目指すはオレンジ
このフォーチュンリバーで水遊びする者はいない。
その理由は、水深でも、水流でも、水質でもなく、ピラニアがいるからだった。
この淡水魚は、大きさは手のひらに収まる程度、何よりも貪食な肉食魚として知られている。とはいうものの、生物であることには違いなく、サイズに似合った臆病な性格で、自身よりも大きな魚からは逃げたり、積極的に群れを形成したりもする。
但し、血の匂いを嗅ぎつけた場合はその限りではない。
ただの血一雫で興奮状態となり、そうなった群れに獲物を落とせば溶かすように食い尽くして骨すら残らない。しかも時に水面から飛び出して、船体からはみ出た人の腕にさえ食いにくる。
故に誰もフォーチュンリバーの川の水に近づかないのだ。
この凶暴な魚は、元々は南の温かい川に住んでいたのを、何者かがショーのために持ってきたのが捨てられ、野生化して増えた、というのが通説となっている。当然川の生態系は崩れ、ピラニア以外の魚はほぼ絶滅し、ピラニア自身も共食いか、捨てられる生ゴミと死骸で食いつないでいるのが現状だった。だがしかし、観客は生態系の多様化なんていう小難しい話よりも、派手な血塗れ残虐ショーの方を見たがっていた。
……ちなみに、川を下った海にはピラニアよりも大きくて、同じぐらい獰猛なサメが、超える数泳いでいた。
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オセロが川風にガチガチと震えながら見上げる先、橋の欄干の上で、二匹のヤギが首を搔き切られた。
ほぼ同時にあがった絶命の悲鳴の後に、夕暮れでもなお真紅とわかる鮮血が滴り、水面に落ちて広がると流れに乗って二本の赤い線を作る。
その赤に、引き寄せられたピラニアが水面で跳ねる間に、木箱が並んで浮いていた。大きさは人が一人座れる位、数は二十を超える。それらが一歩分ほどの距離を置いて一直線にロープで繋がれ川に流されていた。その尻尾に当たる最下流には小さなボートが、その上には机が、更にその上にはオレンジの果実が一つ、置かれていた。対して頭の方は橋脚の置かれている小さな中洲に繋がれていた。中洲の広さは、オセロが泊まっているホテルのあの部屋ぐらいだろうか、何のためだか石畳でしっかりと舗装してあって、突き刺した鉄の杭に木箱が繋いであった。その杭から一定距離になるよう扇状に白いスタートラインが引かれてある。
合図と共にこのスタートラインを超え、走り、木箱を渡ってオレンジを手にした最初の一人が勝者となる、それがこのオレンジ・セル・ブリッジ・ゲームだった。
スタートラインに並ぶのはオセロと同様にパンツ一丁で、川風に吹かれて震える男たちがオセロを合わせて八人、並んでいた。
その内額当てをしているのはオセロだけ、六人は代わり鉄の首輪を付けていた。彼らはみな痩せ細っていて怪我人病人もおり、どいつもこいつも、オセロの目にはライバルに見えなかった。だが残り一人は、ライバルになり得た。
「すごい傷だね」
オセロに声をかけてきたのは、隣に立つ残り一人だった。
金髪のトゲトゲ頭で青い瞳、筋肉質の体はオセロよりも一回り大きく、太い。その白く光沢のある肌には傷一つ見られない。額当ても首輪もしてない代わりに、その首には金色の鎖を巻いていた。
「実は頼みがあるんだ」
金色鎖は寒さを感じてないかのように滑らかな舌回りだった。
「八百長は、無理だぞ」
答えるオセロの言葉は川風に震えてガチガチだった。いや、川の下流からの風だから海風か、どっちにしろ寒い。
「いや、そういうんじゃないんだ。寧ろ勝ちを譲りたいと思ってるんだ」
親しげな声音に胡散臭い内容でオセロは思わず金色鎖見返す。
「ここだけの話、恥ずかしいけど、僕はまだ誰も殺したことがないんだ。でも折角ここに来たんだから、禊は済ませておきたくてね。それで参加してみたんだけど、でも君とやったなら、こちらがやられそうでさ。だから僕は他の奴隷を殺したら降参する。それで満足だ。だから後は好きにしなよ」
言われたことに思わずオセロは金色鎖を見返すが、にやけているが嘘をついている風には見えない。
オセロは少し考えて、深く考えるのをやめた。
「俺は、オレンジにしか興味ない」
「あぁ、それでいいよ。ありがとう」
金色鎖が答えるとほぼ同時に太鼓が連続で叩かれた。
これが終わってドラが鳴らされたらスタートだ。
オセロは、川の上でたゆたうオレンジに集中した。
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タクヤンはもうこの際、オセロが男好きでも構わない、と開き直った。それに、媚薬なんかまやかしだ、と自分に言い聞かせた。
あの少女、ルルーとか言ったか、別れ際の警告、間違えて媚薬を飲んでいるので気をつけて、というのはイタズラかもしれない。
……だがしかし、思い当たる節もある。
男との情熱的なキスシーンは、ある界隈ではホットニュースとして巡っていた。それは恐怖よりも期待に近いもので、即ちそっち方面の男らにオセロは人気があって、同時にその相方はタクヤンだと思われていると思い出した。
そして隠された本性は薬で暴かれる。
……悶々と考えた末にタクヤンは、開き直って、出しか答えが、利用するだけ利用して切り捨てる、だった。
金さえ手に入ればもうオセロは用済み、消すには骨が折れるが逃げ切るだけなら無理じゃない。それにこのカジノで揉め事はご法度、ここで別れて尾行に気をつければ問題ない。寝床もまず見つからないだろうし、最悪迫られても奴隷を奢れば誤魔化せるだろう。全く、素敵スマイルはこういう時に罪作りだ。
タクヤンは不安に高鳴る胸を押さえながら、ドラムロールを耳にしていた。
耳にしながら、タクヤンは説明し忘れてたことを思い出して、青かった顔が白くなった。
このオレンジ・セル・ブリッジ・ゲームは、実のところ真面目にオレンジの取り合いで決着することは滅多にない。それどころか、木箱に触れることなく決着するのが大半だった。
半分暗黙の了解の領域なのだが、このゲームを含めて、ここのカジノの全てのゲームには推定勝利を採用してある。即ち、ゲームを続行可能な人間が一人しかいない場合はそいつを勝者とする、というものだ。これは競争が無くなり、安全第一でダラダラやられるデスゲームを見続けるのが苦痛だからできたらしい。
つまりデスゲームとは殺し合いを指すのだ。
それはこれも同じだ。オレンジ・セル・ブリッジ・ゲームでは武器防具の持ち込みは禁止されているため、肉弾戦での川への突き落としがメインとなる。それに恐れをなした人間は降参し、奴隷は逃げ惑って最後にわずかな希望を抱えて木箱に挑む。そして落ちて溺れて貪り喰われるのをあざ笑うのがメインだ。
観客は人が無惨に死にゆく様を見たいのだ。
だがオセロはそれをわかっていない。
……素手でもオセロは十二分に強い。だから本人から頼まれた分に加えて自腹分も加えて勝負してるのに、ドラムロールが始まるやいなやどこで習ったのかクラウチングスタートの構えとかしてやがる。
このバカは本気で木箱を走るつもりだ。
人相手ならばまだしも、揺れる木箱とか、ましてや泳ぐピラニアとか、真面目に戦うとか、イかれてるとしか思えないが、オセロはイかれてるのだと今更思い出した。
もう嫌な汗が止まらない。
ドラムロールに紛れて笑い声まで聞こえてきやがる。
賭をやり直すのは無理でも、せめて忠告の一つ……そうだ、この距離叫べば届く。バカでも呼ばれれば止まる。それから説明しても遅くない。何もしないよりかは勝率が上がる。恥はあっても負けるより幾分もマシだ。
……よし。
タクヤンが覚悟を決めて二度深呼吸してる間に、銅羅が鳴らされた。
刹那、オセロは、兎を見つけた猟犬のように飛び出した。
他に見向きもせず、一直線に、躊躇いなく、あっという間に木箱へと足をかけ跳んだ。
おぉ、という歓声を背に、オセロは加速する。
揺れる木箱を一つおきに飛ばして飛ばして加速して、もう半分を過ぎた。他はなんかも線を超えずに黙って見とれてやがる。
これは、ひょっとして、とタクヤンは手に汗握る。
オセロはデタラメなバカだが強い。それがここまでとは、いやでもありえる強さだ。ならありえない話でもない。まるで土の上を駆ける安定力、何をそうやったらあんな走りができるか知りたくもないが、勝ちゃあなんでもいい。奇跡は起こるから奇跡なのだ。日頃の行いがいいからここぞという時のユージョーパゥワーだ頑張れオセロ落ちるなオセロ、お前の気持ちには答えられないが応援してるぞ。残り八つ、六つ、四つ、独走圧勝文句なしのぶっちぎり優勝だぁあ……あ、滑りやがった。スパンと足元持ってかれてもう体が投げ出て腹から水に落ちやがった。ピラニアが跳ねてる。あぁ落ちやがってオセロ、お前はいつもそうだ。カッコつけて強そうに見せかけて期待させるだけ期待させて結局台無しにしやがる。一度でもいいから人の役に立てよ。どうすんだよこれで大損だ。暫く暮らす蓄えはあっても遊ぶ金はもうない。これからはカジノの横で質素倹約も生活するわけだ。あーあ、せめてもの救いはお前が生きたまま食い千切られてることか、まぁの消す手間が省けたな。せめて犯した罪の数だけ罰を受けろ。っと、手が出た。水面から、オセロのだ。しかも掴んだのはゴールの小舟だ。そのまま上がれ、骨だけでもオレンジ取れば丸儲けだ。いいぞ、なんだ無事っぽいじゃないか。あちこちピラニア食いついてるが、それよりも勝利だ。そうだ、違う、ピラニアによりもオレンジだ。いちいち外すな。肩を噛まれたぐらいでグダグダすんな。それよりもオレンジ、そうだ。よーしそうだそれを手にとって、よし、勝った。どっからどう見てもオレンジ掴んでる。やればできるじゃないか。俺が手塩にかけて育てただけはある。これで遊ぶ金は手に入った。まぁ今までの迷惑料としては利子にもならないが、今だけは褒めてやる。やっぱり俺の目に狂いはなかった。これで次のギャンブルに行ける。皮一枚繋がった。兎に角勝った勝ったぼろ儲けだぁああああっしゃあああ!
……タクヤンはオセロの勝利に、張り詰めていた息をフゥ、と吐き出した。
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