6 イヴの涙とサンタクロース

15 イブの涙とサンタクロース1

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 それは突然やって来た。

 楽しみに待っていたこの日はクリスマスイブ。学校は終業式だけだから昼前には終了で、夜は田所も呼んで我が家でクリスマスパーティーを開催する予定がある。プレゼントの用意はばっちりでケーキだって準備万端! 家に帰ったら仕上げをして、ご馳走だって作っちゃう。

 学校が終わり、うきうきそわそわした気分でオレは華と手を繋いで帰路につく。クラスメイト達と「良いお年を」なんて挨拶を交わしながら校門を潜り、そこで、いつもと違うものを見つけたんだ。

 校門前に停まっている一台の車。シルバー色の高級車。

 学校周辺では見掛けない車種で、生徒の親が迎えに来たんだとしても校門前に停車してるなんて事は珍しい。運転席から校門がよく見えるだろう位置で停車していて、まるで誰かを探してるみたいだなって、思った。

「パパ」

 華が落とした呟きを拾ったオレの思考が、停止する。

「パパって……え? あの車?」

 華が向ける視線の先にあるのは校門前に停まった高級車。

「パパが、いる」

 繋いでいた手をぎゅっと、握られた。その手から華の動揺が伝わって来て、一瞬止まったオレの思考が動き出す。

 田所からは何も聞いていない。連絡も来てない。田所が報告してから一カ月。一人暮らしの娘の部屋に男が出入りしていると知った父親としては、行動が遅いくらいなんじゃないかな。

「華。オレも一緒に、パパと会っても良い?」

 パパは華に会いに来たのかな? でも華に会うだけなら直接家に行けば良いんだし、校門前で待ってるって事はもしかしたらオレを探している可能性だってある。どちらにしたって一緒に行った方が話は早いし、オレも華のパパには用がある。

「華? ……大丈夫?」

 車を見つける前まではほんのり柔らかな表情だったというのに、今の華はちょっと前までお馴染だった無表情。繋いだ手に込められた力は増すばかり。まるで「独りにしないで」と言われているみたいだ。

 心配になって顔を覗き込むと、オレを見上げた華は微かに表情を和らげる。

「秋がいるから、大丈夫」

「うん。側にいるよ」

 独りになんてしないよって意志を込めて華の手を握り直し、誓うようにおでこへキスを落とした。

 校門を出てすぐの所で立ち止まっていたオレ達は、進行方向を変えて足を踏み出す。向かう先にはシルバー色の高級車。運転席には男が一人いて、近付くオレ達に気付くとドアを開け車から出て来た。華のパパは五十二歳だと聞いていたけど、その男は五十代には見えない。短く清潔に整えられた髪は真っ黒で、筋肉質ですらりとした体形。四十代前半だと言っても誰も疑わないだろう色男。

「君が、寺田秋くんかい?」

 華のパパが華へと視線を向けたのは一瞬で、真っ直ぐに視線を向けた相手はオレだった。パパの声を聞いた瞬間、華の手がひくりと揺れる。繋がっていないと気付けそうにない、微かな動揺。オレは繋いだ手に優しい力を込めて、目の前に立つ男を見返した。

「はい。はじめまして。華さんとお付き合いしています、寺田秋です」

「君の事は田所から聞いている。私は、その娘の……」

 父親だと名乗る事を、何故か華のパパは躊躇った。

「……父親、だ」

 視線を彷徨わせてからの自信が無さそうな名乗り。華のパパは繋がっているオレ達の手を見て、華の顔を見ようとした視線が怖気づいて逃げ出しオレへと向けられる。

「少し、時間を貰えるかな?」

 華のパパは、華に話し掛けない。視線が華から逃げている。

 パパの服と靴を大事に持っていてずっと待っていたはずの華も、何にも感じていない風を装った無表情をパパへと向けている。

「大丈夫です」

 どうしてこの二人は……どこでこんなに、拗れてしまったんだろう。

 華のパパから車に乗るよう言われて、華と一緒に後部座席へ乗り込んだ。行き先を聞いたら近くにあるホテルのラウンジへ向かうつもりだという答えが返って来て、オレは内心で首を傾げる。ここから華の家はすぐそこだ。徒歩でもあっという間に着く場所に家があるのに、どうしてわざわざホテルになんて行くんだろう?

「華の家じゃダメなんですか?」

 素直に疑問を口に出すと、華のパパはバックミラー越しにオレを見た。

「駄目、という訳ではないがね」

「今はあの家、キレイですよ」

「……そうらしいね」

 それ以上の言葉は返って来なかったけど、車が行き先を変えたのがわかった。だからオレは口を閉じ、隣に座っている華の様子を窺う。そこにいるのは、無表情で無関心で無言の、少し前までの華だ。だけど本当の華は表情がない訳でも、関心を示さない訳でも、話すのが嫌いな訳でもない事をオレは知っている。視線を俯けてキレイなお人形みたいになってしまった華と繋がっている手の親指で、そっと手の甲を撫でてみた。華の瞳がオレを見上げたけれど、表情が強張っている。何て言葉を掛けるべきか、どんな表情を浮かべるべきなのかがわからない。オレはただ黙って手を握り直し、華の心が解れるようにと願いながら微笑み掛ける事しか出来なかった。

 誰も、何も言葉を発さないままで車は華のマンションの駐車場へと入って行く。滑るように停車した場所は、この前出掛けた時に田所が停めていたのと同じ場所。きっとここは華の家用の駐車スペースなんだろうなと考えながら車を降りた。

 エレベーターの中でも父娘は無言で互いを見ない。そんな中で一人べらべら喋る訳にもいかなくて、オレも黙って華に寄り添い玄関の前までやって来た。鍵は、きっと三人共持っている。だけど誰も取り出さず、華はオレと手を繋いだ状態で動かない。華のパパはちらりと華を見て、困った様子で固まっている。鍵は持っているけどここはオレの家じゃない。華だけならともかく父親が一緒の状況でオレが鍵を開けて招き入れるっていうのも変だろう。だけどそうして迷っていたらきっと、時だけが無駄に過ぎちゃうような気がした。

 この父娘にはもしかしたら、お節介な誰かが必要なのかもしれないって、感じたんだ。

 どう振舞うべきかを決めたオレは、学校鞄の中から鍵を取り出し開錠した。玄関のドアを開けると華を先に中へ入らせてから振り向き、家主であるはずの華のパパを招き入れる。

「スリッパはないのでそのまま上がって下さい」

 オレの家ではスリッパを履くなんて習慣がないから忘れていた。今度から来客用に置くべきかななんて考えて、とりあえず保留にする。さっきまでは緊張して戸惑っていたけど、いつも通りに振舞おうと決めてからは気が楽になった。勝手に始めた事だけど、ここの家事をしているのはオレだ。

「飲み物、インスタントコーヒーと牛乳しかないですけどコーヒーで良いですか?」

 気にしないで良いと言われたけど、オレは台所へ入って飲み物の用意をする。緊張を解すには温かい飲み物があった方が良いと思うんだ。緊張の所為なのか、繋いだ華の手が冷えきってる。

 お湯と牛乳を沸かしている間、華はオレのお腹へ両手を回して背後にぴたりと張り付いていた。いつもなら危ないから離れて座ってるよう言うんだけど、今日は特別。今は離れているのはダメなんじゃないかなって、思ったから。華のパパは立ったままで華の絵を眺めている。クリスマスツリーの絵は壁に立て掛けてあって、イーゼルにはまだ全貌が見えていない描きかけの絵。対面式キッチンから見えるのは背中だけで、華のパパがどんな表情を浮かべているのかはわからない。

「口に合わないかもしれないですけど、どうぞ」

 コーヒーの入ったマグカップを机に置いてから声を掛けた。

 誰よりも先に床へ座ったオレは、華の手を引き脚の上へ座るよう誘導する。華のパパもオレらの向かい側に腰を下ろし、ここで初めてちゃんと、華を瞳に映した。

「それで……話、あるんですよね?」

 胃の底の方から湧き出て来そうな緊張を、熱いコーヒーを啜る事で飲み込む。

「君は、娘の絵の事も家庭の事も、知っていると聞いている」

 オレの脚の上に座ってホットミルクを飲んでいる華を見ていた華のパパが言葉と共にオレへと視線を移し、マグカップを手に取りコーヒーへ口を付けた。微かに眉が顰められて、口に合わなかったらしいとオレは察する。華のパパって金持ちだから、インスタントコーヒーなんて物普段は飲まないのかもしれない。

「画風が変わったのが君のお陰なのだと報告を受け――会ってみたくなったんだ」

 予想していたものとは百八十度違う台詞に呆気に取られ、オレは目を瞬いた。一人暮らしの女の子の家に出入りしている事とか、家庭の事情に首を突っ込むなとか言われて怒られるもんだと思っていたのに、目の前にいる人の顔に怒りの色は見当たらない。視線を彷徨わせ、華を見て、本人に気付かれる前にすぐに逸らしてコーヒーを啜る。その様子から窺えるのは戸惑いで、嫌悪や拒絶は存在しない。

 やっぱりこの人は、華に対して無関心な訳じゃないんだ。

「今日、うちでクリスマスパーティーをやるんです。狭いボロアパートなんですけど……良かったら来ませんか?」

 この二人にはもっと、一緒に過ごす時間が必要なんだと思う。だけど二人きりではどうにも前に進めなくなっていて、だからこそこうして離れ離れの時間が長くなっちゃったんじゃないかな。

「私が行っては、折角の楽しい空気に水を差す事になってしまうよ」

 苦い笑みを浮かべて首を横に振った華のパパ。だけどオレは食い下がる。

「実は田所さんも来るんです。家族でのパーティーで……あの、クリスマスって家族で過ごすものですよね? だから一緒に、イチゴのケーキを食べましょう!」

 躊躇う華のパパを無理矢理誘って頷かせた。本当に嫌なら断固拒否だって出来るのにそうしなかったのは、華のパパだって華と過ごしたいのかもしれないなんて都合の良い願望を抱いてみる。

 人数の変更を電話で母親へ連絡したら、「気合を入れるから時間を稼げ」なんていう指令を出された。学校は昼前で終わりだったから弁当なしで、昼飯は家で食べるつもりだったんだけどな……と思いつつ、了解の返事をして電話を切る。

「華、お腹空いたよね?」

 華のパパの前で電話するのは躊躇われて、玄関に移動して電話していたオレのお腹へ貼り付いていた華を見下ろすと小さな頭が縦に動いた。

「オレと華は昼飯まだなんですけど……昼飯、食べました?」

 お腹から背中へ移動した華と一緒に絵の部屋へ入り、オレはちょっとした問題にぶち当たる。華のパパの事、なんて呼べば良いんだろう? おじさんって呼ぶと失礼かな? でもお父さんってオレが呼ぶのも変だよな。自分の母親の事だって滅多に「母さん」だなんて呼ばないのに、他人の親をお父さんって呼ぶのは何だか恥ずかしい気もする。苗字だと、華だって「東さん」だしなぁ……なんて事を悩みながらも華のパパと会話して、昼飯はまだだっていうからオレの作った物で良かったらどうぞと誘ってみた。

 心の中では華パパと呼ぶにしても実際呼び掛ける時にはどうしよう問題を抱えつつ冷蔵庫の中身を確認して、フレンチトーストを作る事に決める。華が元気になってくれるようにとびきり甘いやつ! スライスしたリンゴとバナナに砂糖とレモン汁を加えてバターで焼いたものをジャム代わりに、焼きたてのフレンチトーストの上にかけてみた。

「夕飯がご馳走の予定なので軽い物にしておきました」

 フレンチトーストが乗った皿を机に置くと、華パパの表情が綻んだ。

「ありがとう。とても美味しそうだ」

 淹れ直した飲み物も机に置いてオレが座ると、華がオレの脚の上に腰を下ろす。この姿勢の時には自分から食い物に手を伸ばそうとしないから、仕方ないなぁって笑いながらオレは華の口元へフォークに刺したフレンチトーストを運んだ。

「美味しい?」

 後ろから顔を覗き込むと華が、微かな笑みを浮かべる。

「秋のご飯は、全部美味しい」

「ありがと」

 いつもするように頬へキスしてから、華のパパの前だった事を思い出して焦った。ずっと無表情だった華の顔がやっと綻んだ事にほっとして、オレの緊張の糸も緩んじゃったみたいだ。焦りつつ向けた視線の先では華パパが、目を見開いた驚愕の表情を浮かべている。少し前に田所もここで同じような表情をしていたなって頭の片隅で考えて、どう反応したら良いのかわからず、自分も食べつつ華にもフレンチトーストを食べさせ続けた。

「あの……冷めますよ?」

 このまま放っておいたらいつまでもそのまま動きそうになかったから声を掛ける。だけどその言葉の効果は、想定外の方向へ働いた。

 ぽろりと、華パパの目から涙が零れ落ちる。

「ほ……本当に、君の手料理なら食べるんだね。華が――食事して笑って、話したっ」

 言葉の途中にも涙は溢れて落ちて、堪えきれなくなった華パパは片手で目元を覆って俯いた。だけどすぐに顔を上げると華を見て、流れ出る涙の所為で塞がれる視界を何とかしようと手で拭うけど、追い付かないくらいに涙は溢れ続ける。見兼ねてオレがティッシュの箱を差し出すと、涙声でお礼を言った華パパは涙を止める事に専念しようと決めたみたいだ。

 鼻を啜る音と何度もティッシュを取り出す音。オレは、大人の男が声も無く泣き続ける姿を見ながら飯を食うという珍しい体験をした。

 華とオレが食べ終わる頃にやっと涙は落ち着いて、泣いた後遺症で溶け出しちゃいそうな鼻と目と格闘しながら華パパはフレンチトーストを食べる。美味しいと感想を言おうとして、だけど言葉を発しようとすると涙まで出て来ようとするみたいだ。涙の気配はコーヒーで飲み込みつつ、美味しいを繰り返しながら食べていた。

「華は、今でも黒猫が好きなのか」

 食器を片付けようと立ち上がったオレの耳に、小さな呟きが届いた。独り言で事実を確認したような、そんな呟き。華パパの視線は寝室の箪笥の上に置いてある黒猫のぬいぐるみへ向けられている。二人でゲーセンへ行った時にオレが取ったやつだ。

「好きみたいですよ、黒猫。何か思い出があるんですか?」

 食器を片付けるのは後回しにして座り直す。華パパは昔を懐かしむ表情で目を細め、口を開いた。

「昔、二人で飼っていたんだ。脱走していなくなってしまったけれど。華はその時酷く泣いてね。名前は……何だったかな」

「――イチゴ」

 華の答えにオレはぶはっと噴き出した。またイチゴだ。イチゴ最強。

「猫の名前までイチゴにしてたの? 華は本当にイチゴが大好きなんだな」

 笑いながらオレは華の髪を撫で、華はこくんと頷いた。

「イチゴ大好き」

 鼻を啜る音がして、気付いたらまた、泣いている。

「華は今でもイチゴが好きなのか」

 今度は嗚咽を堪えられず、華のパパは両手で顔を覆って俯いた。

 オレは何も言わず、空になった食器を持って立ち上がる。華はオレの背中にぺたりと貼り付いて一緒に来た。洗い物が片付く頃には華パパの涙も何とか落ち着いて、そろそろ良い頃合いかなと時間を確認して考える。時間稼ぎの任務は果たしたはずだ。そろそろ行きましょうかというオレの提案に頷いた華パパは、顔を洗う為洗面所へと向かった。



※本日、全部で三話投稿します※

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