけど」


 そう言いながら父親が大きなカバンから取り出したのは、見覚えのあるカラーリングで塗装された新品の物体。


「これ、使ってもらえんやろか」

「……響介のメット、ですか」

「うん。ほんまはあの後、新しくおろす予定やったんや。良かったら連れて行ってな」


 チームの、そして響介のシンボルカラーである黄色。雷を模したデザインは、響介の『迅雷』の二つ名から。

 ガラス細工を扱うようにそっと受け取ると、相田は新品のヘルメットを両腕で抱きかかえた。


「いいんですか? こんな大事な物」

「チームの方から頂いたんやけど、ずっと置いたままになってたんよ。走らせてやらんと、響介、拗ねるやろ」


 母親が笑いながら言う。父親も笑う。

 脳裏に響介の顔が浮かぶ。

 何や、学生レース?楽しそうやん、俺も混ぜて……


「ありがとうございます。これ、使わせていただきます」


 勢い良く頭を下げると、ヘルメットを抱えたまま相田はコースへと飛び出した。慣熟歩行を行っている集団はもう随分先へ行ってしまって、スタート地点には相田ただ一人。

 コースのど真ん中に立つ。大きく深呼吸すると、目を閉じる。


 さあ、思い出せ。ここはサーキット。自分はレーサー。アスファルトとタイヤとオイルと金属の臭い。ピットクルーは臨戦態勢。空は青い。


「よし」


 目蓋を開く。目の前、コースがゴールまで伸びている。


「響介、行こうか」




「あいつが噂の相田雅之か」


 観客席とは名ばかりの、草が生えている斜面に座っている椿達。

 椿は胡座をかいたまま、コースを睨むように見つめていた。


「よく分かったな椿、顔、覚えてたか」

「いや、あいつだけ学生じゃない」


 ぎりぎりまで削ぎ落とされ、原型さえ留めない言葉だが、佐伯も珠姫も椿の言わんとする所はよく分かる。

 どんなにレース慣れしていようが、やはり出場する彼等は学生であり、本業ではない。全身全霊全てを掛けて命の切った張ったを繰り広げる訳ではない。

 だが、相田だけは、この人物だけは空気感がまるで違う。つい先程まで、捨て犬のような顔で立ち尽くしていたかと思ったのに。


「コースを捻じ伏せて殺す、みたいな顔付きしてやがる。おっかないタイプだぞ、あれ」

「……椿が言うか」

「ん? 何?」

「何でもねぇ」


 佐伯は適当にはぐらかして視線を戻す。

 そういえば、彼はどうして引退してしまったのだろうかという疑問が頭をもたげた。が、佐伯は軽く頭を振ってその疑問を打ち消す。引退の理由は人それぞれだ。引退したという事実があり、現実がある。今はそれだけで十分ではないか。

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