#011-第三話「紫の大蛇」

 どのくらいの時間、そうしていたのか。微風が桜の木の枝を揺らす音だけが、不規則に俺の鼓膜を刺激し続けていた。


「人とは、温かいものなのだな」


 アマテラスはそうぽつりと漏らす。また桜の香りの風がふわりと吹き抜けていく。誰もいないこの結界の内側で、俺とアマテラスだけが、今、音を立てている。


「なぁ、ハルくんよ」

「はい?」

「お主は幸せか?」

「そうだね」


 なぜだか反射的に肯定する俺。ボク神様は不思議そうな顔で俺を見上げ、そしてようやく身体を離した。その白魚のような手が、流れるような動作で俺の両手を掴む。また手のひらから、不思議と落ち着く暖かさが伝わってくる。


「……アハシマ兄の件があってもか?」

「それもひっくるめて、少なくとも不幸だなんて思っちゃいないよ」

「お主には何のとがもないところで、人類の命運を、未来を背負わされたのだぞ?」

「うーん」


 俺はアマテラスの喉元あたりを見ながら少し考える。


「その経緯については一言も二言も申し上げたいところなんだけどさ、でも、やっぱり現状に対して不幸とかそういうのはないよ」

「ふふ……」


 ボク神様は目を細めた。それまでのやや幼い印象が、一気に大人びてくる。


「やはりお主は不思議な男。アハシマ兄上が……いや、母上が選んだ理由というのは、存外そのようなところにあるのやもしれぬな」

「迷惑な話だと思うよ、ほんと」


 でも、姉ちゃんやリオとここまで想い合えたのは、アハシマたちのおかげ(?)だし。恨み言ばかりというわけではない。


「……ん?」


 その時、アマテラスは不意に険しい表情になって、鋭い視線で空を見上げた。俺もつられてその方向を見る。


「……なに、あれ」


 思わず口から出たのは、そんなありきたりのフレーズだった。


 紫色の煙のような。紫色の蛇のような。それも飛び切りに巨大な……たぶんガンダムくらいはある(お台場のは直接見たことはないけど)。


黄泉醜女ヨモツシコメ……! はるあきの結界を破ってきたというのか!」

「ええと、それって、イザナミの取り巻きの?」

「そんなところだ。黄泉の国の住人だ」

「それがどうして」


 少なからず動揺している俺氏。だってほら、紫色のオーラを発する超巨大な蛇のような何かが目の前にいて、俺をじっと見ているわけだ。「睥睨へいげいする」という表現は、まさにこのことかと言わんばかりのプレッシャーを感じている。


「どうしてもこうしても、神たる母上ならばともかく、醜女しこめどものような雑魚が、黄泉津よもつ比良坂ひらさかを超えて出てこられたことの方が問題だ」

「それってつまり」

「何らかの方法で黄泉戸大神よみとのおおかみを欺いたか懐柔したか……」


 よみとのおおかみ?


「簡単に言えば、黄泉の国と現世うつつよ狭間はざまにいる大岩の神のことだ。父上が黄泉から醜女どものような悪霊が出てこぬようにと、黄泉比良坂よもつひらさかを塞いだ大岩よ」

「それが、どけられちゃったってこと?」

「……そんなところだろう」


 ボク神様は険しい表情を変えず、紫色の巨大な蛇のようなものを睨み据えている。その蛇の周囲の空間が、ぐにゃりと歪んでいるようにすら見える。青かった空が紫色に変じ、風がまるで生乾きの雑巾のような臭いに変わる。足元はぬかるみ、舞い散る桜の花びらは、まるで鮮血のように赤く染まった。


 蛇の目に当たる場所が、水銀のようにぬらりと光った。


『見ツケタゾ……!』

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