第84話 エキセントリック
赤草先生が異動するという根も葉もない噂話を真琴から聞いてから数日が過ぎた。未だ俺は漫然とした不安の中でそわそわと落ち着きなく日々を過ごしている。
アリナの更生プログラムは年始の初動の忙しさもあって中断しているため彼女とは廊下ですれ違うくらいで言葉は交わさなかった。
実を言うと挨拶程度に交そうと目を合わせた。しかし俺が口を開く前に彼女は「どうして生ゴミが二足歩行できるのかしら」と眉をつり上げ、非難の目をして俺を閉口させた。
いつもの毒舌で特に驚くことも気に悩む必要もないのだが、いつもの調子ではない俺がジョークを飛ばさなかったことに少々アリナは訝しげな表情を刹那浮かべた。そこで「どうしたの!? 大丈夫ぅ!? ちょっとおでこ触るよぉ?」とあざといアクションをしてくれれば良いお薬になって元気百倍になるのに。期待したところで殴られるのがオチなので思考シャットアウト。
授業合間のトイレ休憩。
どばばばばばばと小便器にレモンジュースをぶちかましていると真琴が隣の小便器に立った。一つ以上小便器を挟んで距離を置くのがマナーである男子トイレの暗黙のルールを、堂々破った彼の行為に物申したい俺の気持ちを男子諸君なら分かるだろう。女子諸君にはわかりにくいだろうから例えを提示しよう。
あなたは今お洒落なカフェにいる。周りはマッキントッシュを開いたり、読書をしたりと優雅で博識な雰囲気を醸し出してコーヒーを愉しんでいる。あなたは全面窓の席にいて、窓外の街を眺めている。しかしその横並びの席にはあなただけしか座っていない。そのときあなたの隣に見知らぬ人物が座った。ほかに席があるのに! わざわざ隣に! どうして!
という話であるがよくよく考えてみれば真琴は見知らぬ人物ではなく一応友人だ。隣に立つことは別段気にするわけでもないが、でもトイレで隣に立つかァ? ちらっと横見たら見えるかもしれないだろ? 恥ずかしいだろ。
「小便と一緒に魂も出してるんじゃね?」
真琴がそう言った。ここ数日の無気力な俺への風刺だ。彼なりの軽い冗談だろうが甘いな。
「ノー。健康のために血を出してる」
「え」
そんなバカなーと笑い飛ばさず、彼はマジだと思っらしく、ずいっと俺の方を覗き込もうとした。
「バカ、冗談だ。想像しただけで気絶するっつーの」
「グロォー……」
トイレを出て、手を洗う。まだまだ水道水はキンキンに冷えていて洗うだけでも辛い。
「なぁ。噂レベルだから気にするなよ」
「なんの話だ」
「赤草先生の異動の話……」
「ただの噂だと信じている。俺が卒業するまで異動はないと信じている。この噂の最初の発信者は罪悪感に苛まれ、俺の元へ自首しに来ると信じている」
「ウワァ……もう手遅れだぁ……」
手遅れではないと信じている。
昼休みもいつも通り真琴との食事会。マジで流歌と飯食えよ。
「彗は来年の今頃センター試験で苦しんでるんだろうなぁ」
「無事、大学に行けることを信じている」
「俺は専門だからある程度頑張れば大丈夫だけどさ」
「料理の道に進みたいんだっけか、お前は」
「そうそう。和食系」
「すげーなー。俺は料理ができん。目玉焼きでさえ焦がしてしまった。難易度高すぎるんだよな。その点お湯で出来上がるカップ麺最強」
「油忘れたんじゃないの……?」
「わかんね。妹からは『二度と卵を触らないで』って言われちまったよ」
忠告はされたがその後隠れて、土日に自分なりの飯を作ってみたら意外とできた。フライパンに米、めんつゆ、卵、肉、キャベツをぶっこんで適当に炒め、その後マヨネーズと焼肉のたれをぶち込んで完成。料理名は不明だ。カオス丼でも何でもいいがとにかく死ぬほど美味い。
彼にこのカオス丼のことを言ったら冒涜の二文字を貰いそうな気がしたので料理できない系男子でいることにしよう。
「じゃあ料理のうまい人と結婚しないと彗はすぐに生活習慣病とかになっちゃうね」
「独身貴族なんだが」
「いいよ、恥ずかしがらなくて。俺は彗が金髪の黒ギャル連れてきても何も言わないから」
「お前は俺の母親か。金髪ギャル大好きです」
結婚といえばもう法的には同級生の女子は結婚できるのだ。女子高生と結婚とかもう響きがアレだよね。破廉恥だよね。しかし全然他人事ではなく、俺たち男子も今年で結婚できる年齢になるのだ。
なんとも現実味のわかない話だ。経済力皆無の高校生がなぜに結婚するというのだ。ああ、愛ってやつですか。愛なら時空すら超えられるってか。それなら俺も時空を超えてプレアデス星団に行って宇宙人探ししてぇよ。
飯を食い終わり、またも尿意がこみ上げてきた俺はトイレへと向かった。十七歳にして高齢者並みの頻尿に若干の焦りを感じた。小走りで歩く最中、女子トイレからとある女子生徒が出てきた。
「あっ。榊木くんだ」
「ん?」
ハンカチで手を拭くポニーテール少女。忘年会で出会った麦山華彩だ。高身長でカッコいいよとお世辞でも嬉しいことを言ってくれたチアガールである。
「おっす。あけおめ」
「あけおめ。どうしたの、慌てて」
「お花を全力で摘みに行くところですよ」
「あ〜あ。おしっこね〜」
なんだと。おしっこだと。
女性への配慮としてわざわざ隠語を使ったというのに、おしっこだと。いいのか、これ。全国のJKの方に問いたい。羞恥せずのおしっこ発言は普通なのか?
「あぇーっと。はい、そんな感じで」
「我慢するのも楽しいかもしれないけど身体に悪いから早く行ったほーがいーよ?」
我慢するのがタノシイダト? このポニーテール少女はおしっこを我慢することを楽しむタイプの人種なのか? どこの国の人だよ。
ちょっと待てよ。これは普通じゃない。普通じゃない俺が判断したのだからこれは普通じゃない。
「失礼ですが、我慢――とは?」
「えー。きゅっとこう、我慢すること。楽しくない?」
知らねえよわかんねえよさっさと出しちまえよ。
俺はわかってしまった。麦山華彩は壊れているタイプだと。俺のような変人に部類する異端児だと。
忘年会の時、俺を揶揄しない聖女にやっと出会ったと思った。残念ながらあれは彼女のほんの氷山の一角だったようだ。正体は変態だった。
「膀胱刺激してあげる?」
「いやいいっす。死んじゃいます」
「残念」
やべーやつだよこいつ。たぶん俺よりやべーやつだ。ママ、この人変態だよ。絶対宇銀に近づけちゃいけないヒューマンだよ。
トイレに駆け込んでどばばばばばとまたレモンジュースを出した。弛緩してゆく肉体と精神。
冷静に華彩さんとのやり取りを分析をしてみても答えは『変態』に尽きた。変態女子高生って存在するんだな。
おそるおそるドアから顔を出して廊下に華彩がいないことを確認してからトイレから出た。異端児と渡り合う心構えはまだできていないので得意のジョークをとばせない。あっという間に彼女に主導権を握られてしまうだろう。
とんだ強敵に出会ってしまったものだと戦慄した。教室に戻る前に売店に向かい、パン奪取戦争に参加することにした。夏ほど部活動は活発ではないのでパンの奪い合いも落ち着いている。
悠々と俺は目当てをゲットすることができた。ゲットできたこともよろしいのだが痴漢疑惑をかけられないのも素晴らしい点だ。過去に何度か指をさされて「痴漢!」と不名誉な呼ばれ方をされ、弁解した苦々しい経験がある。その労力は明らかにパンのカロリーを超えていたと思う。
高校に警察組織的なグループが存在しなくて心底良かった。あれ、風紀委員ってそれじゃね? そういや「風紀委員に言いつける!」って言われたこともあるな。つーか俺より麦山華彩を通報しろよ。絶対風紀乱してるぞ。
放課後になって掃除が始まった。うちの第二分隊(二班)は廊下の掃き掃除なので箒が武器である。さっさと終わらせたいので箒を持って戦場(廊下)に散らばる空薬莢(ゴミ)をせっせと掃いた。今の時期廊下はハズレだ。とにかく寒い。ちなみにアタリは暖房の効いた教室である。貴族と貧民との格差というやつだ。
ちょうど隣のクラスのハズレくじを引いたやつもガチガチ震えながら箒を持って掃除をしていた。日羽アリナである。
「お前、本当に寒いの苦手なんだな」
黒ストッキングで生足を包み、首もマフラーで包んでいるから彼女の素肌は手と顔しか露わになっていない。
「私たちにもズボンを履く権利が欲しいわ。鶴を脅せば校則は変わるかしら」
「俺たちのロマンが無くなるから是非とも寒さに耐えてほしい。がんばれ」
「死ね」
そんなガクガクのか弱い姿で生命途絶文句を言われても何も怖くなかった。寧ろ手を叩いて「はいもっと声出してッ!」と熱血音楽教師のごとく励ましてやりたいくらいだ。ちなみに俺は中学で音楽が嫌いだった。無理矢理歌わせるあのスタイルが嫌いだった。卒業前に蹶起を起こそうとも思ったくらい。チキンだからやらなかったけど。
そんな調子のいい俺に苛立ったようで、彼女は得意の精神攻撃を始めた。
「赤草先生が異動するって話を聞いたのだけれど。どんな気持ち?」
この鬼め。俺がここ数日気に病んでいた話題に触れてきやがった。やはり日羽アリナは人の傷口に塩をつけるだけでなくタバスコを塗ったくるような性格をしている。コンプレッサーで強烈な風を届けてやりたい。
「なんとも? なんとも思ってませんよ?」
「悲しいわよね。あんたの憧れの先生が居なくなるんですもの。悲しいわね?」
「ぐっ。悲しくないぞ? 次はどんな美女が来るのか楽しみだ」
「そうね。赤草先生は他校に行って、もしかしたらそこで運命の若い男性教師と出会うかもしれないわね。それはそれで先生にとって幸せね」
「ヤメロ……ヤメロ……」
「幸せになってほしいわ。私も憧れるわ」
「お前には蛇がお似合いだ。毒持ち同士仲良くやれ」
「戸籍抹消するわよ」
こいつに国家権力を握らせたら暗黒時代が到来するだろうな。
一方は寒さで震え、もう一方は不安で震えるこのやり取りに新聞部長の麻倉斗真が割り込んできた。
「ちょっといいか!」
「相変わらず元気のいいやつだな」
「頼み事なんだが!」
うおーっと両拳を突き上げて斗真は俺たちに元気いっぱいでそういった。
「またネタ収集を手伝ってほしいんだ! 今日時間あるか!?」
帰宅部生活に戻っている俺は何も予定がないので時間は腐るほどある。俺はアリナをチラッと見ると目があった。彼女は小さくこくんと頷いた。
アリナ更生の一貫でなんでも屋的なことをやっているため、彼女が断れば了承しないつもりだったがどうやらヤル気らしい。それなら受けて立とう。
「大丈夫だ」
「おし! じゃあ掃除が終わったら新聞部に来てくれ!」
「おう」
斗真は教室に戻った。温室勝ち組掃除だ。
「じゃあ掃除が終わったらお前の教室に行くわ。待ち合わせとか寒くて死ぬとか言いそうだし」
「わかってるじゃない。待ってるわ」
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