夢のような場所と怖い場所

 一目見てから、ルルーはそこから動けなくなっていた。


 さして深くない森の中、苔の生した石の道の途中、開けた場所に出て、朽ちた木の枠で仕切られた向こうに広がるのは、一面のカボチャ畑だった。世話する人もいない筈なのに、大きく立派な黄色い実が沢山あって、どれも食べごろに見えた。


 その奥にある白い小さな家に、ルルーの心は奪われていた。


 煙突があって、赤い屋根があって、窓があって、ドアがあって、カウチというのだろうか、外に出た屋根の下にはベンチがあるのが見えた。


 それは古くて、普通で、これまで見てきた空き家と変わらないような小さな家だった。


 だけどルルーは、ここが夢のような場所だと思った。


 それは、例えるならばお姫様になったりだとか、ものすごい強さで悪者を根絶やしにしたりだとか、あるいは自由に空を飛んだりとか、そういった荒唐無稽な夢物語とは違った、もっと現実的で、頑張れば届きそうな願いで、それぐらいなら自分にもあってもいいんじゃないか、そう思える夢だった。


 自分の手に届く最大限の幸せの形を見つけた気分だった。


 ……だから、余計に、そこから動けないのだった。


 そんなルルーに、オセロがかがんで覗き込んでくる。


 待たせてる、という思いがあるのに、だけど動けなかった。


「…………どうした?」


 声をかけられてやっと、奪われていた心が戻ってくる。


「いえ、ただあの家が、いいなぁ、と思いまして」


「家?」


 言われてオセロもルルーと同じ方へ視線を向ける。


「あぁいう小さな家に、いつか住んでみたいなぁ、と思っただけです」


「……行ってみるか?」


「いえ、やめときます」


 ルルーは即答していた。


「まだ日は高いですし、進めるうちに進みましょう。それに、中に誰かがいるかもしれません。余計な危険は冒さない方がいいでしょ?」


「……そうか」


 それだけオセロは応えると、それからかがむと、畑からカボチャの一つをもぎ取った。


「こいつは生じゃだめらしいからな、昼飯に焼いて食おう」


 言いながら掲げられたカボチャは、ルルーの頭よりも大きかった。


「それにここなら帰りに寄れる」


「え?」


 何気ないオセロの一言に視線を戻すもオセロは行ってしまっていた。


「お前のバツ印、背中の地図の、もうすぐ着くぞ」


 もぎたてのカボチャを片手て弄ぶオセロを見ながら、またもルルーの心は奪われていた。


 …………旅が、終わる。


 思いがけないタイミングで告げられた終わりを前に、それでもルルーの足が動いたのは、オセロが帰りにと言ってくれたからだった。


 ▼


 ……そうして森を抜けると、今度は地面が無くなっていた。


 ぶっつりと途切れた先、策もない向こう、潮の匂いのする風がうなりを上げて、それが虚空の深さを歌っている。


 そこへ、体をできるだけ離して、めいっぱい首だけ伸ばして、チラリと下を見下ろせば、断崖絶壁だった。岩肌が露出した垂直の側面、植物どころか岩の出っ張りもない。その先、一番の底に辛うじて見えるのは、恐らくは川だろう。拍子に転げ落ちた小石がたっぷりと時間をかけて川まで落ちて、水音は返ってこなかった。


 覗くときと同じく、ゆっくりと身を引いて、虚空の向こうを見れば、だいたい同じぐらいの高さにまた大地があった。


 あっち側はこちら側と違って緑は皆無で、辛うじて見えるのは枯れた草だけで、あとは岩肌だらけの荒れ地だった。


 そこまでの距離は、遠い。


 跳んで渡るのは絶対無理で、そこらの木々を切り倒したぐらいじゃ絶対に届かない。


 ならば一度下りて上るのかとも考えるけど、少なくともルルーにはどちらもできそうになかった。


 ならどうしよう、と左右を見れば、右の果てには海が、左にはこちら側へのカーブと、その手前に、つり橋が見えた。


 この距離でもオンボロとわかる、それどころか揺れてるとはっきりとわかるような、つり橋一本があった。


 ……それしか、反対側に行く手段はなさそうだった。


「……あれを、渡るんですか?」


 ルルーの不安げな声に、オセロは気に留めることもなくさっさと橋に向かって行ってしまう。


「他になさそうだし、そするしかないだろ?」


 背中越しに言われて、そうだとわかっていても、嫌だとしか思えなくて、そうこうしてるまに橋の袂までたどり着いてしまった。


「こりゃ、俺でも落ちたら死ぬな」


 そう言いながら見下ろすオセロ…………も橋を渡ろうとしなかった。


「……先、行かないんですか?」


「いや、重い俺が先に行って橋千切れたらお前どうすんだよ?」


「いえ、オセロなら、千切れても捕まるなり走り抜けるなりできるでしょ? でも私には無理で、むしろ重たいオセロが渡り切れるなら、軽い私が安心して渡れるわけで」


 しどろもどろに、あってるはずなのにどこかずれてるような理由に、オセロは一度だけ肩を竦めて、そしてトトトと平然と、まるで地面の上を歩くようにさっさと行って渡り切ってしまった。


「大丈夫だぞー!」


 見ればわかることを大声で言われて……もうルルーも渡るしかなくなっていた。


 息を飲み、唾を飲み、もう一度息を飲んでから、覚悟を決めて一歩を踏み出す。


 ……すんごい揺れる。


 風と体重に合わせてギシギシと、安全安心から程遠い音を立てながら、左右にゆっくりと、揺れる。


 それでも一歩、また一歩、進む。


 両手で欄干と呼ぶのもあれな紐に捕まり、手繰るように進むと、不意に崖と崖とに挟まれた先が見えた。


 枝木も含めた一切の障害物のない虚空のはるか先、見えるのは海だった。


 普通なら、平坦な道なら、それは、絶景に見えただろう。


 だけどそこから吹いてきた一陣の海風がそんな情緒も吹き飛ばした。


 大きく揺れるつり橋、抜ける腰、思わず向いた視線ははるか下、もはやルルーの足は動かなかった。


「おーーーい!」


 オセロの声へ、何とか顔を向けて、ルルーは何度も首を振る。


 ……もはや声を出す余裕さえもがなかった。


 それを見たオセロは、またも肩を竦めて、行った時と同様にトトトとつり橋を戻ってきた。


 その一歩の度に揺れるつり橋、ぶっ飛ばしてやりたり怒鳴りつけてやりたい、なんて思っても、刺し伸ばされた手はものすごくうれしかった。


 それで結局、オセロ手に縋りついたのだった。


 ▼


 ……何とか渡り終えて、一息入れて、顔からにじみ出てたものを拭うルルー、一方のオセロは、これから先を見つめていた。


 見えるのは高めの丘と、それを上るため、埃を被った坂道だった。


「……この先ですか?」


 揺れがなくなって、心も平常に戻ったルルーは、見上げなら隣のオセロに訊ねた。


「まぁそうだな。少なくとも上がれば遠目に見えんだろ」


 そう言いながらずかずかと先へ進もうとするオセロ、そこに感慨深さなんて微塵もないけれど、だけど早く見たいのはルルーも一緒だった。


 だから並んで上る。 


 そういえば、こうやって並んで歩くのは初めてなのかな?


 なんて考えてると、風が止んだ。


 ずっと海から吹きっぱなしだった風、それが収まり一歩で、オセロの足も止まった。


「……なぁ、引き返さないか?」


 ……ルルーははじめ何を言ってるか理解ができなかった。


 そんなルルーにオセロは振り返る。


「このまま、引き返さないか?」


 もう一度の問いかけ、オセロが見せるのは、まじめな顔だった。


「……この先、何かあるんですか?」


「いや、それは、何とも言えないけどよ」


 鉄棒の先を擦り付けるように頭を掻くオセロ、対して落ち着きを取り戻したルルーの考えは一つだけだった。


「……もしも、この先が危険だという判断なら、大人しく引き下がります。そういう判断は、お任せします。ですが、そうでないなら、可能な限り先に進みたいです。地図のバッテンの位置は、もうすぐなんでしょ?」


「まぁ、そうだな」


 オセロは応えて、頭を掻くのを止めて、代わりに大きく伸びをした。


「…………じゃぁ、行くか」


 そういって踏み出すオセロ、その背中を見て、ルルーは、何となくだけど、これは後で後悔するんじゃないかと思った。


 だけど、思っただけで、特別何かしようとは思えなかった。


 ただ黙って、オセロの後ろに続くだけだった。

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