第8話 覆水盆に返らず

放課後の職員室。

赤ペンが答案用紙に擦りつけられる音も小気味よく、○と✓を付け分けていく。

『覆水盆に返らず』

ことわざの意味を説明させる問題には、小学生には少し難しかったのか、珍回答が並ぶ。

採点を続ける私はある事件を思い出していた。



一人の博士が、物質を分子レベルで分離・復元させる装置を発明した。

会見で装置を実演した博士は、床にぶちまけたミルクを再分離して吸い上げ、ボウルに戻して見せた。その場で成分検査と質量測定が行われ、ミルクが完全に復元されたことが確認されると、博士は誇らしげにそれを飲み干して見せた。

この日、覆水は完全に盆に返ったのであった。


ところが、この画期的な発明は不評だった。

床にぶちまけられた牛乳を誰も飲みたいと思わなかった。

発明は感情の壁に阻まれたのである。


暫くして『一杯のラーメン』という本が出版された。

母一人子一人の貧しい生活の中、月に一度の贅沢として二人で分け合って食べていた一杯のラーメン。ある時、子どもが誤ってどんぶりを落としてしまい、そのまま母親と死に別れてしまう。子どもは苦学して発明家となり、床にこぼしたラーメンを復元する装置を作り、母の墓前で啜り上げる。

本はベストセラーとなり、人々は無視を決め込んだ発明に飛びつき、一度ぶちまけたラーメンを啜り上げた。


そんな中、博士は急死した。

時の人の唐突な死を騒ぎ立てる週刊誌が特ダネを掴む。

博士の家は資産家で両親は健在。本人は56歳まで結婚もしなかったが、時流に乗って結ばれた28歳の若妻と青春を取り戻している最中に腹上死を遂げていた。


話が違うじゃ無いか!

人々は怒りと共に色々なものを吐き出し、謝罪会見は熱々のラーメンが飛び交う異常事態となった。


こうして、床にぶちまけたラーメンを食べる物好きは居なくなったのだった。



・・・口直しに、コーヒーを一口。

採点に戻る。


気持ち が もんだい。


そう書いてきた子に、○を付けてあげたいと思った。

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