第23話 パラッシュ村の一日 前編

 筋骨逞しい漁師達の一日は朝早くを大幅にフライングして、真夜中の午前三時から始まる。等間隔に置かれた街灯の明かりさえも容易く飲み込んでしまいそうな深い夜陰が村中に蔓延る中、漁師達は村の安眠を妨げぬよう極力音を殺しながら居住区をこっそりと後にし、規模は小さいが設備はそれなりに整った漁港に集まっていく。

 港に人が集まるにつれてポツポツと専用の照明器具やカンテラの明かりが灯され始め、それまで存在感を主張していた夜陰は港周辺から一掃され、代わって昼間に近い明るさが齎された。

 そして人々は港を照らす灯かりを頼りに、各々が乗る漁船の出港準備に取り掛かった。漁業に必要となる網、カンテラ、その他諸々の道具を船に積み込み、積み忘れが無いか入念に入念を重ねてチェックを入れていく。


「よう、ガーヴィン! 今日もシェルを連れて行くのかい?」

「ああ、コイツは色々と役立つからな」

「ははは、違いない。宜しく頼むぜ」


 人々の賑わいと活気に満たされた港に、村で話題となっている魔獣の姿があった。ガーヴィンの娘、アクリルと従魔契約を結んだシェルこと私だ。

 最初の頃は奇異や好奇心の入り混じった視線を投げ掛けられていたが、それも数日経つと当たり前の光景となりつつあった。いや、それどころか人気者(この場合はマスコットか?)的存在にまで登り詰めつつある。


「よう、シェル。今日も頼むぞ~」

「ははは、シェルが居れば百人力だな!」

「今じゃ俺達にとって必要不可欠な存在だもんな~」

「今日も豊漁を期待しているぜ!」


 誰かが私の傍を通り過ぎる度に、一言声を掛けては自慢の白い貝殻を撫でていく。中には撫でた後に深々と有難そうに拝む人も居る。まるで御利益があるビリケンさんか御地蔵さんのような扱いではあるが、決して御神体として祀られている訳でもなければ、御神体になったつもりもない。

 これは村人達がしていた噂を盗み聞きしたものだが、成長して晩年を迎えたシェルの貝は凄まじい防御力を誇り、熟練の職人の手に掛かって加工されれば、名立たる騎士だろうが上位の魔獣だろうが、どんな攻撃をも寄せ付けない強固な盾にも防具にもなると言われている。

 しかし、この生存競争激しい世界において、ヒエラルキーの底辺に位置するシェルが数多の危機を乗り越え、無事に晩年を迎えられるのは文字通り一握りに過ぎない。それに比例してシェルの希少価値も高くなる故に、一部の海に面する国や村ではシェルは守護者や守り神として崇められるようになったそうだ。

 そういう伝承話を何処かの誰かが調達し、私を大事に扱えば同じ利益を得られるかもしれないと好き勝手に吹聴した結果、今みたいな扱いになったという訳だ。まぁ、験担ぎだろうが何だろうが、担げる縁起は幾らでも担ぎたいという気持ちは分からないでもない。


「ほらほら、縁起を担ぐのも程々にしときな。さっさと漁船に乗って仕事を始めねぇと、朝日が先に昇っちまうぞ」

「へーい」


 ガーヴィンが手をパンパンと叩いて促すと、私の周りに集まっていた人々は蜘蛛の子を散らすように去り、各々の持ち場へと戻っていく。その様子を茫然と見ていると、ガーヴィンが此方を覗き込むように腰を折り曲げ、私の貝殻をノックした。


「今日も頑張ってバリバリ働いて、皆を稼がせてくれよ?」


 そう言ってガーヴィンはニヤリとワイルドな笑顔を浮かべると再び歩き出した。此方だって居候させて貰っている身、誰かに言われずとも真面目に働きますとも。

 言い忘れてましたけど、私は只単にみたいな置物系マスコットじゃありませんよ。皆さんの為に体を張って勤労する、肉体労働派マスコットなんです。どんな風に働くのかは、見ての御楽しみだ。

 いっその事、歌って踊れるふ○っしーみたいなマスコットキャラクターを目指してみるか? いや、駄目だ。奇抜過ぎて返って不気味だと疑われ、討伐されるのがオチだ。尚、この結論に至るまでに要した時間は二秒半である。

 そんな馬鹿げたことを考えている内に、ガーヴィンは自分の漁船にサッと乗り込んでしまい、私も急いで彼の後を追い掛けて船内に駆け込んだ。やがてパラッシュ村の漁港から多数の漁船がアドリカ海洋に向けて一斉に出航し始めた。

 夜の闇色に染まった大海原を船首で掻き分け、白い気泡の轍が一瞬だけ海面に浮き上がっては直ぐに闇に飲み込まれて無へと帰す。海の男達が徒党を組んで得物の待つ海域へと進む様子を、糸を垂らしたような細い月が見守っていた。



 漁場と呼ばれる場所に到着すると、横一列に並行していた漁船達は一斉に帆を巻き上げて航行を停止させた。海原に広がる波は凪のように極めて穏やかで、船内に伝わって来る揺れも揺り籠の中にいるかのような心地良さがあった。

 周囲の光景と船団の動きを確認し終えたガーヴィンは、カンテラの灯かりに照らされた私をチラリと一瞥すると、海に向かって手を振りながら船員に指示を飛ばした。


「よーし、シェルを海に降ろせ!」

「了解! 頼むぜ、シェルちゃんよ!」


 男達の野太い掛け声と共に私の身体は宙に持ち上げられ、そして次の瞬間には私は船の縁から墨のような暗闇に満たされた海へと放り投げだされた。海中に投入された瞬間、どっちが上下なのか分からなくなるが、重力の引っ張る感覚が私がどちらに身体を向けているのかを教えてくれた。

 重力の感覚に沿って体勢を立て直し、遊泳スキルを発動させる。潮水の冷たさと水中の浮遊感に懐かしさを覚えるも、それに心を奪われずに自分が成すべき事に思考を向けた。


『さてと、お仕事をしますかなっと。ソナー発動!』


 潜水艦のピンガーにも似た甲高い音が脳裏に響き渡り、目に見えない超音波の波紋が海底に向かって放射状に広がっていく。そして海底にぶつかって反射した超音波をキャッチすると、脳裏に白黒のみで構成された海底の光景や魚の姿が映し出される。

 中でも私が特に注目したのは、ソナーが捕まえた魚影の群れだ。魚影を捉えた方向と位置を把握すると、私は海面に向かって急浮上して顔を出した。そして船から半ば身を乗り出して海面を覗き込んでいたガーヴィンに、魚影を発見した方向を触手で指差して知らせた。


「シェルが魚群を見付けたぞ! カンテラで合図を出せ!!」


 ガーヴィンの命令を受けた船員が待ってましたと言わんばかりにカンテラを数度点滅させて他の漁船に合図を送ると、同様の点滅が返って来る。了承した事を意味する返事だ。


「帆を張れー!! シェルに付いて行けば、今日も大漁は確実だぞ!!」

「「おー!!」」


 ガーヴィンの号令と共に次々と漁船の帆が張られ、風の力を借りて再び海上を進み始めた。私も発見した魚影の方へと彼等を誘導するが、万が一に暗い海の中で私を見失わぬよう海面から真っ白い貝殻を出した状態で海原を横断する。

 これがパラッシュ村の一員となった私の仕事だ。ソナーを使って魚群を見付け出し、漁師達に位置と方向を知らせて誘導する。謂わば私自身が魚群探知機になって漁業の補助をしていると言っても過言ではない。

 だが、この方法によって漁獲量は劇的に増加したのは確かだ。以前までは魚が居ようが居まいが手当たり次第に漁場を回るという効率の悪い方法を取っていた。だが、魚群を確実に探知出来るようになった事で効率が改善され、無駄な労力を削減する事に成功した。

 そして魚群まで残り30mを切った頃、私は触手でクルクルと頭上に円を描いた。魚群まで残り僅かだという合図だ。それを見て取ったガーヴィンは真夜中の静寂を破り捨てんばかりに大声で指示を出した。


「網を降ろせ!! 他の船にも伝えろ!!」


 ガーヴィンの命令は迅速に通達されたらしく、全ての漁船達の間に底引き網が海中に投下されるまでに二分と掛からなかった。そして網を張った漁船達は編隊を維持したまま、魚群を探知した頭上を通過していく。

 大漁か否かは上げてからの御楽しみだが、今までの功績からして結果は分かり切っているようなものだ。


「よーし! 網を上げろ!」


 海の男達が丸太のような逞しい腕を頻りに動かし、網を海中から引き摺り上げる。すると、海中から引き摺り出された大漁の魚が網の中でビチビチと激しい水飛沫を上げながら網の中で抵抗していた。それはまるで必死に食われないよう懇願する命懸けのダンスのようにも見えるが、漁師達からすれば嬉しい豊漁の舞いでしかなかった。


「大漁だ!! 大漁だぞ!!」

「がはははは! やっぱりシェルに従って正解だったぜ!! なぁ、ガーヴィン!」

「当たり前だろ! 何て言っても、俺の娘が自慢する従魔なんだからな!」

「よく言うぜ! アクリルちゃんがシェルを従魔にした時は顔を引き攣らせながら反対していたのによ!」

「うるせぇ!! 些細な過去を蒸し返すんじゃねぇよ!!」


 船内からは豊漁の喜び、そしてガーヴィンを茶化す会話から来る笑いで溢れていた。やがて大量の魚で満たされた水槽を男達が感無量な面持ちで眺めていると、東の空が薄っすらと白ばんできた。朝の到来である。


「よーし! 凱旋するぞ!! 豊漁旗を掲げろ!!」


 漁船の後部に幟のような豊漁期が揚げられ、風を浴びてバタバタと力強く靡く。日本にある派手な文字や絵柄が特徴的な大漁旗と異なり、此方の豊漁旗は鮮やかな黄色に染められただけのシンプルな旗だ。

 しかし、背後から差し込む太陽の光を浴びると黄金色に近い輝きを発し、遠目から見るとまるで宝の山を積んだ船のように見えるのだ。これを見れば、何故このシンプルな黄色い旗が豊漁旗と大層な名前で呼ばれるのかが理解出来よう。

 そして豊漁旗を掲げたガーヴィンの漁船に回収され、私達はパラッシュ村へと凱旋するのであった。



 パラッシュ村に凱旋すると、漁港は漁師達を出迎える為に集まった大勢の人でごった返していた。殆どが漁港の関係者だが、中には家族を出迎える為に朝早くから家を空けてやって来ている人の姿も居る。

 そして港に停泊した漁船から本日獲ったばかりの活きの良い魚達が陸揚げされると、漁港の至る所から歓声が沸き上がった。やっぱり大漁だと嬉しいですよね。

 水揚げされた魚達は、漁師達の目利きによって幾つかに区分される。小振りのものと大振りのもの、露店や都会へ輸出する商品として売りに出せるものと、形の悪さや破損で売りに出せないもの。

 それが終わると売りに出される商品は人間の手によって箱詰めされて出荷されるのだが、この時に淡い水色の結晶体クリスタルのような鉱物も売物と一緒に木箱の中へと放り込まれる。

 この世界に存在する魔力は二種類ある。一つはこの世界で生まれた生物ならば誰もが有する天性の魔力、そしてもう一つは魔石と呼ばれる自然中の魔力を鉱物に閉じ込めたものだ。

 魚と一緒に箱に放り込まれたのも、後者で述べられた魔石の一種だ。因みにアレ一つで箱の内部を冷凍庫並の温度にまで引き下げ、商品の腐敗を防ぐのと同時に保存するという効果を齎してくれている。

 魔石の種類はその一つだけではなく、他にも複数の魔石が存在し、効果も様々だ。中には武器の能力を底上げする装飾品として備え付けられる魔石もあるらしいが、少なくともパラッシュ村では人々の生活を下支えする生活必需品として活躍している。

 やがて山のように積まれた木箱が複数のリアカーに均等に移し終えたところで、私に与えられた仕事の第二幕が幕を開けた。


「はい、シェルちゃん、これを3ブロックに持って行ってねぇ」

「おーい、次はこいつを1ブロックに持って行ってくれ! 大至急だ!」

「今度は16だ。慎重に頼むぜ?」


 木箱を乗せたリアカーを指示された場所へと運び、それが運び終えたら次のリアカーを別の場所へ、それが終わったら……と人間に指示されるがままに何度も往復を繰り返した。まるで漁港を忙しなく走り回るフォークリフトにでもなったかのような気分だ。

 と言うか、漁場で働く人達の人使い(または魔獣使い?)の荒さと来たら堪ったもんじゃない。次から次へとアレをしろコレをしろと仕事の指示を被せ気味に飛ばしてくる。おかげで仕事の終わりが見えて来た頃には、私は目を回す程にクタクタに疲れ切っていた。

 散々扱使われるだけならば前世のブラック企業と大差無かったかもしれないが、幸いにも彼等はそこまで鬼ではなかった。人間だろうが魔獣だろうが、労働に対して対等の報酬で報いるという勤労感謝の意識を忘れてはいなかった。


「お疲れさん、コレでも喰いな」

「お前さんのおかげで今日も大漁じゃったわい。ほれ、余りモンじゃが腹の足しにはなるじゃろ?」

「本当に頑張り屋さんだねぇ! ウチのグータラな旦那に見倣わせたいぐらいさ! ほら、これ食って精をつけな!」


 仕事を終えて一息付いている私の下に入れ代わり立ち代わりで漁師や漁場で働く人達が私の下にやって来ては、各々が手にしていた魚や魔魚をどんどんと積み上げていく。

 先に述べた訳有って売りに出せない商品や、人間達の舌に合わなかったり加工が難し過ぎて食せない魔魚が大半だったが、それでも廃棄するよりかは私に食べさせる方が遥かにマシだろう。

 あれよあれよと言う間に私の目の前に魚の小山が出来上がり、何だか人々から魚を献上される王様になったかのような気分だ。けれど質素な暮らしをしていた前世の自分が、目前の贅沢に対して複雑な背徳感を訴えていたが。

 まぁ、それでも頂いた物は有難く頂戴しますけどね。背徳感も空腹には敵いませんから。では、早速……いただきます。


 ずるずるずる……ゴクンッ


 大抵の魔獣を丸呑みしてしまうとは言え、流石に小山が出来る程の量を一口で平らげるのは無理なので、ショベルカーのように捕食舌を上から下へと掬って山を少しずつ削り取っていく。

 周囲の人々は何が楽しいのか、私の食事光景を微笑みながら見守っていた。動物の食事シーンについつい見入ってしまう、動物園の観客達と同じ心理が働いているのだろうか?

 そして数度に分けて小山程度もあった魚を全て胃の中に収めると、集まっていた人々も満足して仕事に戻っていった。漸く落ち着いてリラックス出来る……かと思いきや、貝殻の上にドカリと衝撃が走った。自己視のスキルを使って視点を頭上に定めると、ガーヴィンが私の貝殻に腰掛けていた。


「よう、お疲れさん。今日もよく頑張ったじゃねぇか。流石はの従魔だ」


 うーん、全然褒められている気がしないのは何でだろう。寧ろ『アクリル』の部分が強調されて、さも私を従属させている彼女が凄いと言う響きを感じる。というか、私は貴方の椅子じゃないんですけどねぇ。まぁ、別にこれぐらいどうってこと無いですし、私の主の御父上だから大目に見ましょうか。

 暫くは貝殻の上で煙草を吸ってリラックスしていたガーヴィンだったが、居住区方面に何気なく目を向けた途端、彼は慌てて立ち上がった。何だろうと思い私もそっちへ視線を寄越すと、そこにはガーヴィンのみならず私にとっても見慣れた人達の姿があった。


「アナタ、おかえりなさい」

「おかえりなしゃい!」


 私の主であるアクリルと、彼女の母でありガーヴィンの妻であるメリルだ。ラビットロールの騒動から一週間余りが経過した事もあり、既にメリルの足は自分の足で歩ける程にまで回復している。

 メリルのスカートを掴んでいたアクリルは、私達を見るやパァッと表情を輝かせて走り出した。そして父は駆け込んでくる娘を受け止めようと片膝を着いて懐を広げたが―――


「おかえりなしゃい! シェルちゃん!」


 ―――アクリルは身構える父親を素通りし、そのまま私に抱き付いた。娘を受け入れる為に開放されたガーヴィンの懐は目的を見失い、寂寥感と言う名のブリザードを抱き締めた。何と言うか、御愁傷様です。


「ははは、何だガーヴィン! もう娘を取られちまったのか!?」

「辛い事だろうが、何れ誰かに奪われちまうんだ。その辛さを今の内に経験しておくのも、勉強の一つだぜ」

「やかましいわ! 老い耄れ共!!」


 今の遣り取りを見ていた年配の漁師達から慰められるどころか揶揄われてしまい、思わずガーヴィンも歯を剥き出しにして怒鳴り返すが、人生経験豊富な先輩方は余裕綽々たる態度を崩さないどころかカラカラと笑って彼の怒りをサラリと躱してしまう。

 そして年配者達が足早に立ち去ると、ガーヴィンは笑顔を取り戻して娘の方へ振り返った。だが、口角がヒクヒクと引き攣っている様からして様々な感情を隠すのに失敗していたが。


「ほら、アクリル。お父さんにもおかえりなさいって言ってごらん?」

「? さっきいったよー?」

「い、いや。そういう意味じゃなくって……ほら、お父さんのこと好きだろ?」

「うん、すき!」

「そ、そうだろう!?」ガーヴィンの表情から強張りが消えて自然な笑みに戻る。「それじゃ……お父さんにもおかえりのハグをしてくれないかなー?」


 そう言ってガーヴィンは改めて両手を広げ、アクリルを迎え入れるポーズを取る。しかし、彼女は直ぐに動き出さず私と父親を交互に見遣った挙句―――


「や」


 ――嫌と言う意味の一文字だけを告げて、まるで見せ付けるかのように私にギュッと抱き付きた。この時、娘の一言が矢となって父親の心に突き刺さったのがハッキリと見えた。


「な、何でだ!? お父さんのこと好きなんだろ!?」

「うん、すきだよー」

「だったら……!」

「だけど、今のおとーしゃん、くしゃい臭いから……や!」

「ぬあああああああ!!!」


 純粋無垢故に鋭利さが増した辛辣な一言は確実に父親の心を貫き、そして容赦なく抉った。その場に崩れ落ちて廃人ならぬ灰人と化したガーヴィンの周りに複数の中年男性が寄り添い、同情的な眼差しを投げ掛ける一方で優しいと呼ぶには哀愁に満ちた微笑みを彼へと注いだ。


「ガーヴィン、おめぇの気持ち……よーく分かるぜ」

「俺も思春期を迎えた娘に同じセリフを投げ掛けられて、すげー傷付いた覚えがあるぜ」

「今日は娘に嫌われた記念日として一杯奢ってやるぜ? どうだ?」

「やめろ……やめてくれ……。俺はまだアクリルに嫌われちゃいない……嫌われちゃいない筈なんだ……」


 他者から投げ掛けられた生温かい同情は彼の傷心を癒すどころか傷口に塩を塗り、追い打ちを掛けるだけだった。そんな打ちひしがれたガーヴィンの元に妻のメリルが傍に寄り、励ますように背中を数度軽く叩いた。


「分かってますよ。アクリルはアナタを嫌っちゃいませんし、ああ言ったのも悪気があったからではありません。只、子供は色んな事に敏感で正直なだけなんです」そこでチラリとアクリルの方へ目を向ける「アクリルもお父さんが臭くなかったら好きでしょ?」

「うん、だいしゅき!」

「そうか……そうかぁ! あははははは!! それじゃ仕方ないよなぁ!!」


 まるで萎びれた草花に水分を与えたかのように、もしくは灰色の世界を豊富な色彩で着色するかのように。娘の「大好き」という一言によってガーヴィンの心を覆っていた絶望の暗雲は払われ、代わりに希望の太陽が照らしていた。

 この時、彼に同情していた周囲の男達から「チッ」とか「ケッ」とか父娘の仲睦まじさに嫉妬するかのような舌打ちが聞こえた気がしたが、聞かなかった事にしよう。


「仕方ないなぁ、大好きなアクリルの為に今日も頑張るとするかぁ! おら! アンタ等もボサッとしてないで仕事に戻れ戻れ!」

「うるせー! 折角仲間が増えると思ったのによ! 俺達中年の期待を裏切りやがって!!」

「どうせあと十年したらアクリルちゃんに嫌われるんだ! そん時に散々イジってやる!!」

「ハゲちまえ! この薄情者め!」

「娘と仲が良いからってやっかむんじゃねぇよ!! あと嫌われもしねぇしハゲもしねぇよ!! 少なくとも今はな!」


 仲間が増えるという期待が破れた中年達はガーヴィンに対し好き勝手に台詞を吐き捨て、各々の持ち場へと帰っていった。傍から聞くと単なる売り言葉に買い言葉だが、この漁場では似たり寄ったりな会話を他にも聞くので、意外とこういった粗暴な遣り取りがデフォなのかもしれない。現に会話が終わった途端に互いに笑いを零し合っている。


「おーい、ガーヴィンさん!」


 そこで別の男性が彼の名を呼び、傍へと駆け寄って来た。そして三言にも満たない短い会話を交わすと、ガーヴィンは真剣な面持ちで私達とメリルを交互に見遣った。


「すまないが、漁業仲間から呼び出しを受けた。一足先に戻っててくれ」

「分かりました。ほら、アクリル。お父さんに頑張ってねって言ってあげて頂戴」

「おとーしゃん! がんばってね!」

「おう!」


 娘の声援を背に受けたガーヴィンが意気揚々とその場を後にするのを見送ると、メリルは私の傍にいるアクリルを呼び掛けた。


「アクリル、そろそろ行きましょ。シェルちゃんもお仕事終わったみたいだし、一緒に帰りましょう」

「はーい!」


 メリルの言葉に従い、私はアクリルを貝殻に乗せたまま港を後にした。


次回は明後日更新予定

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