3 あなたがいる景色
5 あなたがいる景色1-1
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木、金はうちに泊まって、土曜の今日は華が絵を描くって言うから俺がバイト行くのと一緒にうちを出た。マンションの自動ドアの向こうに華を見送り、オレはバイトへ向かう。今から絵を描くなら夜も明日もうちには来ないだろうなと思って母親にもそう連絡しておいた。
バイトの後は夕飯と明日の朝飯の買い物をしてから華のマンションへ向かう。
オートロックの自動ドアを開錠した先にあるエレベーターで七階まで上がり、華の家の玄関を開けた――ら、男物の茶色い革靴がある。オレのじゃない。って事は、父親か持って行く人のどっちかだ!
緊張しながらリビングダイニングのドアを開けると、オレの視界に飛び込んで来たのはいつもと変わらない光景。部屋に満ちた絵の具の匂いと、一心不乱に絵と向き合う華の背中。
通り過ぎる時に台所を横目で確認してみたけど誰もいない。
「華、ただい――」
靴の事は華に聞いてみようと決めて声を掛けようとして、視界の端に映った存在に気が付いた。いつもオレが華の背中を眺める定位置の、対面式キッチンのカウンターにあたる壁際。そこに、やたら姿勢の良い大人が座っていた。皺一つないスーツを着こなした銀縁眼鏡の男だ。まるで師匠の後ろに控える弟子みたいな感じで背筋を伸ばして正座していたその男は、首だけ動かした状態でまっすぐオレを見上げている。
「どうも。えーっと……持って行く人、ですか?」
あんまり表情が動かなそうなその男は冷たい視線でオレを見つめ続ける。……とんでもなく気まずい。
「秋、おかえり」
いつも通りにマイペースな華が筆とパレットを置いて駆け寄って来た。そのままオレに抱き付こうとしたんだけど、オレは泣く泣く華の両肩をおさえて止めた。だって、まだ乾いてない絵の具があちこちに付いていたから。
「ただいま、華。絵の具だらけだよ」
抱き締められない代わりにおでこへのキスで帰宅の挨拶をする。初対面の人に見られてるから唇にするのを我慢したオレ、偉い。
「秋、秋。お腹空いた」
嬉しそうな笑みを浮かべて餌をねだる華。オレに会えた事に対する喜び全開な感じがすっげぇ可愛いんだけど……目を見開いた驚愕の表情でこっちを見てる男の事はスルーなの?
「華、ご飯の前にこの人は? もしかして持って行く人? それともパパ?」
年齢的にはどっちでもあり得そうだ。でもパパにしてはちょっと若いかもしれない。四十はいってなさそうで……三十代半ば、くらいかな? 大人の年齢なんてオレにはわからないけど、何となくそんな雰囲気。
どうやら華は、オレが発した質問で初めてその男に気付いたっぽい。質問に答えるように首を傾げてから、オレの視線を辿って男を見た。そんですぐ、興味なさそうな様子でオレに向き直る。
「パパじゃない」
「なら持って行く人? まだ絵、描けてないけど?」
華も首を傾げてる。華の様子からもしかしたら不審者なのかもしれないと思って不安になり、オレは華を背中の後ろに隠してから男へ向き直った。
「オレは寺田秋と言います。あなたはどなたですか?」
何かに驚き硬直している男へ声を掛けると、硬直が解けたらしいその男は立ち上がった。オレと同じくらいの身長で、黒髪をオールバックに固めてる。顔は瞳と同じく冷たい印象だ。
「お嬢様の父上の会社で秘書として雇って頂いている、田所と申します」
お、お嬢様って……華の事だよな?
「華。この人、持って行く人?」
背中へ隠していた華に小声で確認してみたら頷きが返って来た。それなら良かった。一先ず警戒は解く事にする。
「えーっと……コーヒー淹れるんで、飲みます?」
「お構いなく。お嬢様に伺いたい事があるだけですので」
「そうっすか。……椅子も座布団もなくて申し訳ないですけど、座ります?」
ここはオレの家じゃないけど、立ったまま話す訳にもいかないかなと思って座る事を提案してみた。
居心地の悪さは増すばかりだ。その原因は確実に目の前の男にあると思う。だって、さっきからずっとオレらの事を驚愕の表情浮かべて見てるから。華を「お嬢様」って呼んでるのもすごく気になる。
それにしてもこの人、気付かないまま絵を描き続ける華をずっと正座した状態で待ってたのかな? 一体どのくらいの時間をそうやって待っていたんだろう? ちょっと可哀想。
「華は先に手を洗おう。顔にも絵の具付いてるじゃん。おいで」
絵の具だらけの状態で話すってのも微妙なんじゃないかなと考えたオレは、エコバックを持っていない方の手で華の背中を押して促す。食材の入ったエコバックを台所へ置いてから華を洗面所へ連れて行き、手を洗わせた。
「あの人いつからああやって座ってたのかな?」
濡らしたタオルで顔に付いた絵の具を拭ってやりつつ疑問を投げかけると、華が首を傾げる。
「あの人が来たの、気付かなかったの?」
頷きが返って来た。
華はいつも、オレがこの家に来るとすぐに気付いて振り返ってくれるんだけど、今日はすんごく集中してたって事なのかな?
「秋は足音でわかる」
ふわっと柔らかな表情で告げられた華の言葉で、オレの頬が引きつった。
「それ……持って行く人の時でもわかるって意味だよね?」
「秋はわかる」
「オレ以外の時は、振り向かないの?」
「秋以外は興味がない」
なんだそれ……! 可愛すぎてやばい嬉しい!
「でも、もし相手が持って行く人じゃなかったら危ないよ?」
泥棒とか、不審者とか侵入者とか……悪い人間なんてたくさんいる。オートロックのマンションだからって百パーセント安全な訳じゃないと思うんだ。
「盗まれて困る物はない」
「オレは華の心配をしてるんだよ。泥棒が物を盗るだけとは限らないだろ?」
華が斜め上に視線を動かして考える素振りを見せてから、よくわからないと言う風に首を傾げた。オレの頭の中には色んな種類の危険に対する想像が駆け巡って、心臓が鷲掴まれたような心地になる。
「華、今までよく無事だったね」
目の前にある小さな体を抱き締めながら、オレは思う。華は他人に興味がない。危険にも無頓着。食事だって最低限しか取らなかった華はもしかしたら、自分にすら興味がなかったのかもしれない。
「秋、また泣く?」
腕の中から聞こえた声に、オレは腕の力を強めた。声の震えで悟られたみたいだ。
「華に何かあったら、泣くよ」
「……悲しくて?」
「悲しくて」
少しの沈黙の後で唐突に、華の両腕がオレの背中へ回された。まるで縋り付くような力に驚いて見下ろした先の華は、顔をオレの胸元に埋めている。
「悲しい涙は、嫌」
「うん。だから、オレが泣かないよう自分を守ってね」
「わかった。がんばる」
がんばるなんて言葉、華の口から聞いたのは初めてかもしれない。なんだか一気に胸の中が温かくなって、微笑みながら華の頭を撫でていたら顔を上げた華と目が合った。オレの顔を見た華は幸せそうな顔して、笑う。
「華、好き。大好き」
溢れる気持ちを言葉にすると、華の笑みが深まった。キスしたいと思った。でも、長い事正座して待っていたのかもしれない人をこれ以上待たせるのは可哀想だなと思ったから、華の頭を一撫でしてから体を離し部屋へ戻る。
持って行く人が話したい相手は華だから、オレは邪魔するべきじゃないだろう。だから二人が話している間に飯を作ろうと考えて台所へ向かったんだけど、何でか華までついて来ちゃった。
「持って行く人が話あるって言ってただろ? 華の事、ずっと待ってるよ」
オレがここで料理する時いつもいる場所で体育座りをしようとした華を止めると、不満そうな表情で見上げられた。
「秋、お腹空いた」
「今から作るから、その間に話を聞いておいで?」
「秋といたい」
あまりの華の可愛さに舞い上がりそうになった自分を押しとどめて、どうしたら良いかを考える。
どうやら華は、持って行く人の話を聞く気がないみたいだ。
「――寺田さん、と仰いましたか?」
突然話し掛けられて、驚いた。
華の家の台所は絵を描く部屋と繋がってるから、オレ達の会話が聞こえていたらしい。正座をやめて立ち上がった持って行く人が、カウンター越しにオレを見ている。
「私は貴方にも、用があるのです」
眼鏡越しの冷たい瞳に射抜かれて、オレは一瞬言葉に詰まった。心当たりはあり過ぎる程にある。保護者が側にいない華の近くにいる、唯一の大人がこの人だ。この家の鍵を持っていて当然のように部屋に入って来た異性のオレを警戒するのは当然だ。
「……オレも、会えたら聞きたいと思っていた事が、たくさんあります」
華の側にいる唯一の大人であるこの人はきっと、華の家の事情を色々と知っているはずだ。華の父親の事も、華が「持って行く人」と呼ぶこの人がどんな気持ちで華の側にいるのかも、気になっていた事を聞く良い機会だと思った。
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