第13話 恋心

 夕方、泥と埃にまみれてヨハネは帰ってきた。


 夕暮れの大通りは清潔で見通しがよく、馬車に舞い上げた埃を通して夕日の光がヨハネを照らした。春先の暖かくなり始めた空気と冬の終わりの冷たい空気が入り混じって、ヨハネの心と体を刺激した。彼は何となく落ち着かないような、みぞおちの下がうずくような不思議な心もちに取りつかれていた。なぜこんな気持ちになるのだろうか、と彼は自問した。今日はひどい一日だったはずだ。商会から奴隷市場まで全速力で走らされた。自分は正確に数字を伝えたのに奉公人頭の陰険な陥穽にはまってカピタンの信用を失った。頬骨を折れるほど強い力で殴られた。みなが嫌がる市参事会の清掃人足もやらされた。その見返りは固くておがくずの混じったパン一切れだった。だがヨハネの心は不思議に沸き立っていた。


 そうだ、あの娘に出会ったからだ、と自答した。


 あのワクワクの娘はどんな顔をしていただろか、泥で汚れた顔を僕の手ぬぐいで拭った後、意外にきれいな顔をしていたような気がする、大きな目をしていて瞳は黒く大きかったような気がする、まつ毛は長く上下に緩やかに揺れていたような気がする、ヨハネの想いは向日葵の種が芽吹くように大きくなり、新芽が天に向かって伸びゆくように突き上がった。

 胸は高鳴り始めた。あの娘は今どこにいるだろう、今は女奴隷用の小屋に入れられているはずだ、体を洗わされ、奴隷用の貫頭衣を一枚与えられているはずだ、藁の寝床に横になっているかもしれない、何とか会う方法はないだろうか、とヨハネは思い悩んだ。彼は通行人とすれ違いざまにぶつかってよろめくと、通り横の赤い煉瓦壁に左手を付いた。右肩に強い痛みが走ったが、それでも彼の想像は止まらなかった。


 女奴隷が入れられる小屋は頑丈な煉瓦で出来ていた。光と空気を採るための小さな窓が取られていたが、太い鉄格子がはめ込まれていた。ヨハネは、左手にザラザラした壁の感触を感じながら、あの頑丈な煉瓦壁を破るのはどう考えても無理だと考えた。他に手はないだろうか、と思いを巡らせながらヨハネは道を歩き始めた。確か、奴隷小屋の後ろには裏庭があったはずだった。そこには井戸があり、奴隷たちが体を洗い、洗濯をさせられていた。しかし、そこは周りを鉄格子で囲まれ、枝と葉に鋭い棘を生やしたカラタチの木が鉄格子に沿ってびっしりと生えていた。その高さはヨハネの背丈の三倍近くあったはずだ。


 しかし鉄格子と植物なら何かしらの隙間があるかもしれない、何とかなるかもしれない、あの娘の姿が見られるかもしれない、もしかしたら口がきけるかもしれない、そう考えるとヨハネの心は浮きたった。そして朝、商会の建物まで走ったように、また全速力で走り始めた。

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