第114話 ロスト
教室に空席が一つ。
そこは彼の席だった。ぐっと手を伸ばせば肩に触れられるほどの距離に彼はいた。でもどこか遠くへ行ってしまった。何も告げずに。
夏休みが終わっても彼は目覚めなかった。
病気のことはよくわからなかったけれど彼は脳虚血によるダメージで昏睡状態に陥ったことだけわかった。回復の見込みは低く、医師は覚悟しておいた方がいいと榊木家に伝えたそうだが彼は一ヶ月経った今でも存命している。それでも彼が覚醒する兆候は微塵もなかった。
「彗のところには行ったのか……?」
高根真琴が私に恐る恐る訊いた。
「えぇ」
「その……彗は助かるのか?」
「絶対に助かるわ」
「そうか……」
「彼の親友なら信じなさいよ」
いま彼のために出来ることは何も無い。ただ手を組んで必死に祈るだけ。それだけしかできないからとても悔しくてどうしようもない気持ちになった。本当に出来ることがない。
面会には制限があるので頻繁には行けなかった。それに他人である私が何度も訪れることは彼の家族にとても迷惑がかかると思う。
だから私は黙って祈った。
彼の声をまた聞けますように。
彼とまたお話しできますように。
そうして祈ることでふらっと彼が現れるんじゃないかなと思って、私は毎日強く願った。
彗が倒れた話は瞬く間に広がったが時間とともに彼について話す人は減っていった。悲しいというより腹立たしかった。でも気にしている人はちゃんといる。
「先輩。彗先輩が倒れたって本当ですか?」
図書室で勉強していた私のもとに後輩の中谷拓くんが現れ、ひそひそ声でそう言った。
「えぇ。そうよ」
「マジだったんですか……彗先輩は今も昏睡状態なんですか?」
「そうじゃなかったら登校しているわ」
「そんな……なんでよりにもよって彗先輩がこんな目に……」
「しょうがないわよ。誰かの悪意でも事故でもないもの」
そう、誰のせいでもない。彼は彼自身と闘っているのだ。そうはわかっていても私は怒りをぶつけたくて仕方がなかった。中谷くんが言ったように、「どうして彼をこんな目に合わせるの!」と怒鳴りつけたい気持ちはいつも心にあった。意味がないとわかってても。
「先輩は、彗先輩が好きなんですよね……?」
彼は後ろめたそうにそう言った。
「そうよ」
私は短く答える。
それは中谷くんに向けた回答でもある。彼からの好意は中学の頃から感じていた。彗が私の傍から消えたことで多少なり期待したのだと思う。だからと言って責めるつもりはなかった。だって人間なのだからそのくらいのいやらしさは当然だから。
彼だけではなく、他の男子も考えていることは同じだったようで私への同情を装ったアプローチが増えた。彗の容態を私に訊き、そしてすぐ脱線して私に焦点が向けられる。
彼を話のネタにしていることがひどく不愉快だったけれど私は適当に相槌を打って穏やかに流した。私が激怒して罵声を浴びせれば彼が悲しむと思うから。彼が私のためにしてくれたことを台無しにしたくなかった。
「アリナさん。お見舞いありがとうございます。兄ちゃんも多分喜んでいると思います。多分ですけどね」
宇銀ちゃん立ち会いのもとで面会を許可され、私は静かな病室に入った。
こうしてみれば静かに眠っているようにしか見えない彼だが酸素吸入チューブや心拍モニターが私をぞっとさせた。前に見た時よりも少し痩せた気がする。彼の生気が失われていっているんじゃないかと思って私の心拍数は上がった。
宇銀ちゃんは椅子に座って彼を静かに見つめた。立ち尽くしていると彼女は椅子を用意してくれて私に座るよう促した。
「兄ちゃん、倒れる数日前からちょっとおかしかったんです。だるけと頭痛がするって言ってて、呂律がうまく回ってなくて首を傾げてました。後からわかったんですが、失語症っていう症状でした。怖いですよね。自分の『言葉』を話すこと、読むこと、書くことの全てが徐々に失われていくんです」
言葉が失われる。
その強烈なワードに私は閉口した。
「穴だらけの言葉になった兄ちゃんの最後の言葉、なんだと思います?」
「なんだったの?」
「『と、じ、てえな』。わかりますか?」
「……いいえ」
「トマトジュース飲みてえな、ですよ。本当にウチの兄ちゃん馬鹿ですよね!? 本当にもうっ――いつもみたいに冗談だったらいいのに――」
宇銀ちゃんはから笑いをしてすぐ静かになった。彼女の寂しげな背中が見ていられないほど残酷だった。二人とも黙り込んで静止する空間の中でモニターに映る彼の脈だけが動いていた。
彼はまだ生きている。しかしいつまでかは誰にもわからない。
病室を後にして宇銀ちゃんとの別れ際にこんなことを言われた。
「アリナさん。兄ちゃん、ダメかもしれないんですよ。勿論そうならないことを信じていますが、可能性は高いです。なのでよく考えておいてください」
兄の死の可能性を堂々と明言する宇銀ちゃんのその姿にびっくりして私は口が開かなかった。現実的な性格がとても彼に似ていて、そしてその覚悟の強さに恐怖すら覚えた。普通なら縁起が悪くて絶対に口にはできない。でも彼女は恐れず言った。
「でも、きっと大丈夫ですよ。愛は理論を超越しますから」
意地悪に微笑む表情がまた彼に似ていた。
彼と出会っておそらく一年が経った。つまり秋になった。センター試験の出願も終え、数ヶ月後には年が明け、受験が始まる。
彼の意識は未だ行方知らずで進展はない。むしろそれはそれで安心する。進展があった時は覚醒したか最悪の結末のどちらかしかないから。後者は考えたくもない。
文化祭の話が上がってきて、私は去年の文化祭のことを思い返した。その思い出に彼の姿は無い。ノートには彼と校内を回ったと書かれていたがそんな記憶は一切なかった。彗についての記憶も戻らないし、彼の意識も戻らない。まるで透明人間が私たちを引き離そうとしているようにしか思えない。
自分の運命を呪った。
彼の意識は冬になっても戻らなかった。
そして着実に日常の一部となっていった。
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