第95話 うそつき
アリナが二重人格者であることを鶴は知らない。記憶喪失だったことも、過去のすべても。
記憶を取り戻したのなら鶴に打ち明けたこともあるかもしれないが、鶴の様子を見る限りそれはなさそうだ。親友であろう鶴にさえ明かしていない。
だから鶴にはその秘密を教えないと決めた。
「泣くなって。らしくないぞ」
「泣いてないし」
「じゃあその目から流れる液体は何だよ」
「カルピス」
「まあ。おじさんびっくり」
袖で涙をぬぐい、赤く腫れた目尻があらわになる。若干充血しているので相当泣いたようだ。
「いきなり怒鳴るなんて最低」
「すまんすまん」
「怖かったからね!? もーッ!!!」
「落ち着いてください。机を揺らさないでください」
彼女は長机を掴んで荒々しくガタガタと揺らした。何度もみぞおちにぶつかり、俺が痛みで呻いてもお構いなしのご乱心で制御不可能だった。
理不尽に暴力を振るわれる長机君が可哀想だ。君だってこんな扱いをされるために、人間の手によって切断され、加工され、死してなお朽ちて土に還らず存在し続けるとは思ってもみなかっただろう。
不憫に思い、俺は長机君を両手で掴み、抱きしめてこの不条理な現実が鎮まるまで耐えた。
「はぁー……」
「よし、体力が尽きたな」
「この馬鹿力……」
「それで。才女の二渡鶴さんは何を考えてるんだ?」
「アリナの現状を細部まで調べ尽くそうと思う」
「というと?」
「彗のことは完全に忘れていることはわかった。でも私たちのことは覚えているみたい。もし彗だけがアリナの中から消えているなら、彼女にとって彗が特別だったってことしか考えられないよね?」
「内心、俺を死ぬほど憎んでいたから忘れたってことか?」
「馬鹿。本当にそう思ってるのなら救いようがないくらい馬鹿。記憶喪失の類になると思うから正直原因なんてわからない。頭をぶつけたのかもしれないし、辛いことがあったからかもしれない。だからこの際、原因はどうでもいい」
鶴は足を組み、真剣な表情で言葉を続けた。
「極論。彗を思い出させるために自然な流れでまた出会ってもらう」
俺はすぐ否定した。
「ダメだ。アリナとは関わらない」
「また振り出しに戻る気? なんでそこまでアリナを避けるの? なんで? 何を隠してるの?」
「アリナにとって知られたくない事情があるんだ。アリナがお前に明かしていないのなら俺の口からは話せない」
「どうしても言えない?」
「ああ。絶対に」
「また机揺らすよ?」
「いくらでもどうぞ。揺らし始めたら今度は君を抱きしめて動きを止めてやろう」
「ふうん。全力で抵抗するよ?」
膠着状態が続き、沈黙が場を包んだ。
虎のようにお互い睨み合い、固く口を閉ざす。空中で火花が散りそうなくらい相手の瞳を焼く勢いで睨みつける。
一歩も引かない鶴に俺から提案することにした。
「鶴。もう一度言うが、このままでもお前たちの日常は変わらないんだぞ。いつも通りアリナと接することができるし、学校生活で困るようなことにもならない。よく考えてみろ。高校を卒業して、一体何人の同級生と連絡を取り続けるんだ? まさか全員じゃないよな。それっきり、が大半だ。それが前倒しになったと考えられないか? しかも鶴自身の問題じゃなく、俺のことだぞ」
「じゃあもうアリナとこれっきりで良いっていうの?」
「あぁ」
「もー!!! 嘘がヘッタクソ! アリナの為っていうけどそれ自己犠牲のつもり!?」
「自分を犠牲にしているとは思っていない」
「だったら『アリナを忘れたいくらい辛い』だなんて言わないでしょ!! このクソ巨人族!」
ごもっともなご意見に俺は閉口した。
鶴が怒るのは無理もない。鶴が言っていることが正しいこともわかってる。
秘密を教えれば鶴は納得するだろう。
そして謝ってくるかもしれない。まさかアリナが過去に辛い思いをしていただなんて予想もしていないだろうし、その過去を訊き出そうとして俺を叱咤したことを後悔してしまうかもしれない。必要のない謝罪を一方的にされても申し訳ない気持ちになるだけだ。
引き戸の音がした。
行き詰った俺たちの意識は引き戸の方へ集中した。
僅かに開いている。握りこぶし一個分ほどの隙間だが、確かに今聞こえたのだ。鶴も無言で頷いて同意する。
「どうぞ」
鶴が声をかけた。しかし返事はない。
怪奇現象に俺たちは首をかしげて言い争うことを忘れた。幽霊は信じていないが実際に奇妙なことを体験すると「まさか」と思ってしまう。もし出てきたらトマトをぶん投げてやろう。あ、バッグにトマト無いや。というかあるわけがねぇ。
「ごめんなさい。いるとは思わなくて」
アリナがそろーっと顔を出して現れた。
一つ気になることがある。
それは榊木彗という男子生徒のことだ。
半月以上前くらいに電話をして以来、彼とは一度も関わっていない。以前の私は彼のことが大嫌いだった、と彼が言ったことが原因だ。
何度か話しかけてみようと思ったけれど彼は私を見ようともしなかった。もし彼も私のことを嫌っているとしたら、やっぱり話しかけられない。
でも彼が嘘をついているのはすぐわかった。
私のノートに書かれている――彼についてのページには嫌っているような表現はなかった。彼に関することを書いた記憶は無いから不思議な気分だった。
むしろ榊木彗のことはとても好意的に書かれている。自分で信頼できる人と評価したのに嫌うはずがない。スマホにも彼との通話履歴もたくさんあったし、メッセージもあった。私が彼を嫌っているとは到底思えない。
だからなぜ彼が嘘をついているかという疑問が私の胸で渦巻いている。
ノートとスマホの情報を集めてわかったのは、彼が私のためにとても尽くしていたということだ。私の記憶喪失、二重人格を治そうと手伝ってくれていたらしい。
友人にはそれを秘密にしている。知っているのは母、榊木彗、赤草先生、鹿沢口先輩だけだ。
記憶をたどって彼の影を探すとたくさん残っていた。でも彼の中身が全然思い出せない。彼がどういう人で、どんな顔をしていたのかも霧がかかっているかのように見えない。だから謎の人物と行動している自分の記憶が少し恐ろしかった。
「アリナさーん。どこ行くの?」
白奈がテニスウェア姿で私に声をかけた。
「ちょっと気になることがあって。元職員室に」
「あ~、あそこね~。彗と?」
「違うわ」
「気を付けてね。何かされそうになったらすぐ電話して!」
「大丈夫よ」
私はそう流して白奈と別れた。榊木彗を忘れたことはなるべくバレないようにしている。ぼろが出そうになるときはひやひやするけれど意外とバレない。
白奈の言動からわかる通り、やっぱり私は榊木彗のことが嫌いじゃなかったと確信した。ならどうして彼は私にあんな嘘をついたのだろう。不思議でならなかった。
彼との断片的な記憶の中に、元職員室がぼんやりと浮かんだ。私が持ってきた母のプリザーブドフラワーとそこで読書をした記憶がある。彼がそこに居たかは覚えていない。
つまりこれは白昼夢のような記憶だ。私の記憶が正しいかどうかを確かめるためにも行ってみる価値がある。自覚していない記憶喪失を更に見つけるためにも。
そう思い、私は元職員室へと向かったのだ。
元職員室に着き、私は既視感を覚えた。確か、ここで体操着に着替えたような気がする。髪をまとめて、下着をカバンに収納した覚えがある。なぜ曖昧なのだろう。
引き戸に手をかけたとき、中から人の気配がした。生活音というか、靴が床と擦れる音だ。誰かがいる。まずい現場に遭遇したかも、と私は思い、立ち去ろうとしたときに中から鶴の声がした。
「どうぞ」
なぜ鶴がいるのだろう。もしかして鶴の彼氏と一緒に青春の密会……!? ダメでしょーッ! 風紀は守りなさい! 学校はダメ! あれ、じゃあ学校の外だったら……? うぐ、とにかくダメーッ!
好奇心に負けて、おそるおそる覗いた。
「ごめんなさい。いるとは思わなくて」
鶴と、目を見開いて驚く榊木彗がいた。
私は彼と約一ヶ月ぶりに目が合った。
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