帰郷(7)
「最近、月見監督の威厳が地の底に落ちていますね。主にセクハラ疑惑で」
「……スキンシップの一環だと思いたい」
「正直羨ましいと」
「槍玉に挙げられる身にもなってくれ」
「あの子たち、私にはあんな風に接しませんから。信頼されてる証ですよ」
「真賀田さん怖いもんな」
「歳が近いのもあるんでしょう。月見さんが来る前、あんなムードではありませんでした。ほとんど無口で、監督の指示だけを聞くイエスロボット」
脳裏に、ふと結城学の姿が浮かんだ。
「彼女たちは、今のびのびとプレイしています。殺していた個性も見せ、きらきらとしてるのがよくわかります」
「おかげで、試合前もハーフタイムも喜劇だがな」
「他のチームが見たら、驚くでしょうね」
「だな。そういう意味で、俺はこのクラブが嫌いだけど、チームは嫌いじゃない」
「そういうあなただって」
「ん?」
「現役時代は近寄りがたい雰囲気を醸し出していたのに今は、ね」
少し気恥ずかしくなり、俺は無言を返した。
「とはいえ、うちは漫才チームではありません」
途端に真賀田コーチは真剣な眼差しをコートに向けた。
「ああ、シーズン初白星を取ろう」
一点ビハインドで幕を開けた後半、紫苑の鮮やかな突破から、
快速杏奈はダイレクトシュート。惜しくもキーパーに阻まれ、セカンドボールを、心美から環。続けてワンタッチプレーで香苗。これをヘディングで叩きつけるも、キーパーの連続ファインセーブに阻まれる。
しかし波は収まらない。
ゴール前の混戦を弾き返され、クリアボールを芽が先に落下点へと入り、由佳から香苗。一旦真穂に落としての、速攻を狙うも、相手の守備はきっちり対処して裏を取らせない。
環がボールをキープして、デコイに走った真穂が絶妙な間を空けてくれた。右サイドへのロングボール。
流石に裏は取らせてくれない。
ボールを持った杏奈の周りには、紫苑、香苗、それに心美がフォローに入った。しかし相手の対応も早く、スペースが生まれなかった。何本のパスで崩せるかはわからない。ここは時間をかけたくない。だがミスは一番したくない。こういう場面で安全なのは、DFラインまで下げて、一旦立て直しすること。ミスからのカウンターで追加点は一番嫌な場面。
杏奈はフェイントを一つ交えた。
微かに体勢の崩れた――
瞬間を逃さない。
踏み込んだスパイクが芝生を散らしたその時にはもう、深くサイドを抉っていた。「あ」とした驚きの声が、スタジアム中から響いた。
「そりゃ、大阪のやつは知らないだろうな。元右ウイングだったってのは」
しかしフォローに入ったCBが執拗に寄せ、ゴールからは遠ざかる。中へ折り返そうにもきっちりコースを防がれ、最善手は足に当ててのコーナキック狙いか。
だが杏奈はゴールラインすれすれを縫うようにくぐり抜けた。
その轍はまるで。
渡り鳥の幻影をなぞるように。
キーパーと相対し、狭いコースへと送り出す。
外しようがなかった。
揺りかごにそっと置くように。
ゴールネットを確実に揺らした香苗はガッツポーズよりも先に、吠えるよりも先に、杏奈へ飛びかかり抱きついた。
香苗が天を見上げて大口を開けた時。
「行くぞ、ベンチも一緒に!」
「「「うがぁぁぁぁ――――――――っ!!!」」」
失ったものはあまりにも大きい。
けれどだからこそ得られたものはもっと大きい。
安全策を選びがちで、チャレンジ精神の弱かった杏奈が、初めて自分の力を信じた結果、ゴールに結びついた。先の見えないトンネルを抜け出すには、結局前に進み続けるしかない。
杏奈の場合は、誰よりもトンネルを抜ける速度が速かった。
「――まだ、我々はこの場所でもやれます」
希望を照らしてくれた杏奈の存在は大きかった。
「そう、まるで光が射すように」
コーチ二人だって、負け続きだったことに無関心であるはずがなかった。
まだ同点。しかしその一点は、この場所で戦えることを十分に示したものだった。
数の少ない針のようなものだとしても、俺たちには穴を貫けるものがある。
ゲームが再開して、勢いに乗ったイシュタルFCの攻撃は続く。負けじと紫苑が中へ切り込んでからの外。当ゲームの
美しいボレーシュートだった。
キーパー反応できず。ゴール角を貫いて勝ち越し弾。
ここで大阪は、左サイドハーフを入れ替えてきた。前節まで先発だった攻撃的な選手だ。
「いよいよ、殴り合いですね」
「望むところだ」
以後、サイドを使った目まぐるしい展開が続く。まるでテニスラリーのように早い往来で、両者一歩も攻撃の手を緩めない。
終盤、双方とも足が上がらなくなり、交代枠を使い切る。
コート外へと向かう杏奈の元に、敵地だった大阪のファンから拍手が落とされた。
一心不乱に縦を走ってた杏奈は疲れ切った顔を、くしゃっとさせ頬を拭っていた。
「なんていうか、大阪のファンはもっとこう……辛辣なイメージがありましたが……」
「スポーツファンはさ、皆、頑張ってる奴が好きなんだよ。それはどの地域や国でも変わらない。素晴らしいプレイをした選手を賞賛する。当たり前じゃないか?」
ベンチに引き揚げてきた杏奈の頭を撫で、
「最高の仕事をしてくれた。ご褒美にキスしてやろうか?」
「罰ゲームやんそれ!」
「まだ元気があるな。最後まで使えばよかったか?」
「もうヘロヘロや。堪忍してえな」
彼女たちの評価を上方修正しなければならないだろう。大事な場面で先取点を与えても、勝ち越せる力と心の強さがあった。
試合は、双方とも中盤に一点を取り合い、2-3のまま幕を下ろした。
本日のヒロインは、一得点一アシストの大活躍だ。
試合後、撤収の準備をしている中、杏奈の姿が見当たらず、スタジアム内を探していると、金髪ツインテールの姿を見つけた。
見つけやすくていいな。
そう思って、俺は通路の角にも身を潜めた。
着物を着た女性と、はっぴを着た男性を前にして、杏奈は俯いていた。
「……来てくれとったんや。おとん、おかん」
「当たり前やないの」母親が答えた。「あんたが帰ってくるとこ、どんだけ待っとったか」
「ウチな、今日ワンゴールの、ワンアシストやってんで」
「お母ちゃんとお父ちゃんに似て、あんたはちっこいままやな」
杏奈は肩を落としていた。
「……何やそれ、おとんとおかんに活躍するとこ見せたくて頑張ったのに、何やねんそれ! 東京行くときだって、反対したし、おとんもおかんも背がちっこくて、うちはこの身体でなんぼ苦労したと思てんねん! せやけど、自慢のおとんとおかんに褒めてもらいたくて、ウチ、スタメン取ったんやで!? 一部リーグで活躍したんやで!? せやのに、なんでそないなこと言うねんな……」
「ほんまに大きなったな」
破顔した母親は彼女を抱きしめた。
杏奈がどういった表情を見せていたかはわからない。それでもまあ、俺のキスなんかよりもずっとご褒美だったのは違いないだろう。
泣き声が聞こえる前に、俺は会釈を残し、その場をあとにした。
「けど、おかんはレッツ大阪のファンやし複雑な気持ちやわ」
「感動を台無しにしなや!」
お笑いの遺伝子はきっと、あの母親から伝わったものなのだろう。
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