リトル・オスカーの結婚

早瀬千夏

第1話 軍医オスカー1



 一九一七年十一月。フランスのカンブレーは戦場になった。イギリス軍第五十一歩兵師団は三百八十一台の戦車を投入し、ドイツ戦線を急襲した。敵の塹壕をつぶすためだ。

 始めは作戦が成功するかと思われるも、戦車が前線に到達後、騎兵がことごとく倒されてしまう。そして到着したばかりの敵援軍――ドイツの歩兵師団に反撃されてしまった。

 容赦なく浴びせられる機関銃。地面からだけでなく、空からも戦闘機が撃つ。つい一年前までは想像できなかった。それだけ兵器は進化していた。同時に、大量の死傷者を生み出した。

 そんな凄惨極める戦場の後方部隊にオスカーはいた。かつて教会だった負傷者収容所――野戦病院には、ひっきりなしに担架や毛布にくるまれた兵士が運ばれる。苦しげなうめき声、激痛を訴える叫び声、今にも死にそうな声で母を呼ぶ者……。

 どの顔も泥と硝煙と血でどす黒く汚れていた。目をぎらぎらさせ、医者へ必死に助けを求めているのが伝わる。

 亜麻色の髪と水色の瞳の軍医、オスカーが目にする光景は、帰還兵が集う地獄そのものだった。

 そのなかで重傷の兵士をまず、治療する。椅子に縛り、暴れないように看護兵が三人がかりで患者を押さえつけた。

「ぎゃああああ!」

 兵士の絶叫が響き渡る。あまりの痛さに気を失いかけ、数秒、白目を剥いた。

 無理もなかった。敗血症を防ぐため、腐りかけた左親指をノコギリで切り落としたからだ。長引く戦争は物資不足を招き、麻酔の在庫はずいぶん前に切らしていた。

「せ、先生……。俺、ウォートンへ帰れるんだよな?」

「それは基地部隊が判断する」

「ええー、指を失くしたんだぜ。そりゃないよ」

「指だけで幸運だったな。包帯をまめに変えないと、細菌感染して死ぬぞ。さあ、次!」

 苦痛で表情をゆがめた、ビアズリー軍曹。義勇軍の看護婦に連れられ、処置室へ消えた。

 そのあとふたりの兵士を治療したのだが、担架でまた運ばれてきた。

「ローレンソン少佐。早く来てください。患者の出血が止まりません!」

「……ああ」

 疲労で返事をするのがやっとだ。看護兵に背中を押されるようにして、執刀へ向かった。

 若い男が手術台に横たわっていた。泥まみれのカーキー色の軍服は、ところどころ焦げて変色してる。顔は半分焼けただれ、木の破片がいくつも刺さっていた。

 救護した看護兵が言った。

「ウィリアム・パターソン中尉、二十一歳。塹壕にいたところを手榴弾にやられました」

 よくあることだった。「そうか」とだけ答え、オスカーは手術道具を手にし、破片を丁寧に取り除いた。肺までやられたらしく、どっと吐血する。朝から、何度も返り血を浴びたオスカーの白衣は、茶色のまだら模様になっていた。

――これは助かりそうにない。

 すでに大量失血で息が絶えかけている。医療設備が整わず救命できない現実に、悔しい思いがした。

「…………死ぬ、の……か」

「あきらめるんじゃない」

「……」

 パターソン中尉は虚ろな眼差しを向けたまま、ゆっくりと閉じた。

「神よ。天に召されます、彼の魂を救いたまえ」

 前線で戦争があるたび、オスカーは数え切れないほどその言葉を口にした。初めはあまりにもつらくて泣きくずれてしまったが、今では胸が痛むだけで終わる。それだけありふれた光景だった。

 が、死にきれなかったのだろう、最期の力を振りしぼるようにして、パターソンは言った。

「姉……メアリに、僕の時計……、を」

「姉上さまはどこへいる?」

「サマセット・ウォートン……」

「そういえば、さっき手当したビアズリー軍曹と同郷だ。彼に託しておこう」

「だ、だめだっ! あいつだけ……は、た、たのむ」

「ええ?」

 全身から嫌悪感を丸出しにしながら、パターソンは訴える。死に際とは思えないほど、彼はビアズリーという男を拒絶した。

「ああ、わかった。安心しろ。僕がメアリさんに渡す」

「……」

 彼は一瞬だけ笑みを浮かべ、そのまま力が抜けたように動かなくなった。看護兵が呼びかけても反応はない。今度こそ、パターソン中尉は天に召されてしまった。

 突如、轟音と地響きがした。教会の建物が小刻みに揺れる。しかし、怖がる者はいない。前線のどこかへ砲弾が落下したのだろう。車で三時間ほどの距離があるにも関わらず、砲弾の衝撃はすさまじかった。

 飛行機が飛び交うエンジン音も聞こえた。戦争が始まる前まで、機械が空を飛ぶなど夢のまた夢だった。

 戦争は人間をチェスのコマのように消費しながら、その一方でとてつもないテクノロジーを生み出す。一週間前、野戦病院の近くを、イギリス軍の戦車が通過した。通称『ヒルダ』と呼ばれるマーク四型装甲車だった。

――あんな恐ろしいものが、この世界から生み出されるとは……。

 初めて見る戦車の巨大な車輪――いや、キャタピラーにオスカーは戦慄した。ほんの数年前まで、大量殺戮兵器など世の中になかった。知っているのは、歴史の本のなかにあるような、馬で引く大砲を積んだ戦車ぐらいなものだ。

 それがいまやガソリンを入れるだけで、鉄の塊が動き、砲身から弾を発射する。兵士たちが掘り進めた塹壕を乗り越え、やすやすと前線の鉄条網を突破したと聞いた。



 二年前、オスカーは軍医として志願したのだが、フランスへ出征したら、すぐさま前線の後方部隊に配置された。大砲と男たちの絶叫を耳にしながら、怪我の治療をする。しかし、助からない負傷者も多かった。

――毎日、毎日、毎日……いつまで続く?

 本当は戦地なんかに行きたくなかった。しかし、兄ジョンと弟ジャックが出征し、自分よりずっと若い少年たちが志願兵となってフランスへ赴いたことで、オスカーはのんびりと暮らすことが許されなくなる。

 ある日、屋敷の裏に作った畑で、父と作物を収穫していたら、教区の婦人挺身隊に白い羽根を手渡される。それは戦地へ行かない臆病な男を意味していた。

 スプリング伯爵である父は、「行きたくなければ、無理をしなくていい。そのうち戦争は終わるさ」と小声で言ったのだが、立場がなかった。白い羽根を手渡されるとき、村の主婦たちが大勢いたからだ。

――わたしたちの夫と息子たちも戦場へ行ったのに、なぜ領主の息子はここにいるのです?

 そう、無言で訴えられてしまった。

――そろそろ僕も腹をくくらないと……。

 不幸中のさいわい、と言ってしまうと不謹慎だったが、オスカーは内科医の免許を持っていた。だから軍医として志願すると、父が伯爵なのもあって医療部隊の少佐に任命された。

 内科医だから診察と薬を処方するだけでいいはず――と呑気にかまえていたが、現実はちがった。医師の数が不足しており、初日から簡単な外科手術までする羽目になる。慣れない手術は、患者たちを苦しめ、それでも助けるために必死に従事した。

 野戦病院は怪我だけでなく、伝染病にも苦しめられた。

 ぬかるんだ湿地に作られた塹壕の底には、絶えず水が溜まる。そこで待機している兵士たちは、いつも足が濡れてしまい、凍傷に悩まされた。そして寒さと栄養不足で風邪やチフスが蔓延した。

 あるときは大雨が降り、塹壕が水没した。突然の増水で兵士たちが逃げ遅れ、たくさん溺死した。死体を運べず、そのまま流され、埋もれてしまったという。

 そんな話を聞くたび、オスカーはやるせなくなる。

――僕はいったい、何のために彼らを手当てしているという?

 どのみち、怪我が治っても、ふたたび前線へ送られるのだ。命を救っても意味があるのかないのか……。

 そんな一九一八年の二月、前線でスペイン風邪が大流行した。高熱の兵士たちがぞくぞくと野戦病院に運ばれ、体力が持たず死ぬ者がたくさんいた。

 看護婦たちと看病をするオスカーだったが、ついに感染してしまう。身体が熱っぽくだるい、と思ったとたん、崩れるように倒れてしまった。

 患者を治療をすべき医者が寝こんでしまうと、なすすべがない。すぐさま基地病院に搬送され、手当を受けた。

 ずっと働き詰めだった。気力で兵士たちを治療していた。自分で思った以上に、疲れていたようだ。熱が下がらず、一度、死線をさまよった。そしてようやく回復し始めたとき、イギリスへ帰還するよう命令が下った。一年ぶりの長期休暇である。

――やっと帰れる…………。

 うれしさより、安堵感が勝ったのか、熱が引いたものの、しばらくベッドから出ることができなかった。

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