第三話 入学初日をキリトル (二)

 クロを机の定位置に戻す。

 

「あっ……」


 新年度、最初の写真が味気ないものになってしまったことにようやく気が付き、私はひどく落胆した。


 ハンガーにかけてある制服を手に取り、ベッドの上に並べる。

 シャツを持ち上げ、袖を通す。

 冷たい。それから、少しずつ自分の体温が伝わっていくのが分かる。

 スカートを履く。リボンをつける。ブレザーを羽織る。

 箪笥の引き出しから靴下を適当に取り出し、右足からはめる。

 鏡の前に立ってみる。

 思いの外、似合っているようだ。

 よかった。

 安堵し、先の落胆は消え失せる。


 私は殆ど無意識に、昨晩用意しておいた赤のリュックサックにクロを詰めた。

 それを背負い、リビングに向かった。


「どう?」


 私は満足気な顔をして問いかける。

 お母さんは最低限の家事を終えたらしく、一ミリタバコを口に咥えていた。

 お母さんもいつもと違う感じがする。服装のせいだろう。


「似合ってる似合ってる」


 私を見ずに笑って答える。

 何かが可笑しかったらしい。

 私は頬を膨らませてみる。


 こちらを見た。


「大丈夫だよ、美久。そんなに心配しなくても、制服は似合ってるし、新しい友達はできるし、クラスには簡単に馴染める。恋人もできるかもね……」


 お母さんは私の心中を悟っているかのように淡々と話す。


「うん。ありがと……」


 見透かされているのか……。私は赤面する。



 午前八時。

 そろそろ家を出発しなければ。

 たしか、九時集合だったよね。と曖昧な記憶を辿る。


 自宅から豊海高校までは電車で約一時間だ。

 今日だけはお父さんが車を出してくれる手筈になっているため、四〇分ほどで到着するだろう。

 待て、今すぐ自宅を出発してもギリギリじゃないのか。

 入学式で遅刻することだけは絶対に避けたい。

 今すぐ出よう。そうしよう。

 私は焦る。


「お父さん!そろそろ行こう」

「俺はずっと美久梨を待ってたんだけどな」

「そうだ。三人で写真撮ろうよ」


 お母さんが突然提案した。

 何故今なんだ。

 私が遅刻して、高校生活初日から恥をかいてもいいのか?

 お母さんの突飛な建言に私の理解が追いつかなかった。


「うん、そうだな……。美久梨、カメラ持ってるか?」

「持ってるけど……」


 お父さんが同意した。

 完全に遅刻だ…。

 私はまた落胆し、今度は無意識に頬を膨らませる。


 お父さんが玄関の物置からビデオカメラ用の三脚を取り出す。

 リュックサックのクロを手渡し、三脚に取り付けられる。

 お母さんはその姿を見て笑っていた。


「撮るぞー」


 お父さんがシャッターを切り、私の右隣に立つ。

 お母さんは左隣で私を支えるように立っている。


 三秒後、クロに備え付けられているランプが光る。

 一瞬、時間が止まった。


「急ごうか」


 お父さんの言葉で、私は時間の流れにまた組み込まれる。

 私たちは小走りでマンションの階段を駆け下りた。


 空はいつにも増して青い。

 風も気持ちいい。

 春、過ごしやすい気候なはずなのに、私は汗をかいている。


 車内でクロが撮った写真を確認する。

 それは焦点が合わず、ボケていた。

 でも、お父さんはしっかりレンズを見つめ、お母さんは優しく笑い、私は緊張しているのだけは伝わってくる。


「君も焦っていたんだな」


 小さな声で掌上の黒い相棒を慰めた。

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