第六章 グリュン湿地帯編

第95話 掛けられた呪い

 ポコポコと複数の気泡が水面から湧き上がり、割れた泡の中から毒々しい紫と鼻がひん曲がりそうな刺激臭を纏った瘴気が放出される。この瘴気を生み出している広大な沼はヘドロのような汚泥に満たされており、その悪影響は沼の傍で群生していた植物にも及んだ。

 枯葉剤を散布したかのように草は黒々と枯れ果て、今頃は色鮮やかな紅葉で満たされていた筈の木々も酸性雨を浴びたかのように尽く葉が抜け落ちた死の森と化している。この沼地から放たれる猛毒の瘴気が全ての元凶であるのは言わずもがな、そして甚大な被害を与えているのは明白であった。

 瘴気に満ちた沼の水面が盛り上がり、汚泥交じりの飛沫を撒き散らしながら一匹の魔獣が水面を突き破るように勢いよく飛び出した。世にも珍しい聖鉄で覆われたロックシェルだ。

 清水と比べれば遥かに抵抗力の強い泥の中でも、その魔獣は難無く泳ぎ……いや、まるで水上バイクのように後部からジェットを噴射して水面を滑走している。

 ロックシェルが水面に飛び出してから程無くして、ソレを追い掛けて来たのか沼深くから尖塔が現れた。否、それは塔ではない。よくよく見れば吸盤の備わった触腕だ。

 不潔感を強調する汚い苔に覆われた計四本の触腕が沼地に生えるように出現し、塔のように聳え立った状態から一転してグニャリと撓り、水面を走るロックシェルに向かって振り下ろされた。

 鞭を水面に叩き付けるかの如く、触腕が水面に接触した瞬間に甲高い破裂音が鳴り響き、その威力たるや巻き起こった荒波と共に沼の汚泥と汚水が陸地に乗り上げる程だ。

 一つ、二つ、三つとロックシェルはスレスレで触腕を躱しながら水面を走るが、最後に残った触腕が振り下ろされた際に起こった激しい波飛沫と共に宙へと舞い上げられ、そのまま川に石を投げ込むかのように濁った沼へと激しく着水ダイブした。

 しかし、ロックシェルは穢れた水中で素早く体勢を立て直すと、何事も無かったかのように泳ぎ始めた。大抵の生物ならば汚染された沼地の中で活動するのはおろか生存するのも難しいだろうが、浄化スキルを持っているロックシェルには何ら問題は無かった。

 水中ではヘドロと汚水が激しくシェイクされて混じり合い、視界は1mどころか数十センチ程度の範囲も見通せない程に劣悪を極めた。

 ただ、幸いにも汚水の中でも暗視スキルの恩恵が効果を発揮しており、ロックシェルは自分が倒さねばならぬ標的の姿を捉える事が出来た。それは自分を狙う相手も同じことだと言えるが。

 しかし、ロックシェルの方には殊更勝たねばならない理由があった。


『お前を倒して沼地を元に戻さないと―――アクリルさんの命を救えないんですよ!!』


 契約者にしか聞こえない独り言をブチ撒けながら、ロックシェルは標的に向かって恐れも忘れたかのように特攻した。

 そもそも何故ロックシェルが穢れた沼地で激闘を繰り広げているのか。そして戦闘に至る経緯の始まりは、今から数日前の出来事にまで遡る……。



 テラリアを出立してから数日余りが経過した。王都へ続く平坦な道を快走し始めた頃には寒冷期も後半に突入し、徐々に空気が肌を刺すような寒さを持ち始めた。

 今まで私の貝殻の上に乗って流れていく空気の感覚を五体で味わっていても問題無かったが、痛覚を覚える程の寒気が加われば話は別だ。寒い空気に晒された挙句、更に私の貝殻の上に乗って空気の波を浴びれば寒さは倍に膨れ上がる。

 最早ソレは単なる苦痛を与える為の拷問でしかなく、全員が私の体内(セーフティーハウス)へ避難するのは必然であったと言えよう。

 幸いにもラブロス王国へと続く道は治安が保たれているらしく、魔獣や山賊の類も一切登場しなかったのでヤクトやクロニカルドの手を借りねばならない緊急事態は起こらなかった。まぁ、もしその手の輩が登場したら私が真っ先に撃退するんですけどね。

 こうして旅路は順調に進むかと思われた矢先、突然アクリルの体調に異変が出始めた。


「ここの魔法は……む、どうしたアクリル? 顔が火照ってるぞ?」

「う~ん、なんか頭がポカポカする~……」


 最初に異変に気付いたのは、アクリルに魔法を教え込んでいたクロニカルドであった。アクリルの顔が全体的に夕焼けのような赤味を持ち、また顔色も優れず体調が悪そうな印象を覚えたのがきっかけだった。

 そして直ぐに体温を確認したら、案の定、高熱を持っている事が判明した。なので、その日は授業を早々に切り上げてアクリルを休ませる事にしたのであった。


「姫さんが急に熱を持つなんて、どっかで悪い菌に当たったんやろうか?」

「無理もあるまい。少し前までヘルスタッグに攫われたりと波乱が続いたのだ。何かの拍子で病原菌を吸い込んでいてもおかしくはあるまい」

「まっ、風邪やったら数日大人しくして栄養あるもんたっぷり取れば治るやろ。それでもあかんかったら、最寄りの町か村落に寄って医者に診せればええやろ」

「そうだな。……しかし、資金は大丈夫なのか?」

「そこは安心しぃ。姫さんが試験に合格したおかげでガーシェルが手に入れた鉱物を殆ど売り捌く事が出来た。おかげで懐はぬっくぬくや」

「殆ど? 全てではないのか?」

「一部は自分への御褒美としてちょろ……頂きました」

「今ちょろまかしたと言う気だったな?」


 流石の天才ヤクト大魔術師クロニカルドも医学には疎く、また情報量の少なさも相俟って、その時は単なる風邪だろうという単純な見通ししか立てられなかった。

 だが、見通しを立てた明くる日になって事態は一気に深刻の度合いを深めた。


「な、何やコレ!?」

「どうしたのだ?……こ、これは!?」


 朝早くに目覚めたヤクトが汗に塗れたアクリルの衣服を着替えさせようとした時、突然素っ頓狂な声を張り上げた。それに釣られてクロニカルドも傍へ寄り、私も視線を近付けた。

 どういう理屈で成り立っているのかは不明だが、セーフティーハウス内では私の意思一つで空間内を俯瞰的に見たり、天頂方向から見下ろしたり、はたまた傍らに居るかのように近距離から注視したりと様々な見方が可能なのだ。

 話は戻り、ヤクトの視線の先……アクリルのはだけた首元に目を向けると、皮膚の上を細い三日月状の黒痣が走っていた。それを見たクロニカルドは「まさか……」と心当たりがあるような口調で呟き、次いで「失礼する」と律儀に断りを入れてからアクリルの服を脱がせた。

 苦悶の汗でぐっしょりと濡れた下着が露わになるが、それに羞恥心を覚える余裕なんて無かった。何故ならば私達全員の視線は、アクリルの右半身を埋め尽くす虎柄にも似た大量の黒痣に目が行ったからだ。

 それも単なる黒痣ではない。彼女が苦しそうに肺に空気を送り込む度に痣の輪郭が薄らと紫色に輝き、微かにだが痣からはアクリルのものではない別の魔力の気配を感知した。


「これは……!」

「何や、これ!? ちょっと前まではこんなんは無かったで! というか、こりゃ一体何の病気や!? まさか流行り病に……」

「いや、違う! これは呪いだ!」


 ヤクトの不安をクロニカルドが否定するも、直後に断言した一言に思わず私とヤクトは丸くした眼を彼に向けた。


「呪いやて!? いや、そもそも何時何処で呪いなんてかけられたんや!?」

「分からん。だが、呪いの状態からして、恐らくコレはごく最近に受けたものだ。それを考慮すれば、ヘルスタッグ辺りが怪しいと見るべきだろうな」


 厳密に言えばヘルスタッグを従わせていたカイザースタッグがかけた呪いなのだが、そんな事実を知る者は誰一人として居なかった。無論、私も含めてだ。


『呪いだとしたら、私の聖水か聖魔法で解除する事は出来ませんか?』

「残念ながら、それは無理だ。聖水が効くのは病や怪我のみであり、聖魔法も状態異常や精神異常などの回復は可能だが、かけられた呪いを解呪するだけの力は無い。

 それに呪いは術者の念……即ち思いが重ければ重いほど、何らかの形となって浮かび上がる。恐らくアクリルにかけられた呪いは、術者が自分の命と引き換えに発動した強力なものに違いない。これを解呪するのは並大抵ではないぞ」


 アクリルにかけられた呪いに対して、私の聖魔法で対抗出来ないかという淡い期待は、クロニカルドの苦渋に満ちた否定によって打ち砕かれた。

 しかも、話に聞く限りだと聖魔法が通じなければ、回復魔法も通じそうにない。それでは私達に成す術は無いのか? そんな不安が胸中に込み上がり、息苦しそうに乱れた呼吸を繰り返すアクリルに視線を落とす。


「クロニカルド、他に手はないんかいな!? このままやと姫さんの死は免れへんで!」

「それは分かっている! しかし、呪術と魔法は似て非なるもの。それを解くのも―――」そこまで言い掛けてクロニカルドはハッと表情を閃かせた。「いや、待てよ」

「何や、方法があるんか?」

「ヤクトよ、此処からアマゾネス族の居るバタン地方へは何日程で着けるのだ?」

「は? 何や、突然藪から棒に?」


 突拍子もない質問に要領を得られないヤクトが眉間を狭めながら訝し気に尋ねると、クロニカルドは苛立ちを抑え込むように深い溜息を吐き出し、理解の悪い子供に言い聞かせるように告げた。


「己の記憶が正しければ、アマンダの祖母はシャーマンだと言っていた。シャーマンは呪術を扱い、そして悪辣な呪いを解除する力がある。彼女に頼ればアクリルの命は助かるかもしれん」

「ホンマか!?」

「尤も、あくまでもシャーマンの能力は小耳に挟んだ程度だ。ましてやアマゾネス族ともなれば、その実力の程はハッキリ言って不明だ。が、このような状況では他に打つ手はあるまい」


 クロニカルドが視線を下へ傾け、汗に塗れたアクリルの顔をソッと影のような手で拭い取る。そしてヤクトも迷う素振りも見せず、即断でクロニカルドの提案に乗った。


「……バタン地方は丁度此処から真っ直ぐに西に突き進んだ先にある。飛ばせば三日と掛からん筈や」

「決まりだな。聞くまでもないだろうが、ガーシェルもそれで良いな?」

『勿論です!』


 アクリルを助けられるのならば何だってやってやる。バカみたいな真似だってしてやるし、無謀な挑戦だってやってみせる。そういう気概を持っていた私からすれば、クロニカルドの問い掛けは愚問であるとしか言い様がない。

 こうして私達は急遽進路を西に変え、アクリルにかけられた呪いを解くべくバタン地方へと向かったのであった。

 この時の私達はアマンダから頂いた指輪もある事から、アマゾネス族に快く迎え入れられるだろうという楽観とも前向きとも取れる甘い考えを抱いていた。しかし、実際には私達の想像を遥かに超える深刻な事態が待ち受けているのだが……この時点で私達がソレを知る由などあろう筈がなかった。

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