第77話 アクリルとクロニカルド先生

 従魔試験の初日は身体及び健康測定だけという事もあって、正午を過ぎた頃には堅苦しい検査を終えた試験の参加者達が続々と従魔教習所を後にしていた。

 検査の息抜きに街に繰り出す人も居れば、教習所の左手に置かれた訓練所に赴き、従魔試験に向けて従魔と共に特訓に励む人の姿も見受けられた。

 その訓練所へと赴いた人々の中には私達の姿もあったが、その目的は従魔の特訓ではなくアクリルの特訓である。そして私とヤクトが見守る中、アクリルとクロニカルドのマンツーマンによる魔法勉学が始まろうとしていた。


「では、これより魔力制御の術、そして幾つかの魔法を身に着けてもらう。準備は良いな?」

「うん、良いよ! クロちゃん!」


 アクリルは元気に返事を返すも、クロちゃんという呼び名がクロニカルドの不満の琴線に触れたらしく、彼の目付きが鋭く研がれる。


「そのクロちゃんという呼び名はやめろ! 今から貴様と己は弟子と師匠という関係になるのだ! そんな気安い呼び名は不敬であるぞ!」

「うーん……じゃあ、クロ先生!」

「じゃあとは何だ! じゃあとは!」

「ダメー?」

「……まぁ、貴様はまだ未熟な子供だからな。取り敢えず、その呼び名で許してやろう。」


 うーん、本当に大丈夫なんですかね。二人の遣り取りを見ていると漠然とした不安が込み上がり、暗澹とした気持ちが脳裏を覆ってしまいそうだ。そんな私の胸中なんて露も知らず、教師役を請け負ったクロニカルドは話を進めていく。


「では、早速始めるぞ。最初はコレからだ」


 そう言ってクロニカルドがアクリルの前に持ち出したのは、何の変哲も無いバケツ程度の木桶だった。中にはたっぷりの水が入っており、水面には木桶を覗き込むアクリルとクロニカルドの顔を映している。


「これはー?」

「これは魔力の制御を身に着けてもらう修行の一環だ。己の居た時代では水遁法と呼ばれていた」

「すいとんほう?」

「そうだ。取り敢えず手本を見せてやろう。少し離れていろ」

「うん、分かった!」


 アクリルが木桶から一定の距離を置いたのを確認すると、クロニカルドは木桶に向かって魔力を注ぎ込んだ。すると潮が満ちていくかのように中の水位が独りでに上がっていき、遂には桶の縁を乗り越えて溢れ出した。


「すごーい! どうやってるのー!?」

「この世界には五大属性と呼ばれる物が存在する。風・雷・水・土・火の五つだ。これらは魔力と結び付き易い性質を持つと言われており、現にこれらに含まれた魔力を主食とする魔獣も存在する。

 そして今のは私の魔力を水に注ぎこみ、その水量を増やしたのだ。因みに火で行えば火力が増し、風で行えば風圧が増す。だが、片や危険であるし、片や目に見えないので成果が分かり辛いという欠点があるので、無難な水増し技法を選んだという訳だ」

「へー、そうなんだー」


 魔力の意外な使い道にアクリルは目を輝かすが、感心したのは彼女だけではない。私とヤクトもクロニカルドの説明を聞いて、感心と尊敬の籠った眼差しを彼へと注いでいる。やはり教師役を彼に任せて正解だったようだ。

 それを知ってか知らずか、クロニカルドはえっへんと本体を反らして胸を張る挙動をしてみせた。


「では、次は貴様がやってみろ。先ずは全力で魔力を注ぐのだ。それから徐々に力を弱めていき、魔力の強弱を身に付けるのだ。これをマスターすれば魔力の強弱を覚えられるであろう」

「うん、分かった!」


 クロニカルドに促されて、アクリルは木桶の前に立って両手を掲げた。そしてスウッと深呼吸を一回した後、木桶の中にある水に向かって思いっ切り魔力を込めた。すると水道管が破裂したかのように桶からドッと凄まじい勢いで水柱が立ち、一直線に描きながら天へ向かって伸びていく。

 天高くへと舞い上がった水柱は先端から霧状の飛沫を飛ばし、日光を浴びて美しい七色の虹を作り上げる。上を見上げれば幻想的な光景で心も癒されそうだが、下を見遣れば水柱の出元がみすぼらしい木桶からという現実にシュールさを覚えるのは、恐らく私だけではない筈だ。

 だが、それでも凄まじい勢いで噴き出す水柱は存在感を放っており、訓練場に集まっていた人々も動きを止めて、水柱と、水柱を生み出しているアクリルを凝視している。


「わー! すごーい!」


 水柱とソレが生み出した光景にアクリルは無邪気に喜ぶも、横合いからクロニカルドの叱責が飛び込んで来た。


「馬鹿者! 燥いでる場合ではないぞ! 今度はそこから魔力を弱めていくのだ!」

「ええっと……どんな風に?」

「どんな風でも構わん。力を抜くイメージを頭の中に思い描くのだ。例えば火が弱まったり、雨が弱まったり、力を弱める事さえ出来れば何でも良い」


 クロニカルドの助言を受け、アクリルは両手を掲げた先にある水柱を睨み付けるように凝視した。まだ始めの内という事もあって水は柱の形を中々に崩さなかったが、暫くすると放水の勢いが衰え始め、それに合わせて柱の高さも徐々に低くなっていく。

 やがて水柱は近くにある木よりも低くなり、最後はクロニカルドがやってみせたように縁を乗り越える程度にまで水の勢いを弱める事が出来た。


「ほほう、筋が良いな。多少時間が掛かったが、初めてだという事を考慮すると一先ずは合格だな」

「本当!?」


 魔力を込めるのを止めてアクリルがクロニカルドの方へ振り返ると、桶の水は最初の水位の状態へと戻った。あんだけ大量の水を出していたのに、魔力が無くなった途端に元通りなんて……この世界は魔力があれば何でもOKな気がしてきたよ。

 そんな私の心の声が向こうに届く筈も無く、クロニカルドはアクリルの頑張りを一通り褒めると、すぐさま魔力制御の第二段階へと移行した。


「では、次の段階へ移るぞ。今度は魔力の固定だ」

「まりょくのこてい?」

「うむ、その通りだ。これは魔法を発動させる事において重要な鍵となるぞ。故に心して聞くように」

「おおー!……でも、何でこていする必要があるのー?」


 魔法と聞いてアクリルが興奮を示したのも束の間、きょとんとした表情で疑問を口にするとクロニカルドの本体がガクリと傾く。が、直ぐに体勢を立て直すと気を取り直して魔力を固定する必要性を弟子に説いた。


「魔法は込める魔力の多少によって内容が大きく変化する。しかし、強い魔法を放とうとして弱い魔力しか込められなければ技は不発するし、逆ならば暴発して魔法そのものを無駄にしてしまう。そこで肝要となるのは、魔法の種類に応じて注ぐ魔力の量を固定させる事なのだ」

「うーんと、つまりどんな“まほー”も“まりょく”が多ければ良い訳じゃないってこと?」

「その通りだ。……では、試しに手本を見せてやろう」


 そう言うとクロニカルドは本の身体から影のような腕を伸ばし、水の入った木桶に向けて掲げた。

 木桶に入っていた水の表面が小刻みに波立ち、ゆっくりと水位が上昇して桶から溢れ出る―――かと思ったら、水はスライムのように不安定な球体の形を維持したまま桶から抜き取られて宙に浮き上がった。


「わー、面白ーい! どうやってるのー!?」

「水を魔力で取り囲んで持ち上げたのだ。まぁ、分かり易く言えば目に見えない魔力の袋で水を掬い上げたようなものだ。だが、魔力が弱過ぎれば中の水は漏れ出るし、強過ぎれば魔力の圧が高まり過ぎて弾けてしまう。この状態を維持し続けられれば、魔力量の固定はマスター出来たも同然だ」


 クロニカルドが掲げていた手を本体へ仕舞い込むと、宙に浮いていた水は鞘に納まるかのように桶の中へと戻っていく。その様子を視線で追い掛けていたアクリルは釣られて桶を覗き込むが、中の水は波一つ立っておらず、鏡のような水面が彼女の顔を映していた。


「これが第二段階だ。魔力量の調節、適量を見抜いた上で空中に浮遊させて固定させる。中々に難しいが魔法使いたる者、これぐらい出来ねば一人前にはなれぬぞ?」

「うん、分かった! アクリルやってみる!」


 クロニカルドの言葉に触発され、アクリルはやる気と真剣さを複合させた表情で桶をジッと見詰めながら柔らかな両腕をソレに向けて伸ばした。

 最初は木桶そのものが揺れ動き、中にある水がバシャバシャと荒波を打つが、クロニカルドがしてみせたように水だけが外に浮き出る気配は見えない。


「どうした? 貴様の実力はその程度なのか? それでは理想的な魔法使いにはなれぬぞ?」


 ニヤニヤと笑いながらクロニカルドが発破を掛ければ、アクリルはムッと不機嫌そうに眉を顰めた。


「アクリル、魔法使いになるもん!」

「ならば、さっさと持ち上げてみせよ。魔法使いになると抜かすのは、それからだ!」

「むー……むむむむぅ!」


 集中力が増したのかアクリルの眉間に深い皺が浮き上がり、微かにだが長い髪の毛の端が宙に浮いてふわふわと上下する。そして桶の中からゆっくりと水球が姿を現し、宙へと浮き上がっていく。


「わぁ! やったぁ!」


 自分の頭二つ分ほどの高さにまで浮いた水球を見上げてアクリルが喜びを見せたのも束の間、その一瞬の気の緩みが原因だったのか水風船に針穴を開けたかのように水球の至る場所から水が噴き出し、地面に流れ落ちてしまった。


「あーん。折角出来たのにぃ……」

「気を抜くからだぞ。最後まで詰めを怠るな。それが魔法使いの鉄則だ。しかし―――」只の泥水となってしまった水球の名残をしょんぼりと見詰めるアクリルの頭を、クロニカルドは不器用に撫で回した。「――素人にしては中々に上手くやれていたぞ。この調子で特訓を励めば、魔法を使えるようになるのも遠い未来の話では無くなるだろう」

「!! うん!」


 クロニカルドに褒められるとアクリルは満開の花が咲いたかのような笑みを綻ばせ、再び特訓に励むのであった。

 最終的にアクリルの特訓は日暮れまで続き、その頃には第二段階を経て第三段階――魔力の操作――へ移行していた。最後の方なんて宙に持ち上げた水球を自在に操作する他、飴細工のように形状を変形させる等、誰の目から見てもアクリルの魔力制御は完璧であった。

 魔法や魔力に関しては全くの無知であるヤクトですら、アクリルが短時間で魔力を制御してみせた事に感服を覚え、「凄いなぁ」と称賛が詰まった呟きが口から零れ落ちた。


「あんな膨大な魔力をたった一日で制御するなんて、ひょっとして姫さん魔法使いの素質がホンマにあるんちゃうか?」

「何を言っているのだ、馬鹿者」


 ヤクトが独り言ちるようにアクリルを褒め称えていると、隣に戻って来ていたクロニカルドが小声で横槍を入れた。やはり大魔法使いから見れば、アクリルはまだまだ素人同然―――


「魔法使いの素質があるどころの話ではない。アレは天才だ。魔法使いとしての生を歩むべくして誕生した麒麟児と呼んでも過言ではない」

「何やって?」


―――と思いきや、クロニカルドの口から極上級の褒め言葉が飛び出した。

 年の功もあるのだろうが、常に相手を見下す傾向があるクロニカルドが手放しで相手を絶賛する事自体が極めて珍しい。現に私だけでなく、ヤクトですら驚愕した面持ちで相手の方へと反射的に振り向いている。


「大魔法使いのアンタが手放しで認めるなんて……姫さん、どれくらい凄いんや?」

「ふむ、そうだな……。今己が実践してみせた水遁法だが、普通の人間がアレをマスターするまで、どれくらいの時間が必要だと思う?」

「どれくらい? うーん、姫さんが大魔術師に認められる程の天才やという前提で考えると……大体一ヶ月かいな?」

「残念、一年だ」

「『一年!?』」


 声は出せずとも、内心で叫んだ本音は見事ヤクトの台詞と被さった。というか、普通の人間ならば一年掛かる所を、アクリルはたったの一日でクリアしたんですか!? そりゃ天才と認めますわ。逆にコレを天才と呼ばなければ、一体何なんだと突っ込みますよ。


「それだけ魔力の扱いとは難しいのだ。特に人類は魔獣のように生まれて直ぐに魔力を身に着けている訳ではないし、魔力を出せるようになっても、その量は魔獣と比べれば微々たるものだ。無論、アクリルみたいな特殊な人間を除いてな」


 チラリとアクリルの方へ視線を忍ばせると、訓練を終えたアクリルが丁寧に水を木桶に戻す所だった。どのみち特訓に使った水は捨てるのだから木桶に戻す必要なんて無いのではと思ったが、アクリルの頑張りに水を差すような事を言ってはいけないと思い直し、内心で押し止めた。


「だが、彼女はまだ子供だ。肉体的にも精神的にも脆弱な部分は数多くあるだろうし、間違いを犯さぬとは限らぬ」

「当たり前や。間違いを犯さない人間なんておらへん。万が一に居たら、それは人間やあらへん」

「……幸か不幸か、彼女は未だ魔力の価値を知り尽くしていない。だがソレを一度知ってしまったら、人間誰しもが持つ欲望の導火線に火が付く可能性も捨て切れぬ。万が一にそうなった時、我々は彼女が道を踏み外さぬよう監督する必要がある」

「責任重大やな」

「ああ、極めて重大だ」


 二人は互いに固い決意を込めて頷き合った。私も首こそないが、内心で頷き二人の意見に激しく同意した。アクリルが……優しい彼女が外道に堕ちる姿なんて万が一でも見たくない。

 それは私だけでなく、彼女を育てていた義理の両親や、彼女を産んだ実の両親も望んでいない筈だ。アクリルを守ると言う義理の両親と交わした約束に、新たな項目――彼女に正道を歩ませる――を付け加えた所で、後片付けを終えたアクリルが小走りで私達の元に戻って来た。


「片付け終わったよー! クロ先生ー!」

「うむ。訓練であれ実験であれ、魔法使いたるもの自分の使った物は大事にせねばならぬぞ。それを努々忘れぬように」

「はーい!」


 アクリルが元気に返事をすると、ヤクトは夕日色に染め上げられた訓練場を一望してから、私達の方へと振り返った。


「ほな、もう日も暮れてるし帰ろうかぁ。夕飯は外食でええとして、何が食いたい?」

「アクリル、お魚が良い!」

「いや、ここは精力を付ける意味も兼ねて肉であろう」

「本の身体で精力付ける必要があるんかいな」

「馬鹿者! この体を維持するのに食事は必要不可欠なのだ! だがしかし、聞いて驚け! 休眠スリープ状態であれば何百年経っても朽ちぬ上に、目覚めれば何時も通りに食事は取れるが排泄は一切不要という便利な体であるぞ!! しかも毒や麻痺と言った状態異常は勿論のこと、精神異常も効かぬ! 素晴らしいであろう!! ふぁーっはっはっはっは!!」

「食事も不要やったら完璧な不老不死なのに、食事有りの時点で希少性と言うか……何かのランクが大幅に下がったような気がするんやけど」

「不 敬 で あ る ぞ!!」


 そんな大人達の言い合いにアクリルは楽し気に笑い、私も釣られて内心で笑い声を漏らしたのであった。

 因みに夕飯のメインディッシュは、アクリルが希望した魚に決定した。これはアクリル個人の意見が通ったからではなく、彼女が私の好みを聞き、それをヤクト達に伝えた結果である。要するに多数決による決定だ。

 だけどもアクリルさんや、好みも何も水棲魔獣の主食が魚なのは相場が決まっているでしょうに。しかも、肉を希望していたクロニカルドからは理不尽な八つ当たりを受けましたよ、解せぬ。



 テラリアから東へ5km程離れた場所に、緑豊かな自然に囲まれた大きなブナ屋敷があった。

 従魔教習所に勝るとも劣らない建造物の正面に広がる庭の大部分は、色とりどりの植物や花が植えられたガーデニングとなっている。それも互いが全面的に押し出している主張を邪魔し合わず、絶妙なバランスで共存している事から、ガーデニングに手を加えた人間のセンスの高さが窺える。

 しかし、一方で屋敷の内部はギクシャクしたぎこちない空気に包まれていた。特にそれが顕著に表れているのは、屋敷の食堂であった。そこでは屋敷の主人であるブダッシュ・ヴァークナーを始めとする、ヴァークナー家の三人が一家団欒の一時を過ごしていた。

 しかし、温かな食事とは対照的に、彼等を纏う空気は氷山を前にしているかのように冷え切っていた。団欒にはあって然るべきとも呼べる家族間の会話もなく、誰もが沈黙を貫きながら食事に専念している。最早、食事の楽しみを味わうどころではない。単なる義務の一環だ。

 ブダッシュも凍て付いた空気を何処かで実感しているのか、寒さから逃れようとして温かい食事をいそいそと口に運んでいたが、やがてそれも尽きると観念して口を開いた。


「あー……。シュターゼン、従魔試験は順調か?」

「順調? そうでなければ今頃教習所に通っていませんよ。それぐらい分かりませんか、父上殿?」


 子が親に向ける言葉にしては、余りにも礼節に欠けるどころか反抗的な要素を多く含んでいるのは明白であり、流石のブダッシュもムッと不快気に眉を顰めて、軽く反論しよう試みた矢先にキャロラインが一足先に口を開いた。


「そうですよ。息子のやる事に不安を持つのは父親として失格ですわよ。少なくともシュターゼンはアナタに比べたら遥かに有能なんですから、余計な口を挟まないで頂戴」


 それはシュターゼンを擁護する援護射撃の意味合いも含まれていたが、言葉の端々には夫の存在価値なんてないも同然という彼女個人の意思が見え隠れしていた。

 剰えシュターゼンを持ち上げる為の踏み台にされ、ブダッシュの尊厳に大きな傷が加わった。これには彼もテーブルの下で悔しさと怒りで拳を震わせたが、最後まで表面には出さなかった。

 これがヴァークナー家の日常だった。母子は父親を何かとつけて軽蔑し、母は息子の暴虐的な一面も含めて溺愛し、息子は母の行き過ぎた愛を真っ当なものだと勘違いして益々増長する。この悪循環が繰り返された末に、今のドラ息子が誕生したのだが……悲しいかな、その事実を指摘する人間は皆無であった。

 本来ならばブダッシュが父親として息子を一喝すべき所なのだが、彼はキャロラインに没落という窮地から救って貰った大恩がある。そのキャロラインが不出来な息子を溺愛している以上、下手に説教しようとすれば忽ちに自分が座っている地位を追い出されるのは目に見えていた。

 なので、彼は耐えるしかなかった。どんな侮辱を受けようが、腹の中に怒りを蓄えながら、その場を遣り過ごすしか他に術はないのだ。


「じゃ、じゃあ私は一足先に部屋に戻るとしよう」


 ストレスなのか元来のものなのか、大分薄くなった頭髪を癖で撫で上げながらブダッシュは席を立ち上がる。試しに「おやすみ」と就寝の挨拶を投げ掛けるが、二人からは一言も返って来なかった。その事実に落胆を覚えたブダッシュは、肩を落として退出した。

 だが、彼が居なくなった途端、キャロラインは鉄面皮を脱ぎ捨てて満面の笑みを息子に注いだ。


「ねぇ、シュターゼン。従魔試験合格したら早速パーティーを開きましょうか。貴方の力を見せ付ける良いチャンスよ?」

「それは良い考えですね、母様。なら、私も合格に向けて精進致します」


 父親に向かっては父上殿と他人行儀で呼び、母親に向かっては母様と尊敬語で慈しむように呼ぶ時点で、それぞれの親に対する思いに雲泥の差があるのは明白であった。


「ええ、その調子で頑張ってね。それにヴァークナー家の正統後継者として他所の貴族に顔合わせするには丁度良い頃合いでしょうし。そうなったら、あの男ブダッシュも用済みね」

「そうですね。判子を押す事と尻で椅子を磨くしか能がありませんからね、アイツは」


 先程までブダッシュが座っていた席に、冷たい眼差しを注ぐシュターゼン。しかし、直ぐに母親の言葉に意識を引かれて視線を戻す。


「そうよ。でも、アナタはあんな下らない男とは一味も二味も違うわ。私の自慢の息子よ。ヴァークナー家を受け継ぎ、偉大な一族の長として名を刻むの。それだけじゃないわ、何れラブロス王国は貴族主義の社会国家に生まれ変わる。そうなれば、この一帯の全てがアナタの思うが儘よ」

「素晴らしい未来ですね!」

「ええ、とっても素敵な未来よ!」


 まだ見ぬ未来に思いを馳せながら、母子は和気藹々と言葉を交わす。しかし、彼等が夢見る未来は、ブダッシュを始めとする大勢の人間に暗い影を落とす暗黒時代の到来を意味するのだが、その大勢の中に含まれていない二人は気にもしなかった。

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