第28話 信信

「今私が割ったのは偽者です。安全に死ねる薬の本物はこちらにあります」


 イーライさんが取り出したのは同じ形をしているが別の注射器だった。今度はケースではなく、ビニール袋に入っている。


 何が何だか分からず、ただ今まで大人の余裕と外国人の気さくさを兼ね揃えていたイーライさんが必死になっている事に俺はビビっていた。


「この部屋は監視されていて、時間が無いので簡単に説明します」

 イーライさんは椅子で押さえた扉を一瞥すると、注射器を袋から取り出しながら続ける。

「先ほどまで、あなたに注射しようとしていた物はチオペンタールナトリウム。いわゆる『自白剤』と呼ばれる代物です。自白剤は聞いた事ありますか?」


 曖昧に頷く。映画か何かで見た気がするが、こんな便利な物現実にあるのか? という疑問も湧いた記憶がおぼろげにある。


「自白剤を注射された人間の意識は混濁し、質問に嘘偽りなく答えるようになります。一種の催眠状態です。もちろん日本では、相手が犯罪者でも使用が禁止されている薬物です。進藤紗里さんに使うかどうかで揉めている間に彼女はグリーンボックスの中に行ってしまいました」

 日本らしいと言えばらしい対応だ。今更批判するつもりもないが。


「でもイーライさん。俺は別に嘘はついていませんよ。わざわざ自白剤なんて使わなくても……」

「ええ。私は信じています。ですが、上は違います」

 イーライさんより上。まあ、いるか。


「上の基本方針として、あなたをグリーンボックスに戻すつもりは無いようでした。もちろん、あなたの作戦が成功して、世界を取り戻す事は『最善』ではありますが、権力者が想定するのは『最悪』の方です。あなたが嘘をついていて、何らかの別の目的を持って戻り、グリーンボックスの中へと戻った時、再び破滅へと時計の針を進める。これが想定された『最悪』です」


 そう言われるとぐうの音も出ない。ドアをノックする音がした。


「ついさっきまで、自殺用の薬と偽って、今割った自白剤を注射するつもりでした。ですが、気が変わりました」

「どうしてですか?」

 尋ねる俺を、イーライさんは真剣に見た。

「あなたにはイデオロギーが無い。そう気づいたからです」


 ドアへのノックが止むと、体当たりする音が聞こえた。鍵とバリケードがあるとはいえ、そう長くは持ちそうにない。


「続きは後で。あなたが無事にグリーンボックスの中に戻れたらしましょう」

「分かりました」

 どの道、答えは最初から決まっていた。


 3回は進藤紗里。

 1回は世界。

 1回は俺自身。


 信頼の割り振りには少し変更が加わる。世界は広く、多様過ぎて俺には荷が重い。だから俺は、とりあえず目の前の男を信用する事にした。


「早く注射を」

 自分から腕を差し出す。イーライさんは慣れた手つきで、正確に静脈へと針を刺した。


 俺を殺す液体が注がれていく。


 イーライさんがドアに向かって銃を構え、英語で何やら叫んでいる。おそらく開けたら撃つとか、そんなような事だ。


 ベッドに寝転び、空を仰ぐ。


 もうすぐ俺は死ぬ。あと1分。


 グリーンボックスの中にいる進藤紗里が裏切ったら、俺はここで犬死にだ。イーライさんも報われないし、世界も遅かれ早かれ終わる。そして俺自身に生きようとする意思がなければ、いくら蘇生したって無駄だ。俺を1回、進藤紗里を1回。同時に信じなければならない。至難の技だ。


 ドクン。


 大きく心臓が波打った。思い出すのは、進藤紗里に殺されそうになった瞬間。

 あの時よりは、まだ少しだけ余裕がある。殺される為に死ぬのではなく、生き返るために殺されるからだ。

 とはいえ、この恐怖。


 巨大な鷲に心臓を鷲づかみにされたような感覚。思わず胸に手をあてて掻き毟るが、当然そこには何もいない。肋骨の裏側で、俺の心臓が止まっている。ただそれだけで人は死ぬのかと思うと、人生のあり方なんて些細な事のように思える。苦しい。助けを求める声が頭の中をスーパーボールのように跳ね回って、段々と勢いを無くして行く。


 朧な意識の外で、ドアを破って入ってきたスーツの人間が、死にかけの俺に銃を向けているのが見えた。そいつらに向けてイーライさんが銃を向けて、必死で止めてくれている。何か互いに叫んでいるようだが、音が聞こえない。目も段々と霞んできた。


 ああ、これが『死』なのか。

 俺が今まで世界に与えてきた物なのか。


 ……。


 …………。


 ………………。


「起きて、瀬名君」


 声が聞こえた。聞き覚えがあるが、それはただの音であり、意味を持たない。


「眠いなら寝ていていいけど、とりあえず何か言ってみて」


 進藤紗里だ。誰かは分かったが、まだ何を言っているかが分からない。耳に脳がついていっていない。寝ていい? なら寝よう。すごく眠い。


「おーい、瀬名君。生きてる?」


 夢に落ちそうになった所で、肩が揺らされて俺は反射的に何かを口走った。


「信じた」

 何でそんな事を言ったのかは分からない。ただ、1番言いたかった。

「そうね。ありがとう」

「信じた」


 うわごとのようにそう何度か呟き、目を開ける。

 グリーンボックスに俺は戻ってきた。

 目を閉じる。

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