第3話 極限状態

 ネット上にある情報によれば、ジンバブエで起きた大量死事件は、発生から5時間が経った今でも原因が不明で、ジンバブエ政府とも一切の連絡が取れないらしい。国外に滞在中だった政府関係者の話によれば、要人のみならず家族、友人も消息が分からず、国境ではジンバブエの領土に1歩でも踏み入れた人間が死亡するという事件も相次いで起こっており、周辺各国はパニックに陥っている。


 そして同じ現象が、時間差でボツアナでも発生し、米軍は調査の為の部隊を派遣する事を発表した。


 何人もの専門家が意見を述べたが、それぞれ専門も違ったし意見も違った。全く未知の病原菌によるパンデミック。突発的な核攻撃での大量虐殺。ハッカー集団が情報を混乱させている。などなど。しかしそのどれもが憶測の域を出ず、整合性に欠けた理屈だった。


 それもそうだ。人類の長い歴史上、国が滅ぶという事自体は何回もあるが、ある日突然国民が全員同時に死んだなんて事はない。そして国土が進入禁止になる事もない。全くもって人類にとって未体験の、まさに「緊急事態」だった。


 そして規模こそ違うが、俺は俺でこの緑色の部屋の中で、「緊急事態」を迎えていた。2つの異なる要求に、肉体が悲鳴をあげている。


 1つは、喉が渇いたという事。

 もう1つは、おしっこを出したいという事。


 世界が危機的状況を迎えている最中、なんてちっぽけな事なんだと思われるかもしれないが、生物である以上生理的な反応を止める事は出来ない。生きていれば何かを口にし、何かを出すのは当然の事だ。


 まだ前者の渇きに関しては、あと数時間なら我慢出来なくもない。しかし後者の小便は、もう今すぐに漏れ出してもおかしくない状態だ。事実俺は先ほどからずっと内股で、寝転がっている。


 トイレが欲しい。思い浮かぶのは自宅にあるウォシュレット付きの水洗便所だ。トイレさえあれば、大でも小でも好きなだけ出来るし、最悪だがタンクの水を飲んで喉の渇きを癒せる。


 だが、国1つだぞ。


 俺がただ用を足して、ただ水を飲むだけで国1つを生贄に捧げなければならない。


 でも、じゃあ、俺が死ぬか?


 今の所、警察はおろか実の親や友達でさえこの状況を信用してくれていないが、この喉の渇きや、いずれやってくる空腹は紛れもなく現実だ。誰かが見つけてくれれば助かるが、まず探してももらえないのにどうやって見つかるっていうんだ。


 仕方がない。それに……。


 俺は文章を改めて読む。


『当たりなら解放』


 解放というのはおそらく、俺をここから出すという意味と受け取っていいだろう。であるならば、これはある種のゲームだ。俺が当たりを見つけられるか。当たりボタンを押せるかというルールの、訳わからんつまらんゲームだ。


 当たりと漠然と言われてもさっぱり見当はつかない。俺が日本人だから日本か? あるいは、好きなバンドがいるイギリスか? ハリウッド映画をよく観るからアメリカか? 何の根拠もない。はずれでそれらの国が滅びる方が最悪だ。


 いや、どの国だって、滅びるなんてのは最悪だ。たまたま最初に押したのがジンバブエで良かったなんて微塵も思っていない。ジンバブエにだって人は沢山いて、それぞれの人生を生きていた。この部屋の仕掛けはそれを奪った。


 限界だ。もう漏れる。


 気づくと俺はネットを使って、人口の少ない国について調べていた。世界で1番人口の少ない国、それは『バチカン』だ。領土はイタリア国内にあり、人口は809人。ジンバブエの1200万人に比べれば遥かに気が楽な数字だ。


 しかしバチカンには教皇庁がある。ローマ法王がいる。俺はそうではないが、キリスト教信者にとってはこの世で1番大切な場所なんだろう。


 でも、人の命は平等なはずだ。どうせ殺さなければならないなら、人数は少ない方がいい。


 俺はイタリアの中にある、小さな小さなボタンに小指の爪を当てた。


「すみません。すみません。仕方ないんです」


 誰に言うでもなく、ぶつぶつと呟く。


 ぐっとボタンを押し込む。……が、指は震えて進まない。押せない。こんな部屋、信じちゃいなかった先程とは違って、809人の命は指先に乗せるにはあまりに重すぎる。


「だ、駄目だ……」


 そして俺は高校生にもなって小便を漏らした。誰にも見られていないのは不幸中の幸いか。それとも誰も見ていない事が不幸その物か。


 それから、1日が経った。


 糞尿のある部屋で悪臭に耐えながら、喉が渇いて眩暈を起こし、腹はぐるぐると騒音をたてる。


 限界だった。助けはこない。スマホの電池も切れた。その直前になって唯一母親がようやく俺の言っている事を信じてくれて、警察に行ってくれたみたいだが、今となってはその結果も分からない。助けはきっと、来ない。


 でも考えてみろ。俺が死ねば、世界の人々は救われる。既に押してしまったジンバブエとボツアナの人々には申し訳ないが、これ以上の被害者は出ない。上等じゃないか。世界を救って死ねるんだ。最高とまでは言わないが、俺は英雄だ。


 さよなら。


 …。


 ……。


 ………。


 …………。


 嫌に決まってるだろ。馬鹿か。こんな事で死んでたまるか。


 ようやく理解した。


 俺1人の命は、俺以外の世界の命より重いんだ。


「水洗のトイレ」


 カチッ。


「電源とスマホのケーブル」


 カチッ。


 壁に電源だけが現れた。「と」は駄目か。複数の物は分けて頼まないといけないらしい。


「じゃあスマホのケーブル」


 カチッ。


「非常食」


 カチッ。


 あっという間だ。これで俺は名前も知らない4つの国を滅ぼした。


 もう、後戻りは出来ない。

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