♭2(上) フィクションにありがちな裏話

 気づけば、さっきまで僕の首を締め付けていたロープはちぎれていて、僕は自宅の床に横たわっていた。

「……っ」

 体がまともに動かない。多分首を吊っていたせい。頭も痛い。

 僕は昨日、彼女と別れた。僕なんかには彼女を幸せにすることはできないと思ったから。ただそれだけの理由。彼女と別れなければ世界が滅んでしまうとか、彼女が僕を殺そうとしていただとか、そんなフィクションにありがちな裏話なんてものはない。単なるエゴなのかもしれない。でも、本当に彼女には幸せになってほしいんだ。彼女にふさわしい誰かが世界にはいるはずだ。それは僕なんかじゃない。僕なんかに構っていると、将来はずっと不透明のままだ。だから僕は、彼女が僕に縋ることがないように、首をくくった。ロープにぶら下がったまま気を失って、気がつけばこうやって床に横たわっていた。

(今、何時だ……?)

 彼女が出て行く時にちゃんと閉まっていなかったんだろうか、玄関の方から光が溢れる。目だけを動かして、部屋の中の薄っすらとした暗闇を視線で探る。でも、時計のある方を見ても、暗闇しかなかった。薄暗い部屋の中、そこにだけ真っ黒な暗闇があった。

「……ぇ……?」

 よく見てみるとそれは人のような形をしたシークレットだ。

(……彼女がまだそこに……? いや、それはないか)

 僕の絞首中、昨日別れたはずの彼女がこの部屋にやって来た。自殺する人間として、自分の死体が早く発見されてほしいから、部屋の鍵は開けっ放しにしていた。僕は彼女の訪問の音だけを聞いていた。彼女に僕を諦めてほしいから。……だったら、

「だったらこの影は天からの迎えか、それか僕から搾り出た闇かな」

 かすれた声で独り呟く。すると何かが軋む音がして、

「……残念だったな。どちらも違う」

 人間とは思えないほど低い声が返ってきた。僕は思わず、

「……ふっ」

 笑ってしまった。

「ははっ……幻聴まで聞こえるようになったか」

 それはただの独り言のつもりだったのに、また返事が返ってくる。

「幻聴ではない」

 僕はすぐに言った。

「幻聴じゃなかったら何なんだよ」

 少し強気な口調で。不思議と、謎の声への恐怖なんてものはなかった。暗闇から再び声が返される。

「俺は、死神だ」

 真っ黒なそいつはそう言った。

「死神、ね」

 僕はそう呟いた。はなっからこいつが死神だなんて信じてはいない。ただの盗人ぬすっとか何かだろうと思っていた。

 その時だった。突然、ドアの隙間から風と雨音が吹き込んできた。部屋の中の締め切ったカーテンが揺れて、一瞬、暗闇が消えた。一瞬、シークレットの正体が、声の主の姿がはっきり見えた。骨だけの体にローブを羽織っていて、その手には大きな鎌。本や絵でよく見る死神の姿そのものだった。

「あんた……本当に死神だったのか……?」

 返事はすぐに返ってきた。

「だからそう言っている」

「それじゃあ、天からの迎えじゃないって、一体……」

 僕は本当に驚いていた。ありえないものが目の前に立っていたから。だけど、決して恐怖なんてものはいだかなかった。

「訳あってもう人間を死へと導くのはやめたのだ」

「それじゃあ……死神とは言えないんじゃ」

 僕の声は少し震えていた。多分、信じられない状況に直面しているから。

「お前は、」

 死神が言った。

「お前は人間をやめようと思ってやめることができるのか?」

 はっとした。

「……確かに、できないな」

 僕がいくら人を殺したところで悪魔になんてなれない。

「そうであろう。人間が生物の域を超えたところに到達しても神になどなれないのと同じだ」

 死神はただ坦々とそう言った。

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