夏の始まり(2)
前半終了間際、フリーキックから直接決められ二点ビハインドでハームタイムを迎えた。
しかしロッカールームはいつになく騒がしく、選手たちはそれぞれで意見を交しあっていた。
俺は真賀田と視線を合わせて、笑みを零し合う。
俺はそんな彼女たちの様子を微笑ましく眺めた。
「ねね、監督監督。質問がありますです!」
真穂が手を上げて、環と一緒にやってきた。
「お、なんだね真穂くん」
「実は今日、絶不調でした! どうすればいいでしょう?」
確かに本日、真穂が絡んだ場面はほとんどなかった。
「自分で考えろよ。でもまあ、そういう時は開き直って、何も考えるな」
「考えるな、感じろってやつ?」
「つか、たぶん真穂の感じてる絶不調ってやつはコンディションが悪いって意味じゃないと思うんだが」
真穂は首を傾げた。
「にゃっはー、そういうことかにゃ!」
環はもう猫だった。
「マホマホの魔法を唱える時がきたんだぜ」
「どゆいみ?」
そういえば、デビュー戦の時もうまくいかず似たようなことを言っていたと、思い出す。
真穂の調子が悪いのではなく、その逆。相対的な視点で論じるから齟齬が生じる。
絶対的に見れば。
調子が良すぎるのだ。
つまり思考が早すぎる。
周りがついてこられてない。周りに合わせられない。イメージと噛み合わない。
だから調子が悪いと錯覚している。置き換えれば、芒選手がずっと感じてきたことで、彼女が開き直って自分を殺して、周囲にレベルを落とした結果、並の選手になってしまった状態と同じ。そんな中、芒選手の周りでは彼女を理解してやれる選手はいなかったか、少なくとも少なかったんだろう。
「環ちゃんが頑張って追いついてやるんだぜ。失敗してもまあ、怒らないで欲しいんだにゃ」
「ん? 怒らないよ?」
そこへ、紫苑が加わった。
「ねえ、白井さん。私も今日絶好調だから、好きなように出していいわ」
じと、と真穂は紫苑を見つめた。
「な、何よ……」
「紫苑ちゃんさ、いい加減、そのさん付け辞めたら?」
「べ、別に意識してやっているわけではないわ。その……他に呼び方がわからないのよ」
「じゃあ、真穂って呼んでくれなきゃ、パス出さない」
「な!? 真剣勝負の試合に私情を持ち出さないでよ!」
真穂は振り返り、DF陣で侃侃諤諤している杏奈へ視線を向けた。
「アンコちゃんはガンガン走らせるから」
「ちょま!? ウチは前に後ろに東奔西走しているんやで!? そんな御無体な!」
「だってアンコちゃん、ドMじゃん」
「そうそうウチは、走るのが大好きな従順ワンコなんやで。投げられたフリスビーをハアハア言いながら取って帰ってくる。まさにブーメラン的活躍——ってアホか! 確かに試合後は走り尽くして某ボクサー漫画みたいに白く灰と化しとるけれども! あと、アンコちゃんって呼ばんといて!」
「餡子!?」心美が釣れた。
「アンコちゃんも調子良さそうだねー」
「……あの、白井さん? どうして私は無視されているの?」
「んー、大体皆の調子がわかったかな」
紫苑はいいようにあしらわれたこと、そして鉄仮面を剥がそうとして顔を真っ赤にしていた。
「そ……その……真穂」
真穂はニコリとひまわりのように爛漫——というわけではなく、小悪魔じみた妖艶な笑みを見せた。
「サイン出すから見逃さないでよ、おしん」
「ここにお汁コンビ結成なんやで!」
「頼りにしてるよ、両翼」
「環ちゃんも忘れちゃダメにゃん」
頼りにしてるぜ、ウチの10番。
後半開始後、快速特急アンコは目にも留まらぬ速さでインターセプト。一旦真穂に預けてオーバーラップを始めたが、真穂は逆サイドに展開した。
残酷なまでのダイレクトパスは、誰も反応できなかった。いや、杏奈がインターセプトする直前、真穂は紫苑にアイコンタクトを出していたが、その予測は、確証はあり得ないもの。杏奈が必ず奪取するという前提がなければ成り立たない。そんな半信半疑もあって、サインを受けたはずの紫苑でさえも一歩が出遅れていた。もちろん相手ディフェンダーは数歩の遅れ。
一発で抜け出した紫苑から強烈なミドルが放たれ、点差を一点に詰める。
得点をした紫苑はまだ実感できていなかった。現実を捉えかねていた。そんな彼女に、真穂はいたずらな微笑みを向けてピースサインを送る。
「あの子の才能は……いえ、真穂の脳内シミュレーションは一体どこまで……」
「ええ。こんなのは普通考えられません。たとえどんなに優れた読みを持っていたとしても、普通予測というものは、攻撃時あるいは守備時、というどちらか一方の局面で考えるものです。それを、相手の攻撃時に自分たちの攻撃を想像するなんてのは、ちょっと常人の考えじゃありませんね。たとえ、希望的観測を持ったとしても、それを根拠に数手、数十手先を組み立てるのは異常です」
だから理解されない。
だから理解されなかった。
俺は。
そんな世界が嫌だった。どこにも自分の居場所がないことに孤独を感じた。怪我ってのはいい訳だ。いや、要因であり起因であった。本当はずっと感じていた。ずっと孤独だった。だからサッカーが嫌になった。選手として自分が生きていられないと思った。未来が見えなくなった。見たくなかった。
初めて彼女を見た時——真穂のデビュー戦を目の当たりにした時、彼女からは俺を感じた。
だから。
彼女には俺になって欲しくなかった。
けれど真穂は俺と違っていた。俺と違って積み重ねたものがあった。理解されるための土壌が。土台が。その実績が。経験が。時間が。
「前節の川崎戦で、完全覚醒した……と考えてもいいんでしょうか?」
わかってねえなあ、真賀田さん。
「真穂が覚醒したんじゃないよ。周りが覚醒し始めているんだ」
杏奈然り、皐月然り、心美然り、由佳も香苗も。みんな、今まで積み重ねたものを糧として、高い壁にぶち当たり、それを越えようとして、見たこともない世界へと引き上げられようとしている。
真穂はそういう選手だ。
10番にも色々いる。想像的なプレーを見せる選手もいれば、テクニックで魅了したりする選手もいる。けれども真穂の場合は、真穂にふさわしい番号かもしれない。「0」と「1」を組み合わせたその数字は。「0」を「1」にする力を持っている彼女は。そして「1」を「10」にする白井真穂という選手は。
まあ別に、数字が何かをしてくれる訳ではない。けれども、認識と判断の早いスポーツの世界で、その場所に「10」が存在する意味はとてつもなく大きい。
それが10番であり、10番でならなければならない。
多くの10番は比喩的に言えば、グラウンドにボールという轍を使って描く選手だ。
手元にあるたくさんの絵の具を使って。
だから絵の具が違えば見える景色は変わってくる。杏奈という色。紫苑の色。香苗、心美、由佳……などなど。ここにしかなくて、ここであるからこそ、真穂は今の真穂たりえた。
理想が追いつき始めていた。
「けれどお前はさ、それだけの選手じゃないだろ?」
ボールを受けた真穂はドリブルで長い距離を運んだ。
視線を上げずとも、どこからでもノールックでどこにでも出せる彼女の危険性は恐ろしい。
どこに出す? どう来る? そんな疑問を動作で判別しにくい。
一人二人と翻弄して、ゴール前。
最後に背中へ送られたノールックのパス。
真穂の小さな体が相手キーパーのブラインドとなり、心美がゴール隅へ納めた。
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