遠い場所(7)

 本格的に桜の季節がやってきた第三節。


 序盤にコーナーキックから香苗のボンバーヘッドが炸裂したが、惜しくも先取点には至らず。その後、攻撃のリズムはかみ合わず、インターセプトからカウンターを食らう場面が多々あったが、調子の上がらない攻撃陣に対して、守備陣は真賀田コーチの指導のもときっちり修正しており、ゴールを奪わせなかった。


 以後、硬直した試合展開が続き、ハーフタイムにロッカールームへと引き上げてくる選手は消耗していた。


 全員サッカーの痛いところだ。


 サッカーコートは、長さ一一〇メートルかける幅七五メートル。その中をゴールキーパーを除く十人同士の走り合い。サッカーは攻守の入れ替えが目まぐるしく変わるスポーツだ。一瞬足りとも目が離せないながらも、時には将棋やチェスのようなボードゲームの側面を持つ。如何に一人が担当するエリアを小さくし、如何にリスク少なくボールをゴールまで運ぶかという競技だ。そうしてシステム論は長年かけて進化してきた。


 厄介なのは相手にミスひとつなかったこと。


 クレバーな守備でスペースを見つけられず、連動した動きで無理やりこじ開けようとしたのが、結果につながらず、体力を消耗していた。


 さすが一部リーグで戦っているチームだけはある。


 いや。


 今後、こう言う試合がずっと続く。


「デコイの動きを減らして、ワンタッチ、少なくともツータッチでボールを回す。相手に揺さぶりをかけて、少ないチャンスを狙う。……で、よろしいですか? 監督」


 真賀田コーチの指示に、俺は生返事を返した。


 こちらがボールをキープして攻撃に転じていればあまり気にはならないが、ボールを奪うためにはボールを取れる距離にまで詰め寄らなければならない。


 つまり走る。


 人の走る速度よりボールのスピードの方が絶対的に早い。ミスせずボールを回せるということはほとんど走らずに相手を走らせる。しかも今日は相手チームの深い位置から中盤までの縦を何度も走らされ、したがってスタミナを削られた。


 こういうサッカーはボディブローのように後半効いてくる。


 これが一部リーグの洗礼。いや普遍。


 結局は経験の差か。ミスをしない――すなわち、判断の正確性とその速度が磨かれている。一つのシチュエーションにおいて、パターンは数通り。その先を読めば、何十手、下手をすれば何百手と言う状況が実在する。そのうちから常に最善手を見出すには、経験が何よりもものを言う。


 日々の練習で俺たちはそうしたシミュレーションを飽きるほどやってきた。


 選手たちの頭と細胞には、数百点分に繋がるサッカーの棋譜がインプットされている。


 それでも。


 相手には、その数倍のサッカーが蓄積されているのだ。


 ジャイアントキリング――弱者が強者を食うと言うのは、そのパターン化されたプログラムを壊す発想が必要である。


 イマジネーション。


 いつの世も、進化の途上にある遺伝子を塗り替えるのは突然変異の天才だ。


 俺は、今日も調子の上がらない真穂を目に収めた。


 彼女は眉を寄せながら難しい顔をしている。


 調子なんて単純な言葉では片付けられはせぬだろう。おそらく必死に考えているのだ。どう相手を崩すか、どうすれば点に繋がるか、何をすればチームを勝利に導けるか、今彼女の頭の中ではおそろしい量の思考と、答えを見つけられないもどかしさと、他にも己の未熟さに対する葛藤など、感情も加えて、苦しんでいる。


「後半」


 俺は皆に放った。


「真穂中心でボールを集めよう」


「それはわかりますが監督」ゲームキャプテンの掛川由佳が不安顔を見せた。


「相手も真穂を警戒して、前半は執拗なマークにあってます。仕事をさせてもらえるか……だったら真穂を囮にしてサイドをワイドに使った方がいいのでは?」


「マークされて何もできない10番はいらない」


 真穂は顔をしかめて俯いた。


 10番を背負ったプレッシャーで沈没してしまうような選手ではないはずだ。


「真穂。自分の力で乗り越えろ。君には10番を背負う価値がある。君の才能を示せ」


 彼女は強い眼差しを向けた。


 まだ意思は死んでいない。


「間違ってもいい。ミスしてもいい。その場合は周りがフォローする。それがチームだ。だが君は一点に繋がるプレイで皆を引っ張れる選手になれ」


「うんっ――、はわっ!?」


 頼もしい返事を返した直後、背後から環に抱きつかれ、変な声を出していた。


「まーまー、そんなに固くならんと、もっとリラックスして。と言うことで、必殺! パイパイ揉み揉みぃ~っ!」


 成長途上にある慎ましやかな胸が揉まれていた。


「ちょ、環ちゃん!? そこ、ピンポイント! 監督いるから! だ、だめ~っ!」


 あいつ、おっさんだな。


 思いながら、なんとも表現しがたい気持ちになりながら俺は目を逸らした。


「なっ!」ここで釣れたのが、ルーキーコンビだった杏奈。「ウチの真穂っちを取るなや! てか、ウチのキャラまで奪おうとしてへんか!?」


 右サイドに環、左サイドに杏奈。


 左右からおっぱい揉まれて、真穂は目を回していた。


「こうか!? ここがええのんか!?」


「むふふぅ、お主も好きものよのぉ」


「揉んだらおっきなるゆうやん? こうして毎日おっきくして、真穂っちのスピード削いだるねん」


「にゅふふ、お主も悪よのぉ」


 収拾がつかなくなり始めた時、エロオヤジ化した二人の首根っこを香苗が掴んだ。


「お前ら……リラックスするのも大事だけど、時と場合ってもんを考えろよ。もうハーフターム三分切ってんだぞ? 水分補給はしたか? てか汗拭いてないじゃん!」


 意外と言うか、香苗は嫁力を発揮して、三人の汗を拭いたり、ドリンクを飲ませたりと、母親じみていた。


「そういう香苗だって、自分のことは二の次ね」


 由佳がタオルとドリンクと、ハチミツ漬けレモンの入ったパックを差し出していた。


 悪りぃ、と香苗は少し恥ずかしがりながらも汗を拭く。


「はい、アーン」


 と、由佳が輪切りになったレモンを口元へ運んだ。


「ばっ――ンな恥ずいことやれるかよ!」


「――ハチレモ!」


 甘いものに目を光らせた心美がパックごとを奪ったのはお約束。


 そうして戦場へと帰っていく選手たちの最後、


「レズレズしいわね」


 紫苑がぼそり。


「ああ、なごなごしいな」


「何それ」


 とはいえ、試合前からこわばっていた彼女の表情も幾分緩んでいた。





 後半立ち上がり、前がかりになっていた俺たちの虚を突いて、相手のカウンターが嵌った。


 キーパーの皐月が飛び込むも、ひらりとかわされ、無人のゴールへとボールは収まってしまう。


 三試合の先制点を許す形となり、東京のスタンドではため息ののち、沈黙が下された。


「苦しいですね……」


 真賀田コーチが言い落とす。


「守備陣は劇的に良くなっているはずなんですが……」


 ここまで存在感を消していた宮瀬里子コーチも悔しさを滲ませた一言を放った。


「仕方ない。点なんて取られてナンボだ」


 俺はすっと息を吸い。


「まだ、こっから!!!」


 ピッチへ喝を入れた。


 コーチの二人はぎょっと目を剥いていた。


「か、監督が吠えた?」


「月見さんが熱血漢になった!?」


 二人の小言は耳に入れず。


「挑戦を恐れるな! 挑戦するやつをサポートしろ! 杏奈、お前のこと言ってんだぞ!?」


「――わ、わかっとるわ!」


 今のパターン、執拗なマークにあった真穂へボールを入れられず、ワンテンポ遅れて次の手を探そうとしたところをカットされた。もし、杏奈が二つ先、三つ先を考えていればすぐに対処できたプレーだ。


 怒鳴られて、しゅんとする杏奈を、真穂がよしよしして慰めていた。


 杏奈は自信家のように見えて、確実性を気にしてしまう選手だ。完全に抜け出した時しか前を見られない。それは、前線の選手に比べて足元の技術力に自信がないからだろう。もしボールを受けたとしても、防御を崩す一手を持ち合わせない自分が受けてもいいのだろうか――そんな自信のなさからサポートですら後手後手に回ることが多い。


 だけどな。


 君の足は誰にも負けないんだ。


 足の速さだけで多大な貢献ができる。


「欲しいのは、正妻か」


「……監督の頭がワンダーランドなんですが」


 俺がそうだったから。


 真穂にはそうなって欲しくない。


「理解されない天才なんて、ただのカカシだ」


 ゲームが再開し、真賀田は一瞥をくれた。


「……なんとなく、監督が監督を引き受けた理由がわかった気がします。〝孤独の王様〟……それが月見健吾の影を表す表現でした。だからあなたは――」


「お姫さまは王子さまがエスコートしてやらないとな」


 すぐに自らのプレーを修正した杏奈が真穂のサポートへと入った。


 ディフェンダーを背負いつつ、フェイント一つで左サイドへ向いた真穂から。


 目の覚めるようなパス。


 全身が総毛立つ感覚を味わった。オフサイドは上がっていない。全員の意識が左サイドへ向いて、特に紫苑への警戒が強まった瞬間を、その二人の選手だけは逃さなかった。


 抜け出したのは、環。


「……それ、だ」


 俺は彼女を過小評価していた。一番面白みがなくて、一番頼りになる選手だと。


 真穂が他者を動かす選手だとするのなら、環は自らの意思で動く選手。


 決して能力は高くない。


 決して技術が優っているわけでもない。


 それでも。

 それだけのものを持っている。


 誰も理解できなかった天才の意思を、汲み取る本当の天才。

 たった一つのスキルが萱島環という選手を語るに足る。


 天才と意思を共有する、発想力。

 天才を理解し、天才を引き立てる才能。


「ようやく、ホットラインが出来上が――」


 感激に震えたのだが。

 シュートは外れた。


 しかし、縁の下を支えてくれる香苗がこぼれ球をきっちり押し込んでくれ、同点に持ち込んだ。


「ほんと、お前ら頼りになるよ」

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