第9話 そこにおんねん。

テレビ局の会議室で説明会が開かれていた。

幾つかの人影が怒鳴り声を上げて会見席に詰め寄っている。


「取材内容とまるで違うじゃないか!」

「一緒にあっちにいったお友達に電話して、お彼岸に集まって見ていたのに、大恥かいちゃったじゃないの!」

「撮影協力までしたのだから、きちんと事実を報道したまえ!」


恐ろしい形相で迫る抗議団に対して、青ざめた顔で局員が弁解を始めた。


「報道と申されましても、当事者には人権が・・・それに、皆さんもこの季節にはご覧になったでしょう?ホラー特番。」


最後の一言で交渉は決裂した。




翌日から奇妙な殺人が多発するようになった。


通り魔に、毒物で、ホームに突き落とされ、親に殴られ、子に刺され、兄に焼かれ、妹に食べられ・・・死因が珍妙多彩を極めていった頃、テレビ局に再び抗議団が現れた。


「どうだ、少しは懲りたか?」


古びた軍服を着た代表は続けた。


「様々な人間に憑いてけしかけたが、転んだ者の心には『恨み』があった。内へ向けば自分を、外へ向けば他人を殺す。簡単な話だ。『恨み』の元になった、『傷つけられた』経緯を、事実を、我々は報道して欲しかったのだ。」


「私達がどうやって傷つけられ、歪み、怨んだのか。原因をきちんと知って、二度と、私みたいな人を出さないようにして欲しかったのに。」


「歪められた人に殺された人間もいるわ!恨みが当人に向かわずに暴発して他人を巻き込む事だってあるの。人を傷つけ恨みを作るバカも危険なのよ!」


「殺意の根源を放置したままでは、似たような事件は増える一方だ!」


言うと、軍服の男が局員の胸倉を掴み上げた。


「本当の原因から目を背けるなよ?それが『市民様』であってもな。でないと、殺人も戦争も、繰り返してしまうのが我々だ。」


数時間に及ぶ交渉と局内での会議の結果、幽霊に取材協力を仰いだホラー番組の最後に、ある言葉が付け加えられることで一応の決着がついた。


おわかりいただけただろうか?



『そこにおんねん』

本文800字


ことわざ

以下、ことわざ学習室サイト内より引用・転載


●幽霊の正体見たり枯れ尾花

読み(ひらがな)

ゆうれいの しょうたいみたり かれおばな。


意味

怖い、怖いと思っていると、何でもないものまでが、とても恐ろしいものに、 見えてしまうことのたとえ。


解説

幽霊だと思って見ていたものを、よく見てみると、それは、ただの、枯れたススキの穂であった、 ということから生まれているようです。その者の正体が分かってしまえば、そんなに、たいしたことでは、 なかった、たとえにも使われるようです。先入観の怖さ、を言っていることわざのようです。


重要語の意味

幽霊=「ゆうれい」と読み、①死んだ人の魂。②死んだ人が、みれんを 残し、この世に現れたものではないかと考えられているもの。 正体=普通に見てもよく分からないものの、本当の姿。 枯れ尾花=「かれおばな」と読み、枯れたススキ。ススキの穂がしっぽに 似ているためこの名がある。 先入観=「せんにゅうかん」と読み、先に入ってくる観念。 自由な考え方を妨げてしまう、あらかじめ、持っている考え方や、知識。


いわれ(歴史)と重要度

江戸時代の俳人、横井也有(よこいやゆう)の句。 重要度=☆☆


○縁なき衆生は度し難し

意味

人の話や忠告に関心を持たず、聞き入れようとしない人たちは、 救いようがない、ということ。


解説

このことわざは、仏教から生まれたもので、仏の教えに関心がなく、その話を聞き入れようと しない人たちは、いくら慈悲深い仏であっても、救うことができないということのようです。 方便としてある、仏とのつながりを作る方法は、たくさんあるから、いずれかの方法で、仏との つながりを持ってほしいという願いでもあると思います。また、余計な話かもしれませんが、 全ての人に仏の性質があるという考え方からすると、迷いや苦しみを感じない人たちは、真理の始まり のようなものに、目覚めている人なのかもしれません。


重要語の意味

縁=つながり。この場合は、仏とのつながり。 衆生=「しゅじょう」と読み、すべての生き物。この場合は人間。 度す=「どす」と読み、人生の苦しみや迷いなどから救う。 難し=「かたし」と読み、むずかしい。 仏=真理を悟った人。 方便=「ほうべん」と読み、人々を救うために仏の悟りを別の方法で 現したもの。言葉や文字など。


いわれ(歴史)

法華経・方便品(ほけきょうほうべんほん)。 江戸時代の諸芸袖日記(しょげいそでにっき)




昔は、理不尽な死に方、殺され方をした善人を神として社に祀っていました。

各地の小さな社などの由来などを調べていくと、神として扱われる以前に、疫病や不審死など、祟りをまき散らす悪霊として扱われていることが多いことが解ります。


菅原道真に代表されるようなこの手の、善人の死→悪霊化→神格化というステップ、手順の裏には、それを周囲で見ていた人間の社会的思惑が作用しています。つまり、見殺しにしてしまった善人に対する後ろめたさを利用して、何かにつけて「○○の祟りだ」「○○の怨念だ」といって、庄屋や殿さまなど、権力者を脅していったわけです。


用事が済む(年貢や法度の改正、あるいは、ただ単に陰口が叩きたいだけなど)と、彼らは悪霊扱いした善人をしれっと神として祀り、社を立てて共同体の霊的な力として再加入させます。死ぬ前に何とかしてあげた方が良いと思うのですが。


なんというか、まぁ・・・共同体が追い込んでしまった個人を、色々な口実・方便をもって再度受け入れる知恵があったということだと思います。本人の死を介さないものや、別の物語が設定されることもよくありますが、見殺し→悪霊化→神格化といった流れには、人の死というものが社会的に利用されてきた背景が見え隠れします。


さて、現代ではどうでしょう。


例えば、○○さんが可哀想だと思います!とか騒いで、誰かを攻撃し始めるシャーマン崩れは、日本中の教室にいたと思うのですが、彼女たちの集団的自衛権意識は非常によくできた社会的制裁の動物的名残りです。


後になって考えてみれば、登場人物全てを攻撃し尽すことではなく、再度、集団に受け入れることを第一に考えなければならなかった。それが出来るのは、無関係な人だけです。見物人野郎の役割はそこにあります。


そうされず、遠ざけられ、傷つけられっぱなしになった人の怨みはどこへ行くのでしょうか?


曲がり角の先から、窓の外から、扉の向こうから、部屋の隅から、じっとこちらを見ているのかもしれませんね。


怨まれたくはないものですが、そもそも、どんな人でも傷つけちゃいけないんです。

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