大一番の秋(5)
一週間の月日はあっという間に流れ、俺と結城は握手を交わした。
「まさか、ウチが追う立場になるとは夢にも思ってなかったよ」
「その慢心が招いた現在の順位だろう?」
「言うようになったな、月見くん。だが敗者に口無し。今日は実力で勝たせてもらう」
「恵みの雨も降りそうにない。絶好のサッカー日和だ」
天気予報で降水確率0%。真っ向勝負にふさわしい快晴である。
結城が瞳に宿す闘争心は、純粋無垢なものだった。完全に立ち直ったと見ていい。
「俺はさ、月見くん。君や、例えば鹿野選手や宇都宮選手をとても羨ましく思うのさ。あのイザベラ選手にしてもね。どうして天才は天才の元に集まるんだろうね」
俺は黙って彼の言葉を聞いた。
「俺は凡人だ。特別な才能に恵まれず、早くに選手を引退した。だからこそ、天才を倒す方法をずっと考えてきた。そして、前回の宮崎戦、俺が探し続けてきたものは間違っていなかった。間違っていなかったはずなんだ。だが勝負の世界は無慈悲だ。結果を今更あれこれ言うつもりはない。だから今日、俺の追求してきた天才の倒し方が間違っていなかったことを証明する」
結城は握手していた手に力を込め、まっすぐな敵意を向けてきた。
「いい勝負をしよう」
「ああ」
そうして、共に俺たちはロッカールームへと向かった。
部屋で待っていた選手たちは、各々のテンションの入れ方で集中力を高めていた。
「先発は前節と一緒だ」
GK、栄皐月。
左SBは掛川由佳。右SB、白鳥杏奈。CB、木崎芽と萌。
DMF、桐生彩香に大東心美。OMF、白井真穂。
左WG、宇都宮紫苑。右WG、鹿野紬。CFW、吉村香苗。
これがイシュタルFCのベストメンバー。
「言いたいことはたくさんあるが、多くは語らない。前回のことは忘れろ。そして、今日は君達の本当の実力が試される」
一人一人に目を合わせていくと、皆、頷き返してくる。
「楽しんでこい」
由佳が手を広げて円陣中央に差し出した。
一つ、また一つと重ねられていく。
「私からいくつか言ってもい?」
皆、ちらりと由佳に視線を向けた。
「今日はスタートライン。結城学に捨てられたけれど、今では良かったと思ってる。それが正しかったのだと、月見監督にありがとうと言うために」
由佳は大きく息を吸った。
「イシュタルぅ〜」
その時、応援団の声も重なって、
「「「オールゴーファイ!!!!」」」
一際大きな掛け声となった。
そして選手たちは表情を崩しつつもコートへと向かう。程よく緊張感を持っているものの、時折リラックスした笑顔が
この一年を通して彼女たちは精神的にも大きく成長していた。今日まで戦ってきたという経験は目に見えないながらも選手達の中に確かに積み重なっている。
あとはどれだけ自分のサッカーができるか。
リベンジに燃えるTGAの選手は気迫のこもった様子で、イシュタルFCは体をほぐしながら笑顔が見られた。
「——いよいよですね。試金石となる一戦と言いましょうか」
「どちらも優勝をかけて負けられない。こう言う時はたいていが面白い試合になる」
『T・G・A!!!! T・G・A!!!!』
『ゴー、ゴー、レッツゴー、イシュタル、オールゴーっ!!!!』
スタンドは満員。ファンは半々か、TGAサポータが少し多いくらいだった。両チームのファンの声がぶつかり合い、溶け合って、地鳴りとなる。人の熱気が木枯らしを燃やし、頬を撫でていた。ピリピリと肌を刺激する緊張感。懐かしい。ロンドンで感じたダービー独特の雰囲気と、今日の東京ダービーは似ていた。
「監督、怖い顔してますよ」
あの日の記憶に沈みかけていた俺はハッとする。
「ああ、悪い」
「……大丈夫ですか?」
「もしかしたら俺は今日——」
使い物にならないかもしれない、と言いかけて辞めた。指揮官が弱音を吐いてどうする。そう自分に言い聞かせた。視界の半分は白く灼け、胃から酸っぱいものがこみ上げる。それでも最後まで立っていようと震える足に
「いや何でもない」
大歓声に迎えられる中、ホイッスルが甲高くピッチ上に響き渡った。
初手、紫苑が崩しにかかるも、隙を突けず一旦仕切り直し。心美を経由して紬にボールが入る。が、これは読まれてタッチラインを割った。
「あれを読んできますか。ダイレクトですよ?」
苦渋を舐めたTGAのセキュリティはさらに強固となっていた。硬いだけじゃない。むしろ読みの速さがあった。
「TGAのサッカーは堅牢な
並の攻撃はことごとく防がれた。シュートまで持って行けず、リズムを悪くすれば、TGAは防火壁からハッキングへと素早いカウンター攻撃を始めた。
二つ、三つのパスで一気にバイタルエリアへと侵入。相手FWがフェイントで芽に揺さぶりを掛け、微かなコースが開くと強引に打ってきた。
幸いにも枠を逸れたが、万の嘆息が頭上から降りかかる。
「……これは精神的にキツイですね」
一つ一つのプレーが観客と連動する。不細工なプレーは見せられない。その重責が、自覚なくとも徐々にのし掛かってくるのだ。
「しかし、今までのTGAとはパターンが違います」
「ええ、真賀田コーチ。TGAは確実にゴール近くまで運んで点を取る方法でしたが、今日の彼女たちからは是が非でも点を取る強い意志を感じられます」
当然だ。TGAが優勝するには今回も大量得点をする必要があった。TGAは貪欲に勝利を目指すだけではなく、オーバーキルを狙っている。綺麗なサッカーの美学を捨ててまで、勝利を欲している。檻や防火壁、ましてや電子攻撃的な形容なんて生易しい。ただ得点を欲した猛獣なのだ。
心美が軸となり、ダイレクトでサイドに散らす。だがこれを再び読まれた。インターセプトから一気にFWへあて、二列目に位置するCMFが抜け出す。
「なっ!? 一発で!?」
真賀田の驚きも納得できた。ディフェンスの中でも読みに関してはずば抜けている萌を出し抜いての裏への飛び出しだった。
今回、結城が採用したのは4-3-2-1のクリスマスツリー型。やはり前回のは試していたのだろう。中央を厚くして、二列目のシャドウストライカーが最終ラインを崩しにかかる戦法。
キーパーとの一対一は、皐月が奇跡的にボールの勢いを殺すも、相手FWがきっちり押し込み先制点を許してしまう。
腹の底を、脳髄を揺らすほどの大歓声。
「——とく! 監督!」
眉をひそめた真賀田が俺を揺さぶる。
「大丈夫ですか? 顔色が……」
「あ、ああ。大丈夫」
「とりあえずの処置として、二列目の二人にはDMFで対応させることにしました。ワントップはCBがゾーンで対応を。他に指示はありますか?」
「いや、大丈夫。それで十分だ」
大丈夫なわけがなかった。
たった二手のやりとりだが、確信した。いや確信させられた。
手も足も出ないことを。
ゲームメイクの心美が封じられ、さらには守備の負担も掛かってしまう。
リーグ後半に入って、他チームが俺たちへの対策として取ったのは、ウイングに対しての徹底マークだった。フィニッシュかもしくはその一歩手前に絡む天才二人をねじ伏せるという戦術。しかしそれは二人の能力が
だが今回は、木の根っこからチェーンソーでぶった斬りに来ているのだ。
ウイングの二人にボールが出なければ、何もやらせてもらえない。
結城学が追い求めた天才の倒し方は。
天才にボールを与えない。
天才に至るまでの過程を全員で潰す。
一つの正解でもあった。また、俺が漠然と考えていた宮崎対策――引いてはイザベラ対策の解に近しかった。しかしそれはおおよそ全てのパスを読むことにも等しい。全員の戦術理解と守備意識が共有され、初めてなし得る神業だ。一つのミスも許されない。常人が選手に課せるものではなかった。
結城は狂気の域に足を踏み入れていた。
では、中盤の底から、幹の先に当てるという方法もあるが——。
由佳から香苗へのロングフィード。これを体格差で真穂に落とすも、セカンドボールをTGAが奪取。
「トライアングル警戒!」
真賀田が吠える。
FWへ入ったボールを二列目の選手が拾い、中央突破を阻もうと、ディフェンスラインが中へ絞ったのだが、相手はサイドへボールを散らした。
右サイドバックがオーバーラップしていた。
由佳はワンツーで振り切られ、クロスを上げられる。素早いパス回しによる修正する間を作れない中、中央でドフリーになった八番の選手がボレーシュートを決めた。
「こんな、まさか……ここまで」
守備的なチームが、守備力そのままで攻撃的なチームに変容していた。
守備ができるということはすなわち、攻撃のリズムを作れることにある。ましてやこちらが攻めこうもうとした際のしっぺ返しは陣形を立て直す時間が短く、スペースが多いのだ。
リスクを覚悟したアグレッシブな守備から生み出される超カウンター攻撃。それが、結城のたどり着いたサッカーの極致かもしれなかった。
「落ち着いて! 時間はたっぷりある! 遅攻で一旦立て直しを——」
中盤とサイドバックがオーバーラップからスペースを作ろうと動き出すが、
ショートパスサッカーで切り崩す。辛うじて一本、紬に入った。が、ハードな寄せが前を向かせてもらえず、仕切り直し——の、ボールを奪われた。
全部手のひらの上。
こちらのサッカーを操っていた。
三度目の猛攻はファウルで一旦途絶える。
「——不用意なファウルはいりません!」
命拾いしたとはいえ、カードは一番怖い。
彩香と芽はまだ累積が残っている。今日もらえば、次節欠場だ。
フリーキックを合わせてくるが、これは芽が弾き返して、真穂から紫苑に通った。弾けだした彼女はサイドバックを振り切ろうとするも、フェイントには釣られず、ハードな当たりで強引に奪いにきた。
「ファウル!!」
が、審判は笛を吹かない。
頭に血が上った紫苑が後ろからやり返して、これはイエローをもらう。
「皆んな、クールに!」
宮瀬も声を上げるが、相手の戦術に飲まれてしまった彼女たちは処理が半歩、いや一歩二歩遅れ始めていた。中盤で楽にパスを回され、また裏への飛び出しを許す。しかし、先を読んで飛び出した皐月が観客席まで届くフィードで弾き返した。
とはいえ、かなりリスクの高い飛び出しでもあった。ペナルティエリアを飛び出しての先読みは、下手をすれば三失点目は固かった。
いや、リスクを取らねば勝てない。TGAは読み間違いのリスクを放棄して前がかりな守備に出ている。攻撃的なイシュタルFCを防ごうと、点を取られる覚悟で点を取りに来ているのだ。
ちらりと相手ベンチを見ると、結城は不敵に笑っていた。
俺も、賭けないとな。
ロッカールームに引き上げてくる選手たちは、疲労以上に悔しさが滲み出ていた。前半の残りはなんとか食らいついて追加点は許さなかったものの、こちらは相手陣地にさえ踏み込めずにいた。TGAはシュート七本、支配率は八〇%を超える圧倒的な数字だった。だが、データ以上には取られずに済んでいた。この理由はなんだろうな、と考えていると、皐月が珍しく発言し、核心をついた。
「皆、恐れすぎじゃない? 後ろから見てて、そう怖い攻撃じゃないけど。シュートもミドルばっかりだし、きっちりコースを防げば、決定打にはなりにくいよ」
「でも、こっちのパスが全部読まれてすごくやり辛いわ」心美が返す。
カウンターの副作用か。
カウンターは相手の力を利用して跳ね返す、ある種、合気道的な攻撃だ。陣形を建て直す前に攻め込まれるので、情報処理が混線しがちになる。能力の高さよりも、判断ミスが致命傷になる。その隙を突いてTGAは確率お構いなしで打ってきているのだ。
裏を返せば、焦っているとも取れた。
「よし、後半、たっぷり時間を使って攻めよう。ディフェンスラインで安全策、安全策で回す。確実にスペースが出た時だけ攻めていこう」
「しかし監督、私たち負けてるんですよ?」由佳が食いかかる。
「負けるのは癪だが、このまま負けても、まだ得失点差で俺たちが二位を保てる」
三点以上は宮崎のことも考えると厳しくなってくるが。
「けどそれじゃあ優勝が——」
「二部のチームは優勝よりもまず自動昇格が優先だ。TGAは二位を奪おうと点を取りに来る。しかし俺たちが攻め気を見せなければ、前のめりで奪いに来る。だがトータルフットボールの辛さを君達が一番知っているはず」
「めっちゃしんどいねん!」
そう。ボールを奪うには走らなくてはならない。TGAは確かに守備の硬さはあるが、それは一人一人がエリアを担当するゾーンディフェンスにおいてだ。
今までTGAは全員守備をやってこなかった。もちろん、普段の練習でスタミナ強化は行っているだろうが、リーグの後半でいきなり走るサッカーをやって九〇分も持つはずがなかった。付け入る隙があるとすれば、そこだ。
こっちは年間、走りっぱなし。
そして残り二節を走り切る為の準備をしてきた。試合後の入念なマッサージも、そのため。
「なあ杏奈。ローマ教皇の選出選挙のこと、なんて言うか知ってるか?」
「普通に選挙ちゃうん? てかこんな時に何の話やねん」
「おーい、誰か博識な人。答えてぇ」
じと、と細い目を向けた由佳が「コンクラーヴェ」と答えた。
沈黙。
長い長い沈黙。
「親父ギャク! 根比べってか!?」
「その通りだ、杏奈。昇格をかけた根比べをしようじゃないか!」
「誰も笑わへんかったからって二度押しやめえや! って、真穂っちあんなんで笑うな!」
お腹を抱えていた真穂を捕まえて、
「向こうがロジックで読んでくるなら、こっちは魔法を使おう」
「ちょ、また親父ギャグ!」
「いやこれ、最初に言い出したん杏奈なんだけど」
苦しそうに笑いを堪えながら真穂はOKサインを出した。
「縦に入れるボールは全部真穂経由。真穂、君はできるだけ面白いことをしろ。失敗してもいい」
「根比べ的な!」
「ドアホ! それめっちゃ寒いやつやん! 失敗したやつやん! ——はっ、失敗に掛けてんのか!」
「杏奈ちゃん、面白いことやって」
「無茶振り! ウチはツッコミ担当なんやで!」
「え」
「え?」杏奈は愕然とした。「嘘やん……ウチ、ボケやったん?」
「全然」
「ぎゃー。真穂っちに騙されたぁーっ!」
といった感じで、後半戦に挑む彼女たちの表情からは硬さが取れていた。
「——やはり、あの二人が前に出るとチームが活気付きますね」
「空元気とも言うけどな」
「確かに。引き上げくる時の杏奈、監督と同じ死んだ顔してました」
「まじで?」
真賀田はペロリと舌を出した。
「コーチも冗談言うんだ……」
「監督が優勝を捨てるなんて冗談を言うからですよ」
「余計なプレッシャーを削いだだけさ」
そして、後半のホイッスルが鳴る。
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