背水の陣(7)

 翌日。


 うっすらと期待はしたものの、まだ熱が下がらず、グラウンドに紫苑の姿はなかった。


 とはいえ、夏希がつきっきりで看病してくれているらしく、あまり心配はしていない。しかし冷静に還ってみれば、頭痛がしてきた。最悪、次節は彼女無しで戦うことも考えておかねばなるまい。間に合ったとしても、本調子には程遠い。練習を休めば取り戻すのに時間がかかる。


「なかなかいいですね」


 真賀田が感嘆を浮かべるのも納得できた。


 練習の最後、セットプレーの確認をしているのだが、気持ちいいくらいにゴールが続いている。


「もともと由佳と香苗はいいコンビでしたから、息が合うのも納得できます」


 とはいえ、プレースキックの正確性は心美や真穂の方が以前は上だった。それもあり、最近は三つ巴のじゃんけん大会が開催されていた。


「キャプテンとして、貫禄が出てきたよな」


 由佳も密かに向上を図っていたのだ。


 タレント揃いのイシュタルFCで、生き残るすべを皆模索している。由佳のボールは鋭い切れ味で曲がり、キーパーやDF陣の予測を翻弄していた。


 この世界では時々、挑戦を諦めないものに対して、サッカーの神さまは根負けすることがある。俺たちは迂回することがありつつも、着実に一歩を進んでいる予感は感じていた。


「昨今ではセットプレーからの得点は結構な割合を占めま――」


 絶妙な位置に放り込まれたボールを、キーパーの皐月と香苗が競り合ったとき、背筋に冷たいものが流れた。


「香苗――皐――」


「皐月くん――っ!!」


 俺が言い切るよりも早く、宮瀬コーチがベンチを飛び出していた。


「真賀田さん、救急セット!」


 告げ、俺も宮瀬に続いてゴール前へと駆け出した。


 空中戦での衝突。香苗の頭が、皐月の顔に入った。そして二人は受け身を取れないまま落下。


 香苗の意識はしっかりとあるようだった。頭を押さえながらも、「ごめん、皐月」と手を伸ばし、起き上がらせようとしていた。


 だが。


「動かしちゃダメです!」


 宮瀬の鋭い叱責に皆、固まった。


 頭が利き足の香苗のヘディングをもろに食らった皐月は目を閉じたまま横たわっていた。





 俺は、俯いたままの香苗に紅茶を出した。


 俺は、病院に付き添うべきだと思ったが、頑なに宮瀬が「監督はチームにいてください」と、皐月のそばには宮瀬と夏希が付くこととなり、連絡待ちだった。


 あのあと練習にならなかった。特に当事者である香苗の精神的ダメージはひどく、今だに顔を青くさせていた。


「――故意じゃないんだし仕方ない。お前は点を取りに行った。皐月は防ぎに行った。それだけのことだ」


「は、い……」


 香苗の前向きな性格に助けられたことは何度もあった。しかし今回はそれが不運な方に出てしまっただけのこと。


「クールダウンはしたか?」


 随分と間を置いて、


「いえ……まだ」


「それでお前も故障したら世話ねーぞ。気持ちはわからなくもないが、俺たちが皐月にしてやれることはあまりない。香苗は自分のことをしておけ」


 唇を結び、何も言わず立ち去ろうとした際、宮瀬が帰ってきた。


 暗い表情を見るに、あまり明るい報告ではなさそうだった。電話一本でもう少し早く報告もできたろうに、それができないということは、宮瀬自身、愛弟子に対する遣る瀬無さを感じていたのかもしれない。


「頬にヒビが入っているとのことでした。接触した箇所が箇所だけに後日精密検査をするとのことです。とはいえ、ひとまず命に関わる怪我でもありません」


 香苗のいるここで聞くべきか迷ったが。


「復帰時期は?」


「三週間です。早くても」


 目を剥いて、香苗は固まってしまった。


 キーパーはサッカーで一番地味なポジションだが、一番難しく、そして替えの利きにくいポジションである。土台――それは足場の骨組みなんかよりもずっと深く、言うなれば、地盤というに等しい。脚を使うサッカーで、唯一特例が認められたキーパーの存在は、とてつもなく大きいのだ。


 ここまで全試合フル出場だった皐月の離脱。


 しかもトップとの三連戦を控えての全治三週間。


「……少し出てくる」


 一番堪えている香苗の前で弱音は吐けなかった。


「あ、あとな、香苗。気にすんなってのは無理だろうけど、やっぱり気にすんなよ。お前は悪くない」


 そうして俺はグラウンドに出た。


 何かをしていないと悶々とする。本来であれば対戦チーム――ヴィルトゥオーサ・川崎の予習をするべきなのだろうけれど。これ以上のトラブルはごめんだ。祈るようにして俺は――いや、悲運を連ねるサッカーの神さまに怒りをぶつけるように、ボールを蹴った。


 一人黙々とボールを蹴っていると、ナイターの明かりが影を作った。


 夏希の姿と小柄な皐月の姿。


 練習中も練習後も普段からお団子ヘアに髪をくくっている彼女だが、今日は髪を下ろしていて、違う印象を抱いた。いや、あどけなくも整った顔立ちを覆い隠すかのようにフェイスマスクをした皐月は見ていて痛々しい。


 皐月はチームウェアのジャージを脱ぐと、髪留めを咥え、頭をポニーに縛った。


 俺は目を細めた。


 バッグからグローブを取り出し、手にはめると、皐月はゴール前に立った。


「お前……何考えて……」


 皐月の目は座っていた。


 腰を落として、すでに戦闘態勢。


「誰にも、譲らない」


 ぞくりと、全身が総毛立つ。その威圧感は。威風堂々とした立ち姿はゴールが小さく見えてしまうほど、皐月の姿は大きく見えた。


 守護神としてのプライド。


 そしてチーム事情や、今俺たちがいる立ち位置を理解した上での発言だった。


「怪我を押して出るなんて、賢い選手のすることじゃない」


「ボクは賢くなくたっていい」


「君には先がある」


「ボクはこの場所が好きだ。ボクには創造的なプレーも、他者を凌駕できる身体能力もない。足元の技術だってコートの十人には及ばない。それでもボクはずっとこの場所で戦ってきた。皆の背中を見続けた。ここが、ここだけがボクの居場所だ。誰にも譲る気なんてない!」


 腹をくくったやつは強い。


 寡黙で職人のような気質の皐月は、他の誰よりも負けん気が強かった。香苗よりも、紫苑よりも、ずっとずっと、腹の底に抱えている執念は釜に閉じ込められた灼熱のごとく、ずっと煮えていた。


「スタメンを決めるのは俺だ」


「うん、だから、テストして欲しい。ボクが使えないなら、その時は諦める」


「監督っ――皐月ちゃんっ――」


 夏希が悲鳴じみた声をあげた。


「あんたは黙ってろ!」


 声を上げると、夏希は驚きつつも顔をしかめた。


「……いや、怒鳴ってごめん。でもこれは佐竹さんにはきっとわからないこと。スポーツをしたことのない佐竹さんにはわからない」


「そんなのわかりませんよ! わかりたくもありませんよ! もうすでにボロボロなのに、なぜリスクを背負わなくちゃならないんですか!? 監督が選手を潰すようなこと、チームマネージャーとして看過できるわけがないじゃないですか!」


「ボクの覚悟を、部外者が口出しするな!」


 いよいよ夏希は絶句したが、それでも、力なく反論を続ける。


「だってそんなの……おかしいじゃないですか……皐月ちゃんには未来があって、ちゃんと直せば、またコートに戻れるのに、どうして今じゃないとダメなんですか?」


「だから、佐竹さんにはわからないって言ってるんだ! おかしい? おかしいのはそっちじゃないか! なんで紬はチームのために移籍しなければならなかったんだ!? どうして監督は昇格を決めたのに一年契約なんだ!? ボクたちに約束された未来なんてないだろ!? 監督も、仲間も、ボクも、ずっとここにいられる保証なんてないじゃないか! ボクたちが勝ち続けなければ! ボクに勝たせる力はないけれど、負けない力なら負けたくない!」


「……そういうことだ、佐竹さん。もう皐月は誰にも止められないんだ」


「じゃあ監督が……監督だけが止められるじゃないですか。こんなこと、辞めてください」


「ダメだ。納得できる理由がないと、皐月は説得できない」


 それだけの覚悟を彼女は今抱いていた。


「だからってこんな……」


「佐竹さん。いい機会だ。目を背けないで見ていて欲しい。さっきは佐竹さんにはわからないとは言ったけれど、チームメイトとして理解して欲しいとも思う」


 俺たちがいる世界は。


 俺たちが戦っている場所はそういうものなんだって。


 俺は戦うことを辞めた。だからこそ戦う意思のある選手を止めることはできない。意思を燃やし続けられる選手は本当に尊敬する。


「皐月、アップは?」


「終わらせた。いや、ずっと燃えてる」


 熱い。


 皐月は見た目以上にハートが熱い。


「負けたくない。誰にも。チームメイトにも、相手にも。ゴールは奪わせない」


 そして、俺と皐月のPK合戦が始まったのであった。


 きっとバカだけがこの世界に残っている。俺たちはサッカーバカだから。サッカーでしか自分を表現する方法を知らない。




 無垢でバカなやつこそが、時に偉大なプレイヤーになる素質を秘めている。

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