第16話
翌朝、朝食を終えたレスティナは食後の茶を飲みながらクロエからの報告を受けていたが、気になる言葉が出てくるとカップを口に運ぶのを止めた。
「呪われた湖?」
「姫様も噂は聞いた事はあると思いますが、ネグレスとの国境に広がるラシーニャ湖の事です」
「過去に何人もの人間が、姿を消しているという湖だな」
「ええ、と言っても、1番新しい記録は18年も前の事ですが」
それを聞いたレスティナはこめかみに指を当てながら、以前その事例を文献で目にした事を思い出す。
「確か、当時のネグレスの第一王女が、忽然と姿を消した。だったな」
レスティナの言葉にクロエは頷くが、その表情は感慨深げなものであった。
「その方は、類稀なる強い魔力を持つ人物だったと聞いておりますが、その様な方ですらそんな目に遭うとは意外ですね」
「おかげであの付近には、人は寄り付かなくなっているハズだが?」
「今や禁足地となっておりますからね。しかし今回ヒンデルグの軍勢が、そのラシーニャ湖の方角から現れたという証言する者が多くて、これは調べておく必要があると思われます」
「そうか」
そう返事したレスティナは、今度は顎に手を当て考え込む。
「よし、私も行こう」
「それはなりません。危険過ぎます」
クロエの表情は険しいものに変わるが、それに対してレスティナは不敵な笑みを浮かべた。
「なに、偵察するだけだ。それに場合によっては奴らの裏をかけるだろ」
「つまり、そのルートを使ってヒンデルグに攻め込む。という事ですか?」
「そうすれば、膠着した状況を打破できるかも知れない。やってみる価値はあると思うが」
その言葉にクロエは息を吐き、諦めたような表情を見せる。
「分かりました。どうせ姫様は言い出したら聞かないですから」
「それは信頼できる部下がいるからな。おかげで多少の無理は利く」
そう言って笑みを浮かべるレスティナに、クロエは呆れたような表情を向けた。
それから出発準備を終えるまでに大した時間はかからず、広場に召集された部隊が最後の点検を行っている中、ジュリアが見送りに現れる。
「無茶しては駄目よ」
「分かっております。姉上」
レスティナがそう返すと、ジュリアはレスティナをハグし、その視線を傍に控えているクロエとオルハンに向けた。
「クロエにオルハンも、妹を頼んだわ」
ジュリアの言葉に、クロエとオルハンはそれぞれ頭を下げ応える。
その様子を皇帝であるノーランは城内の部屋から見守っていたが、閣議の準備が整ったとの報告を受けると、君主の役目を果たすべく部屋を後にし、レスティナ達が出発するのを見届ける事は出来なかった。
帝都エレイシアを発った一行は順調に行程をこなし、目的地であるラシーニャ湖にはその日の夜遅くには到着する事が出来たものの、念の為に日が落ちてからの行動は控え、湖に一番近い村で一晩過ごす事にする。
そして、翌朝日が昇ると同時に行動を開始すると、太陽が高い位置に来る前には湖に到着する事が出来た。
ラシーニャ湖は山と山に囲まれた辺鄙な地であり、更には禁足地となっている為、当然湖の付近には人の気配はなく、草木も自然のまま生い茂っているものの、不思議と鳥の鳴き声一つしない為に、不気味な程静まり返っている。
一行は道なりに馬でゆっくり進んでいたが、先頭を進むオルハンが何かを見つけて下馬する。
「見て下さい」
レスティナとクロエも下馬し、オルハンが指差す地面を見ると、そこにはいくつもの足跡と
「明らかに最近のものですね」
「よし、馬をつないで、この足跡がどこから来ているか辿ってみるか」
一行は馬をつなぐと地面をくまなく調べ、その足跡が続いている方向へ歩き出すが、それは間もなく途絶えてしまう。
「どういう事だ?」
レスティナの視線は湖に向かっており、足跡は全てその湖から現れていた。
「まさか船で移動して来たのか?」
「それこそまさかです。この湖は周りの山々からの雨水や雪解け水が流れ込んで出来ている湖ですし、むしろ川はユークリッド領に向かってしか流れていないですから、船を使うとしても、湖の端と端を行き来するだけですよ」
オルハンの言葉をクロエが否定するが、実際に湖の大きさから考えても、船を使うよりは迂回する手段を選ぶはずで、船を使う必要性は考えられなかった。
「もう少し調べてみよう」
レスティナの言葉に皆は湖の周りを調べる始めるが、すぐに分かった事は、足跡は湖からユークリッドへ向かう方向にしか確認出来ず、湖を迂回した様子はなく、もちろん船で湖を渡った形跡もなった。
「そうなると、湖から湧いて現れたのか?」
オルハンはそう口にしたものの、思わず自分の言葉に苦笑する。
「湖の底がどこかと繋がっている可能性は無いのか?」
「湧く、繋がる」
オルハンとレスティナの言葉に、クロエは目を瞑り考え込んだ。
「どうしたクロエ?」
「いえ、まさかとは思いますが」
その後に何かを言おうとするが、クロエはそこで口篭る。
「どうした言ってみろ」
「現時点では確証が無いので、絵空事の様な話ですが」
「構わん」
レスティナの言葉に対し、クロエは形式的に頭を下げる。
「転移術なら、説明はつきます」
「転移術ならクロエも使えるではないか」
「私の場合を含め、現在の術師が使うのは自分のみが移動するものですが、古代魔術には大人数、つまり軍隊規模も転移できる術があったと聞きます」
クロエの言葉に周りにいた者はざわつくが、レスティナは動揺する事無くクロエを見ていた。
「しかし古代魔術など一昔前に法王に禁忌とされているし、今の世では失われた術式として、すでに使える者がいないのではないか?」
「ヒンデルグにその術を使える者がいたら、と仮定して私は探ってみます」
レスティナはその言葉を聞いて、今一度湖を見渡すが、風が止んでいる事もあり、湖面は鏡の様に周囲の景色を映しているだけである。
「分かった。しかしそれが本当なら、禁忌の術を使ったヒンデルグに対して、ネグレスはおろか、シデリアをもこちらに取り込める可能性が出てくる」
「本当ならですよ。まだ現時点では仮定の話ですから」
クロエがそう言うと、レスティナは静かに頷くが、すぐに皆に向き直った。
「よし、皆でこの湖を徹底的に調べてみよう」
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