13章

前年度覇者(1)

 ロッカールームには、いつになく重く研ぎ澄まされたような緊張感が漂っていた。


 先発の名を上げていく中、最後に俺はGKの三人の目を見た。


 義理人情でスタメンを選ぶのは監督失格だ。ましてや将来を思えば皐月は使えない。チームメイトだって故障を抱える選手が入ることの不安もあろう。


「ヴィルトゥオーサ・川崎は強固な守備を持ち、攻撃は10番を起点とする精密なパス回しから崩してくる。対して俺たちが勝負になるのは、スピードと発想力。そして、弱小がゆえの勝利への飽くなき執念だ」


 俺は彼女に目を合わせた。


 今日も髪をお団子に決めていた。


「キーパー皐月。任せた」


 皐月は頷き見せ、チームメイトの中に軽い衝撃が走った。


「ちょ、月見! 私はただの風邪なのに先発落ちで、なんで栄さんは先発なのよ!? 説明しなさいよ!」


 真っ先に紫苑が食ってかかっった。


 前日の練習と、本日のアップを見る限り、紫苑は明らかに調子を落としていた。


 皐月の状態を他人の俺が完全に把握することはできない。おそらく歩いただけで骨に響くだろうし、フェイスマスクが視野を奪って、マイナスの乗算が何重にも掛け合わされている。


 正直、皐月のあの言葉と熱にはグッとくるものがあった。しかし人情じゃない。


 逆に俺は冷酷なのかもしれない。


 それでも。


 それだけ不利を抱えていても、皐月に勝るキーパーがいない。むしろ、今の皐月は最高に感覚を研ぎ澄ませていた。決意を表明したあの時、皐月は何本も俺のシュートを止めた。現役時代から威力が劣っているとはいえ、手を抜いたわけでもない。


 満身創痍にも関わらず、頭と精神力だけはピークを維持していた。


 彼女を使うことに対する不安や、万が一を思えば胸を切り刻まれる気さえする。


 勝負の世界は殺し合い。


 より力の優っているチームだけが勝利を手にすることができる。


 勝つためならば、俺は悪魔にでもなろう。


 恨みで背中を刺される覚悟はできている。


「俺が王さまだ。難しい要求はしない。チームに勝利を」


 ここからの三連戦が、リーグ後半を占う。


 果たしてトップチームとの力量差はいかようなものなのか。


 優勝を目指すに値するチームであるか、今日で全部わかってしまう。



「イシュタルぅ~」



「「「オール・ゴー・ファイ!!!」」」





 川崎のホームゲームで幕を上げた試合序盤、相手一〇番が早速憎らしいパスを演出する。


 DFの意表をついて、裏へ放り込まれたボールに相手FWが反応し、芽が振り切られた。


 キーパー皐月との一対一。


 早速大ピンチ。


 距離を詰める前、早めに振り抜かれた力強いシュート。


 読みと瞬発力で反応した皐月の手にボールが触れ、軌道がわずかに逸れた。「あっ!」としたスタンドからのどよめきが漏れ、コーナーキック。


 双方の選手が素早く陣取り合戦を始め、息つく暇もなくゲーム再開。当然のように正確無比なキックはまるで鳥のように空を渡り、長身選手の頭へと吸い込まれていく。


 居合で斬り伏せるような鋭い読み。皐月は果敢に飛び込んで、自分よりも数十センチも高い相手から先にボールを弾き返した。


「監督は」目を手で覆った宮瀬が嘆く。「鬼です。鬼軍曹です。私は今日の試合、冷静に見られる自信がありません。皐月くんを無理に出したあなたが憎い。願わくば、ただ無事であればいい。そう思います。だけれど、」


 宮瀬の頬から水晶のようにきらきらとした液体が流れ落ちていた。


 顔をしかめながら震える声で、続ける。


「皐月くんは私が思っている以上に、たくましく、図太く、強く、私よりもずっと素晴らしい選手だと……ずっと信じていました。それが今、まさしく開花して嬉しい反面、切ない。ああ、彼女はどこまで行ってしまうのだろう。私は、皐月くんを少し羨ましく思いました。彼女は自身がコートの十人に及ばぬと、どこか一歩後ろから引いていましたが、私は決してそうは思いません」


 サッカーとは十一人で戦うスポーツ。そして、コートでただ一人手を使える唯一無二。キーパー無くして成り立たない。


「しかし」精悍な顔つきで宮瀬はピッチへと視線を注ぐ。「必死に戦う選手から目を背けるのは彼女に失礼です。まるでカエルのような跳躍力。ネコ科のように獲物を捕らえる読み。そしてチームを支えるその姿は、まるで樹齢千年の屋久杉のように、チームの底を支える存在です」


 いつになく宮瀬ワールド全開である。


 表現のセンスこそずれてはいるも、見当違いということもない。


 雨のように降り注ぐ、まるで砲撃のようなシュートを、皐月は持ち前の運動神経と鋭い読みでキャッチングできずとも、わずかに軌道をそらし、ゴールを奪わせない。


 


 確実にゴールというシュートが、入る気配すらない。


「ああ、ほんと、頼もしい限りだ」


 その飽くなき執念こそが、彼女の持ち味だ。最後まで諦めず、ボールに食らいつく姿は納豆のように粘っこい。……って、俺も〝宮センス〟に感染したな、と苦笑する。


 勝つことを信じているからこそ。


 味方が点を取ってくれっると信じているからこそ。


 皐月は誰よりもゴールを護る意思を絶やさない。


「だから私も負けない!!」


 宮瀬は涙を拭い切ると、口元に手を当て声援を送った。


「ナイスファイトっ!!」


 皐月の負けん気の強さは、恩師宮瀬から受け継がれたものでもあろう。


 コーナーキックからのセカンドボールを拾われ、修正しようとする守備の絶妙な隙を突くパスがことごとく10番から通り、シュートの波状攻撃が続いた。


「――何をしているのですか、芽! 死ぬ気でコースを防ぎなさい! 由佳、フォローの判断は迷わない!」


 真賀田にも熱が入っていた。


「一番苦しい選手を助けなくてどうするの!」


 感情が入るのも無理はない。


 勝つ気であるがゆえ。その選択を押し付け、選手がそれに応えようとしているのに、心を動かされない人間なんていない。


 だが相手一〇番は、熱に浮かされる俺たちへ冷や水を浴びせるように、難しいコースへのパスを送った。


 イメージが気泡のように脳裏に浮上する。


 その先にいるフリーの選手からの一点というシナリオ。


 止める術はなく確実。


 が。


 彩香のインターセプト。リスクを犯した攻撃的な守備で、すかさず真穂へとボールが渡り、カウンターの轍が続いて俺の脳裏にパッと開いた。真穂のイメージにもハマったことだろう。


 今日、紫苑の代わりに入った選手へ、


 極上のパスが。


 通らなかった。


「なっ!?」


「――カウンター警戒! スペース優先!」


 真賀田が吠える。


 俺が絶句しているのと同じように、真穂も同様に固まってしまっていた。


 今のは確実だったはずだ。


 俺と真穂だけが魔法の筋が阻まれたのだ。


「あいつも……あの選手ものか?」


 川崎の一〇番――芒蓮花。


 彼女がコースを読みきって、防いだのだ。


 イシュタルFCが可及的速やかに守備を立て直す中、再び一〇番から絶妙で容赦のないパスが通ると誰もが予感したが。


 芒選手は自らで長い距離を運び、中央を出し抜いた。心美が抜かれ、芽ですらも簡単に翻弄され、サイドへと放り込まれた。快速自慢の杏奈ですらスタートの違いで追いつけず。ダイレクトのアーリークロス。電光石火の早業で萌の前に飛び込んだFW。


 ゴールネットに突き刺さる。


 スタンドは歓喜に割れる。


 これこそが、川崎の伝家の宝刀。ロングボールからのワイドな揺さぶり。


 それでいて、超速攻。


 わかっていても足が追いつかない。


 茫然自失とする守備陣。いや、それ以上にダメージがでかかったのは。


 俺と、真穂だった。


「――何俯いているのよ! 切り替えなさい!」


 と、意気消沈するイレブンへと声をかけた紫苑。


 ベンチの俺たちはぽかんと口を開けて、彼女を見つめる。すると紫苑はバツ悪そうに目をそらし、頬を染めていた。


「な、何よ。私が応援しちゃいけないっていうの?」


「……いや、普段お前、点取られてもツンとしてるだろ?」


「そりゃあ、点を取る方法考えるのに必死だからよ。今はベンチだし、そ、その……自分のできることをって考えたら、これしかないじゃない……。だ、だいたい私が出ていたら、すぐに取り返してあげるわよ! だからはやく出しなさいよ!」


 俺は嬉しかった。思わず頬が緩んでしまう。


「この、ツンデレめ」


「誰がツンデレよ! 私がツンツンしたことなんてないわ!」


「マジで言ってんの?」


「チームメイトには優しくしてるつもりよ! ツンツンするのはあなただけよ!」


 そんなやりとりを見て、ベンチを含め、気落ちしていた選手たちの顔に血色が戻っていた。


「今のはファインプレーだぞ、紫苑」


「わ、わかってて演じたに決まっているわ!」


 ゲームが再開する中、


「紫苑、後半頭から行く。準備しとけ」


 紫苑を温存したのは、彼女に現状で出せる一〇〇の出力を維持してもらうためだった。今の調子でダラダラと九〇分続けるよりか、四十五分に全力を出してもらった方がいいとの思惑だ。


「遅すぎるくらいだわ。私が出る前に、あの子たちが試合を決めてくれるに決まってるじゃない。でも、試合は水ものだし、仕方がないから私が加勢してあげるわ」

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