1999年8月29日 『道標』

 「じぃさん・・・アンタも・・・」

この聞き覚えのある声で目が覚めた。

何年振りだろうか、夢を見ていたようだ。

それもカミさんではなくシオン君の夢を。

どんな夢だったのかは思い出せないが

シオン君が私に何かを語りかけたところで

目が覚めた。

残念ながら、言葉は聞き取れなかった。

時計を見ると、いつも起きる時間の

15分ほど前だった。

何故か、少しだけ得した気分になった。

若い頃なら、きっと損した気分だったろう。

年を取ると寛容になるのか

それとも時間に追われない生活が

そういう思考回路へと変えていくのか、

いずれにせよ、若い頃とは良くも悪くも

感性が色々と変わってきている。

そうこう布団の中で考えていると

ベッドから出たのは結局いつもの時間だった。

いつも通りの朝を迎え、

平凡で平和な一日の始まりが訪れる。

ゆったりとした時間が流れながらも、

忙しない時間の到来に備える。

私にも、そういう時期があったが

定年後はその流れが完全に変わった。

特に、独り身になってからは

ほぼ自分の時間として使える。

時には退屈と戯れたりもしてきた。

退屈と言うのはあまりにも贅沢な感覚で、

時間を持て余してしまうことを

良しとするか否かは自分の性格次第となる。

まぁ、その時その時の状況にも依るが、

基本、正解は無い。

幸いにも、最近の私で言えば

動と静が明確にあり、

気持ちの切り替えが幾分しやすいため、

退屈と感じたことはない。

こんな事を考えていた矢先、

携帯電話が着信音を響かせた。

見ると、花音君からである。

不安とも期待とも判断できない

鼓動の高鳴りの中、通話ボタンを押した。


「もしもし

 こんにちは、花音です」


「こんにちは、花音君」


「今、大丈夫ですか?」


「えぇ大丈夫ですよ」


「こないだの件なんですが」


「えぇ」


「恵梨守から電話があって

 二人で話したんですが

過去と向き合う覚悟を決めようって・・・

自分たちのこれからは自分たちで

切り拓こうって・・・

そう決めました」


「そうですか。

 貴方たちの未来です。

どういう結論であれ、

それは素晴らしいことです。

私も心から応援しますよ」


「ありがとうございます。

 早速ですが、今夜、母が帰ってきたら

この話をして、もう一度、詩音の病室に

皆で集まれるよう段取りを決めます。

明日にでも、決まった日時を

お伝えしますね。

因みに、ご都合の悪い日とかありますか?」


「いえいえ、何も私用はございません。

 そちらで決めていただいて結構ですよ」


「分かりました。

 では明日、また連絡いたします」


「えぇ

 お待ちしております」


先ほどまで感じていた不安定な感覚は

小気味良い花音君の声色で

いつの間にか吹き飛んでいた。

彼らの出した答え・・・

そこには、未来を感じさせるだけの

決意と勇気が溢れているように思えた。

清々しくもあり、羨ましくもあった。

より核心へと誘うように

次第に開示されてゆく絆という道標。

それぞれの思惑の中、

確実に動き出している結末への歩み。

私自身、やっと落ち着きかけていた

逸る気持ちに再び拍車がかかる。

いよいよな時に備え

私も心の準備をしなければなるまい。

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