#013 月読のキス

#013-第一話「落涙の女神」

 ツクヨミ……?


 背中を向けて佇んでいる、小さな影。見上げれば、そこには大きな桜の木があった。その木の幹に両手をつけて顔を伏せ、肩を震わせていた。泣いている……?


 ここは、どこなんだろう。十メートルも離れたら人の顔が分からなくなるほどに濃い霧が漂い、しかし湿っぽくもない。むしろ空気は肺の中に冷たく染み入るように、清んでいた。辺りは静寂に包まれていて、風の音も聞こえない。でも、その無音の世界が苦痛かというと、そうでもない。眠りに落ちる一瞬前のような、そんな心持ちになるような沈黙だ。


 ただ、目の前で肩を震わせている小さな……見慣れた後ろ姿が気になった。一歩近付いてみるのだが、どういうメカニズムが働いているのか、距離が縮まらない。確実に足を前に進めているのに、まるで俺と彼女の間の空間が膨張でもしているかのように、相対位置が変わらない。


ツクヨミ……」


 呼びかけてみるも、振り向くことすらない。声すら届いていないのか。だとしたら、ここはいったいなんなんだ?


「この桜……」


 もしかして、結界の中で見たものと同じ……? だとしたら、ここはハルアキの?


『いかにも』

「うわっ……!?」


 いきなり真横ににゅっと現れた巨大な白キツネに、俺は大いに驚かされた。白キツネは俺を一瞥すると、厳かな口調で言った。


『なれど、この桜木は、我とツクヨミとの共通の記憶でもある。生前、我はこの木の下でツクヨミと出会った』

「ロリ神様と……?」

『我はそこで、アハシマを封印するようにと持ち掛けられた』

「えっ?」


 思わず間抜けな声が出る。安倍晴明ハルアキが生きていた約一千年ちょい前に、アハシマがハルアキによって封印されたことは周知の事実だ。だが、それを依頼したのがツクヨミであったというのは、実に初耳だった。今は(立場上)アハシマの支援に回っているツクヨミが、である。


『あやつはその昔より、アハシマの復活が意味するところを知っていたのだろう。それに、アハシマは弱体化していたとはいえ、最強の神の一人。いくら我が人間最強の陰陽師であったとしても、人間ごときの力のみで対抗するのは不可能だっただろう』

「そこでツクヨミが……?」

『だけではない。アマテラスも、また、我に力を貸し与えた。我は陰陽、つまり陰と陽、その最高の力を得た。おそらく、一人の人間が持ち得る、史上最強の力を与えられた我は、死闘の末に彼奴きゃつめを封印した』


 実に初耳である。


「……したっけさ、今回だって、ツクヨミの決断次第じゃ、封印しなおせたんじゃ」

『それはどうかな』


 ハルアキは静かな口調で(とはいえ、音声モザイクであるが)言う。


『あの頃に比べて、我は確実に弱体化しておる。アマテラスの力を借りていてすら、本来の姿さえ取り戻せぬほどにな。その一方で、アハシマは指数関数的に力を回復させてきておる。我が蘇った時にはすでに、奴めは手に負えぬほどの力を取り戻していたように思う』


 そうなのか。


 俺はほんの少し先の、それでいて近付くことすら出来ない所で、肩を震わせて泣く後姿を見つめながら、唸る。


『我にはな、これらすべての事象が、斯く在るべき――予定調和に他ならぬようにしか思えぬのだ』

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