8 あなたがいる景色2

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〈やばい。持って行く人に遭遇! 母親に会いたいって。明日四時半華の家集合!〉

〈それやばい! 身辺調査? 母、気合い入れなくちゃ! 四時半了解(*^^)v〉


 バイト終わって華のマンションに行ったら、自動ドアの前で待っていた母親は確かに気合いが入ってた。出掛ける時用のベージュのダウンコートの下は、オレが去年デートでも行って来いと言って買ったダークグリーンのワンピース。ベージュのストッキングにヒールの高い黒のパンプスを合わせて、鞄も外行き用の黒革鞄。この鞄は、初めてのバイト代でオレが買ったやつだ。化粧もバッチリ。髪もシンプルなコームで夜会巻きになってる。

「若返ったな」

「まだまだイケる?」

「イケるイケる。三十代に見える」

 母親はまだ四十四歳だけど普段はほとんど化粧しないし、うちにいる時はスウェット姿。仕事の時にはジーンズを履いて出掛ける事が多い。だけど今目の前にいる母親は綺麗なお姉さん風だ。息子の贔屓目で見なくても美人だと思う。

「さぁ決戦よ! 気合い入れるわよー」

 お前は何と戦うんだって思ったけど、黙って鍵を出して自動ドア開錠した。

 エレベーターの中で昨日の事を簡単に説明する。持って行く人と親子丼を一緒に食ったって言ったら羨ましがられた。オレが華の家に泊まると一人飯になるから寂しいんだって。それは確かに悪いなと思う。今度何かで埋め合わせでもしてやるか。

 エレベーターを降りて華の家の玄関開けると持って行く人の革靴が揃えて置いてあったから、もう来てるみたいだ。絵の部屋に続くドアを開けて見えたのは、昨日と同じで華の背中。でも今日は、絵が完成してる。

「秋、おかえり」

 絵に見入っていたら華が振り返って、笑った。

「ただいま、華」

 笑みを返したオレに絵の具だらけの華が駆け寄って来たから、両手でほっぺ包んで唇を触れ合わせる。

「華、この絵、オレがいる?」

 完成してる絵は、体育の授業のマラソンコース。葉が色付いた木が両脇に並んだ並木道。落ち葉が絨毯になったそこは、オレが華を追い越すのに肩を叩いた場所だ。人は描かれてない風景画だけど、オレがいた景色。

「秋、いるよ」

 ふんわりした笑顔に胸が甘く痺れて、華が絵の具だらけなのも忘れてぎゅうっと抱き締めた。

「この絵も、好きだ」

 ぎゅうぎゅう抱き締め合う華とオレの横で、母親も微笑んで絵を眺めてる。最近の華が描く絵は温かい。見ていて幸せな気分になる。

「田所さん、お待たせしてしまってすみません」

 抱き締めていた華を放して、気配消して観察モードだった持って行く人に向き直った。

「オレの母親です」

「初めまして。秋の母です」

 母親がにっこり外行きの表情と声で挨拶する。けど、反応がない。どうしたんだろうと思いながら持って行く人をよく見てみたら――もしかしてこれ、母親に見惚れてないか? 表情のわかりにくい人だけど、眼鏡の向こうの瞳が母親に釘付けになってる気がする。

「失礼致しました。あまりにもお美しく、こんなに大きなお子さんがいらっしゃるように見えなかったもので些か驚いてしまいました。お嬢様の父上の会社で秘書をしております、田所と申します」

「まぁ、お上手な方ですのね」

 立ち上がった持って行く人が懐から名刺入れを出して、名刺を母親に差し出した。

――AZUMAホールディングス秘書課課長補佐 田所透――

 母親の肩越しに覗いた名刺。書いてある肩書きとかはよくわかんないけど、この人の下の名前がわかった。

「華ちゃんのお父様、絵を売るお仕事をなさってるんじゃなかったかしら」

「そちらは社長の副業のようなもので、趣味に近いものです。ところで、下のお名前を伺っても宜しいでしょうか。お母様とお呼びするにはまだまだお若い」

「あらあら、もう四十過ぎているのでお母様で構いませんわ」

「まさかそうは見えません。私よりも若く見えます」

「あら、田所さんはおいくつなのかしら?」

「三十五です。どうぞ私の事は透とお呼び下さい。寺田様の下のお名前、お聞かせ頂けますか」

 何故だか母親が口説かれ始めた。三十五より下に見えるってどんだけだよってツッコミたくなるから大人は大人に任せて、華の手を引いてオレはその場を離れる。冷蔵庫開けて、昼飯に食べるかなと思って作っておいたサンドイッチが手付かずで残ってるのを確認する。

「華、お腹空いた?」

 オレの背中に張り付いてる華に聞いたら頷きが返ってきた。

 華を背中に張り付けたまま冷蔵庫からサンドイッチを出して、飲み物の用意をする。二つのマグカップにはコーヒーを淹れて大人二人に。ホットミルクは一つで華とオレが一緒に飲む用。マグカップ、三つしかこの家に置いてないから足りないんだよな。

「どうぞ」

 持って行く人と母親の前にコーヒーを置いて、オレはさりげなく母親に視線を送った。なんだか自身満々の様子で「任せとけ」って顔をしてるから任せよう。

 台所にホットミルクとサンドイッチを取りに戻って、両手に持って絵の前に行く。ずっと背中に張り付いてた華はオレが座ろうとしたら離れて、胡座をかいたオレの脚の上に座った。

 新しく出来た絵を眺めながら華の口にサンドイッチを運びつつ、オレはホットミルクを飲む。背後から聞こえる会話では、持って行く人の歯が浮くような口説き文句を母親が受け流しながらも仕事の事、華の父親の事を聞き出してる。母親は下の名前を教える気がないらしく、のらりくらりと躱してる。オレが知る限り親父一筋で、デートとか行ってるのを見た事ない母親。綺麗な人だし、実は口説かれ慣れてるのかもしれない。躱し方が上手い。

「――秋、華ちゃん。うちで夕飯食べるわよ」

 サンドイッチもホットミルクも空になって、バイトで疲れてたオレは華を抱き締めながらうとうとしてたみたいだ。そんなオレの後ろから母親が掛けてきた声で、微睡みから引きずり出される。

「田所さんもうちで召し上がるって仰ってるから、買い物して帰るわよ」

 どうしてそうなった? うとうとしてる間に陥落したのかと疑いつつ、母親と持って行く人を見る。母親は普通の表情だけど、持って行く人は眼鏡の奥の瞳を蕩けさせて母親を見てる。まるで別人だ。どうやら陥落したのは持って行く人らしい。

「どうせ報告するなら華ちゃんがよく来るうちも見てもらった方がわかり易いでしょう? その内お嫁にもらうんだから、お父様にも良い印象を与えなくっちゃ!」

 いつの間にか華は嫁決定みたいだ。オレに異論はない。出来るならすぐ結婚しちゃいたいくらい華が好き。

「華、起きて」

 いつの間にか華も一緒に寝てたみたいだ。オレに身を預けて眠っている華を揺り起こす。

「秋、眠い」

 華がぐずって首に腕を巻き付けてきた。

「お嬢様は、秋くんには完全に心を許しているのですね」

「そうですね。私の事は、秋の母親だから華ちゃんは懐いてくれたんだと思います」

「いえ、それはきっと寺田様の人柄がなせる業なのではないでしょうか」

 おいおい、いつの間にか秋くん呼びかよ。未亡人に恋ってありか? 持って行く人は指輪してないし、恋人もいないのかな。クール系イケメンだけどクールすぎてモテないとかか? 確かに昨日会った時、絶対零度の視線ってこの事かって思ったもんな。

「秋、華ちゃんの目が覚めたらで良いから後からいらっしゃい。先に買い物して帰って夕飯作っておくから」

「そうですね。荷物は私がお持ちします」

 華を抱き締めたままでくだらない事を考えていたら勝手に話が進み始めて、ちょっと焦る。

「あー……それはまずくないか?」

 捕食者の目をしてる男と母親を二人にして大丈夫なもんか悩む。いくら母親が大人であしらい慣れてるとはいえ、家の中で二人になるかもしれないのは危ない気もする。

「華、華起きて。うち帰って寝よう? 着替えて」

「いや。眠い」

 これは、ダメだ。昨日はあの後もずっと絵を描いてて、仮眠だけ取ってさっきまでずっと描いてたんだろうからよっぽど眠いんだと思う。

「秋くん、お母様の事は任せて下さい」

 任せらんねぇその目をやめろっ!

 母親が新しい恋とかしても良いけど、相手が九つ年下でも全然構わないけど、すげぇ心配。この人いざとなったら強引な気がする。にっこり笑ってるけど目が笑ってない。瞳がギラついてる! 危険人物!

「今日はやめない? 華はこうなったらしばらく起きないし……」

「そうねぇ。無理矢理起こすのも可哀想だし、今日はうちだけ見てもらおうかしら」

「いやいやいや! それもまた今度、オレが家にいる時にしよう。田所さん、報告って急ぎます?」

 母親は自分を過信してるのかもう枯れてるとでも思ってるのか、警戒心が足りない。だからやっぱり今日はやめさせよう。

「なるべく早い方が良いですが、急ぎという程でもありません」

「なら木曜。木曜は仕事何時に終わりますか?」

「十八時には終わらせます」

 即答。絶対いつもはそんな早く終わってないんだな。

「なら木曜に。住所教えるので、直接うちに来てもらっても良いですか? 夕飯もその時で」

「それで構いません」

 よし! とりあえず今日は回避。母親に持って行く人とした話を詳しく聞いて、注意を促しておこう。それでも母親が選ぶとかなら好きにしたらいい。

 持って行く人は母親を名残惜しげに見ながら帰って行った。決戦は延長戦に突入だ。

「で、口説かれながらどんな話したの?」

 母親が濡らしてきてくれたタオルで、腕の中で完全に寝ちゃった華の絵の具を落としながら聞いてみる。

「そうねぇ、結構色々聞いたわよ。やっぱりスパイって女が良いのね!」

「自分の身を守れるなら良いけど完全に狙われてたじゃん。その気あんの?」

 隣に座った母親は、笑って首を横に振った。

「私は秋と華ちゃんに孫を期待してるわ」

「気が早ぇよ。……あの人稼ぎ良さそうじゃん。新しい相手見つけたって、親父は怒らない」

「んー……そうねぇ。章人さんなら、きっと秋と同じ事言うわ。むしろ前に進めって怒られそう」

 困った感じのこの顔は、こういう話をすると毎回母親がなる顔だ。今までも何回かしてきた話。でもいつも同じ台詞を言う。多分、今も。

「だけど私、章人さんを今でも愛してるの。あの人以外、いらないわ」

「そっか」

 いなくなってから十四年。それでも母親は、親父を愛してるって笑顔で言いきる。一人の人間を、もう会う事なんて絶対出来なくなった相手をこんなに一途に思い続けるなんてどんな気持ちなんだろうって、母親を見てるとよく考える。だけどこれは多分、経験しないとわからない事なんだろうな。

「華ちゃんのパパは負けちゃったのね。もう会えない、似てても違う存在を見てるのが怖くなったのかもしれないわ」

「経験者は語る?」

 優しい顔で笑って華の頭を撫でながら、母親はそうねと呟いた。オレも親父に似てるから。それって、怖くて辛い事なのかな。

「そんな顔しないの。私は、秋がいてくれたから立っていられたわ。あんたがいてくれなかったら多分、あのまま駄目になってた」

 母親の悲しみとか、辛さとか、想像してもよくわかんない。オレの記憶の中の母親は、いつも笑って前を向いていた。

「オレ、親父と母さんの息子で良かった」

「やだもう泣かせる気? やだ、もう……」

 声震わせた母親が肩に顔を埋めてきたから、そのまま放っておく。母親が顔を埋めた肩のシャツは、温かい涙で濡れた。


 泣いて腹が減ったって母親が言うから、冷蔵庫にある物で適当に飯を作る。母親はワンピースが皺になると言って、オレが華の家に置いてる部屋着に着替えた。華はベッドで爆睡中。全く起きる気配なし。

「それで、華のパパは再婚したの?」

 飯作りながら聞いた話によると、田所さんが知ってるのは華が中学に上がってかららしい。ここで一人暮らしをしてる社長の娘の様子を見て、絵を回収するよう上司に言われたんだって。

「そうみたいよ。でも再婚相手とは離婚して、パパはずっと海外にいるみたい。滅多に日本には帰って来ないんですって」

「ふーん。なら再婚相手がママを黒くする人で、華にトラウマ植え付けた人って事だよな」

「そうなるわね」

 作った丼飯を机に置く。冷凍しておいた豚肉で作った豚丼だ。

「華ちゃん、田所さんが話し掛けても全く反応しないしずっと無表情だったんですって。だから秋と会話して笑ってるのを見て、すごく驚いたって言ってたわ」

 豚丼頬張りながらの母親の言葉で、昨日あの人が浮かべた表情の理由がわかった。もしかしたら、話を聞きたくて待っていたのは良いけど華に無視され続けて困ってたのかも。

「でもさ、華に敬語と挨拶の仕方教えたのってあの人だったんだろ? 無反応なのにどうやって教えたんだろう?」

「あぁそれね、反応がなくても何回も言い続けたらしいわ。個展へ連れて行くのに挨拶が必要だったから、刷り込めば覚えるんじゃないかって」

 あの人も苦労したんだな。刷り込みは成功して、華はちゃんと挨拶が出来るようになってるから無駄じゃなかった訳だ。

「でもさぁ、いくら仕事とはいえ五年もここに通って、あの惨状も飯食えないのも知ってて放っておくなんて冷たくねぇか?」

 納得出来ないって顔して言うオレを見て、母親が苦く笑った。

「それはね、仕方ないのよ。雇われてる会社の社長のお嬢さんよ? 下手に口出しや余計な事をして、不興を買ったら仕事を失うかもしれないんだもの。下手な事は出来ないもんよ」

 大人の事情ってやつなのかな。でもオレは、納得出来ない。

「秋が納得出来ない、それでもオレなら助けるって思うならそう行動しなさい。でも、みんながみんなそれを出来る訳じゃないのよ」

「……そういうもん?」

「そういうもんよ」

 オレは豚丼を掻き込んで完食して、食器を片付ける為に立ち上がった。世の中色々だよなって、無理矢理納得する。

「田所さん、他には華とパパの事何か知ってた?」

 食器をシンクで水に浸けてから戻って聞いたら、母親はそうねぇって呟きつつ頬に右手を当てた。

「パパの年齢は五十二歳。大きな会社の社長さんで、趣味は美術品を集める事。特に絵画が好きで、華ちゃんのママにべた惚れだったみたい。なんとか口説いて結婚して、出産時に出血が酷くてママは亡くなってしまったんですって。それからは華ちゃんと二人きりで日本で暮らして、華ちゃんが五歳の時に再婚。その人に華ちゃんを任せて海外での仕事もこなし始めて家を空ける事が増えて、ある時家に帰ったら華ちゃんが笑わない事に気付いたんですって。それに、家の中ではママが描いた絵が真っ黒。これはおかしいって問い詰めたら再婚相手発狂。笑わなくなった華ちゃんとコミュニケーションが上手く出来なくなって海外逃走中。――とまぁ、こんな所かしら」

 かなり知ってんじゃねぇか田所!

「何それほぼ全てだよね? オレには『私は雇われている身なので社長のプライベートまでは存じ上げません』とかすましてたくせに全部知ってんじゃん! すっげぇムカつくっ」

「やだ秋、田所さんの真似うまい!」

 母親は茶化して笑ってるけど、オレはブチギレてんだっ! 決めた。母親もその気ねぇし、ぜってぇ田所の恋路邪魔してやる。

「まぁ母の女スパイが良かったのねぇ。女には重要機密もポロッと言っちゃうらしいじゃない?」

「何がポロッとだよ。てかさ、秘書のくせに自分の会社の社長のプライベートポロッとしたらまずくねぇ? 社会人失格だろ、田所」

 もうあの銀縁眼鏡野郎は田所だ。敬称なんて付けてやらない。冷酷銀縁眼鏡田所。

 腹の虫がおさまんないオレは洗い物を母親に任せて風呂で熱いシャワー浴びて、ベッド潜り込んで華抱き締めて寝た。



※次回更新は4日です※

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